県道286号の男  〜「坂道の効果に関する最新知見」番外編〜

 自転車を引いて、長く細い坂道を登る。
 ずり落ちてくる自転車を支えながら、僕は坂道を見上げた。通学路で一番の難所のてっぺん、歩道のど真ん中に立つ男の背中。彼は、いつも僕が一休みしている場所を、仁王立ちで占領していたのだ。
 彼自身は立ち止まった僕には気付く様子がない。神妙な顔でうなずくと、こちらに背を向けたまま坂道を下りていった――と思うと、再び戻って来る。そんな奇行を、彼は少なくとももう七度は繰り返していた。彼が上り下りしている側は、僕が時間を掛けて登ってきた方とは比べものにならないほどきつい坂にも関わらず、だ。
 一人で坂道ダッシュの修行なのか、坂道学会の会員か。はたまたただの坂道マニアか、単なる変態なのか、人生経験浅い高校生の僕には判断が付かない。ただ、この人がやばいというのは判る。
 最初のうちは声をかけて避けてもらおうかと思っていた僕も、さすがに五度目を確認したあたりからは、ここは諦めて引き返すという選択肢へと傾きつつあった。彼の十度目の下山が始まったのを機に、僕は自転車を方向転換させるべく、ハンドルを握る手に力を入れる。
 男の悲鳴が聞こえたのは、ちょうどその時だった。
「うわあぁ」
 妙な声を上げ、男は坂の向こう側へと消えた。
 自転車をその場に放り、慌てて様子を見に行ってみると、ごろごろと、きれいに回転しながら小さくなっていく彼の姿が目に入った。やがてそのまま坂を下りきり、両手を投げ出した状態で、男は動かなくなった。おそらく大きなけがはしていないと思うが、無傷とは考えにくい。
 例え彼が坂道好きの変態青年でも、このまま放置するのは人としてまずいよな、と、僕は心の中で呟く。ちょっとだけ躊躇したのち、思い切って叫んでみた。
「だいじょうぶっすか!」
 男はゆっくりと起き上がると、僕を見上げて大きく手を振り、歯を見せて笑った。緊張感のない動作が妙に元気そうに見える。息を切らせてこちらへやってくる青年――ついに坂道ダッシュ十本達成だ――を観察すれば、やせ形で草食系の体躯。見た目からは、坂道学会員の方が似合いそうだ。
 僕の目の前まで来ると、彼は「ご心配をおかけしたようで、すみません」と軽く頭を下げた。僕より十歳くらいは年上だろうか、日本人離れした目の色と少々変わったデザインの服装、それに先ほどまでの奇行を除けば、ごく普通の青年だ。除く部分が多すぎる気もするが。
「いえ、無事そうで良かったっす。……で、そこ、通りたいんで、どいてくれると嬉しいんすけど」
「それはすみません」
 青年はそう謝ったが、身を引くようすは微塵もない。何だかやけに興奮した彼の様子に、僕の方が引きそうになる。頭を下げながら目を輝かせるってのはなかなか器用だ。
「あの、ひとつ聞いてもいいかな」
「はい?」
「この道は、何て言うものなの」
「ミチ?」
 誰が何と言おうと、道は道だろうに。面食らって周囲に答えを探すと、青いヘキサが立っている。白抜きで並ぶ三桁の数字を、僕は読み上げた。
「……県道286号線、ですかね?」
「ケンドー?」
 鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、青年はまばたきを繰り返す。彼が期待した答えとは違ったらしい。
「そうじゃなくて、この、道路が斜めの状態は何というのかを知りたいんですが」
 彼の右手が、けさ架けのように斜め下へと滑る。説明してくれたようだが、正直、ますます何を言っているのか分からなくなった。
 ――坂道マニア、やばいよ。
「あ、怪しんでますね。……まあ、気持ちはよく分かります」
 引きつっていただろう僕の顔を見て、青年は苦笑いする。彼はクロトと名乗り(僕にはそう聞こえた)、人当たりの良さそうな微笑みを浮かべたまま語り出した。
「こういう斜めの道路がないところから来たんです。おれ――僕が住んでるのは、とにかく真っ平らなところなんですよ。斜めに削られた地形ならないわけじゃないんですけど、道路を斜めに造るっていう発想自体がないんです。それで、珍しくて、はしゃいでいたわけで」
「ああ」
 クロトに真顔でまじまじと見つめられて初めて気付いたが、彼の瞳はきれいなとび色だ。ならばきっと、ごく最近に外国からやって来た人なのだろう。坂の上り下りという謎の行動の意味も、初めての坂道をめいっぱい体感したかったのだと思えば、不自然さは八割程度までは減るような気がする。それでも、いまいち腑に落ちない部分は残るけれど。
 さて。
 クロトが知りたかったのは、『斜めに作られた道路』を何と呼ぶのか、だ。それを答えてやれば、僕はこの場から解放され、家に帰ることができる。
「『さかみち』です」
 僕はクロトの後ろへと伸びる下り坂を指差して告げた。クロトは、何度かさかみち、さかみちと確認するように繰り返し唱えた。そして、ふと振り向くと、「坂道ってのは、いいですね」と笑う。屈託のない笑顔に、僕は一瞬だが、坂道学会に入ってもいいかなと思ってしまったくらいだ。
「そ、そうすか? 登りなんか辛いだけっすよ」
「でも、それ以上に下りるのが気持ちいいですよ。登る苦労を忘れてしまうほどに。……こうして、高低差のあるところを当たり前のように歩くことができるっていうのは、幸せなことなんです。君はそうは思わない――でしょうね。まあ、そのうち分かる日が来るかもしれませんし、来ないかもしれませんが」
 クロトはなぜか複雑な表情で語尾を濁したが、すぐに気を取り直したようだった。
「じゃ、僕はそろそろ行きます。戻って、坂道について教えてあげたい人がいるので」
 坂道情報を共有したい仲間がいるということだろうか。いや、そもそもクロトの地元には、坂道というものの存在すら知らない人の方が多そうだ。どう考えても万人受けするトピックスではない。野暮だと思いつつ、僕は尋ねてみた。
「教えたところで、喜ぶんすか」
「さあねえ。ちょっと変わってる人だから、食いついてくれると思うんだけどね」
「相手って女の子だったりします?」
 クロトは、いやあ、とか言いながら頭を掻いていた。なぜそんなに照れるんだ、と突っ込もうとしてクロトを見ると、なんとも幸せそうな表情をしている。
 ――坂道が縁で結ばれる男女、ねえ。
 気付けば、つられて僕の頬も緩んでいた。

 クロトが去った後、僕も坂のてっぺんに立ってみた。いつもは自転車で一気に下る道。眼下に広がる風景はいつもよりもきれいに見え、何度も何度も駆け下りていた彼の気持ちが分かるような気がした。
 僕はおもむろに自転車を停めると、彼がしていたようにスタートを切った。