とおりあめ 【競作小説企画 第五回「夏祭り」参加作品】

「こんなことだろうとは思ったよ」
 人でごった返す砂浜の真ん中で、俺はため息をついた。
 広げたシートに腰を下ろした少女が俺の大げさな吐息を聞いて笑う。彼女は頭上を示した。指の先には、円い影を落とすビーチパラソル。
「戸賀くん、とりあえず日陰にいたら? 泳がないうちから具合が悪くなったりしたら、困るよ」
「ああ。……長くなりそうだもんな、『荷物番』。俺たち、泳ぐ時間あんのかな?」
「そのうち誰か戻ってくるよ。そのとき交代してもらったら?」
「……だったらいいけど」
 俺は海の方を眺め、水辺へと向かった友人たちの背中を探してみた。しかし芋を洗うような混雑の中、同級生たちを見つけることはできなかった。
「だめだな、本格的にどっか行っちゃったっぽい。……北浦、隣いい?」
「あ、うん」
 少女――北浦が座る位置を少しずらしてくれたので、俺も影の中に逃げ込んだ。二人がぎりぎり収まるサイズの日陰。北浦に触れないように、それでもかなり接近して座る。すぐ近くに、真夏の海には似合わない白い肌が見えた。
「戸賀くん、泳いできていいよ。荷物はわたしが見てるから」
「一人だけ置いてったらまずいだろ」
「いいの。こういうのは慣れてるし。……わたし泳ぐの苦手だから、座って待ってていいなら助かる」
 泳ぐのが苦手な彼女がなぜ海に遊びに来ることになったのか、俺にはなんとなくわかっていた。北浦の気持ちを考えれば、強がりを鵜呑みにして彼女を残していくなどとてもできることではない。
「いいや。俺も付き合う」
「そう? ……ありがとう」
 北浦が目を細めた。穏やかで人の良さそうな笑顔だった。
 同じクラスながら、俺は北浦とはほとんど話したことはなかった。いつもおとなしくて、クラスの女子グループの後に付いて歩いている――それが俺が北浦に抱いていたイメージだ。
 今日の北浦はその印象を全く裏切らなかった。
 荷物見ててね、と言い残して水辺へと駆けて行く友人たち。俺が毒づく隣で、彼女は友人たちの背中をただ見送っていた。
 そんな扱いに腹が立たないのだろうか。それとも、もう慣れてしまって心が麻痺しているのだろうか。
 どっちでもいい、代わりに怒ってやろう――俺自身が今の立場に納得いっていないだけなのだが――と、俺は愚痴りはじめた。
「あっちから誘っておいて、荷物よろしくー、じゃないだろうに。……俺は、自分がこういう役回りになるとは予想してたから、諦めもつくけどさ。北浦は違うんだろ?」
「ううん。わたしは昨日の夜、女子が一人足りないからお願い、って頼まれて。直前に、男子が急に一人増えたんでしょう?」
「言いにくいんだけど、その増えた一人が俺なんだよ」
 ――俺が重要な任務を賜ったおかげで、人数合わせのために呼ばれたのが北浦だったわけか――俺は眉を寄せた。
 もともと、男子と女子は同数でつり合っていたことになる。ならば俺たちという邪魔など入れずに遊んだ方が、それぞれが狙っている相手と親密になれるに決まっているのだ。それでも俺が誘われ、そのとばっちりをくって北浦が呼ばれたのは、やはり『雑用係』が欲しかったからだろう。
「あ、そうだったんだ」
 北浦も俺と同じことを思ったらしく「お互い、頼まれ体質だと苦労するね」と付け加えた。ずいぶんと上品な物言いだ。もはや頼む頼まれるという次元の話ではないことは、北浦だって思い知っているはずなのに。
 北浦が本当はどう考えているのかを引き出すことができたらと、最大限に下品に言い返す。
「これじゃ、パシリと一緒だろ?」
「この方が楽だから」
「それでいいわけ? 我慢してるんだろ?」
 彼女は俺を見つめた。それでも、従った方が波風が立たないから――北浦の目は、そう言いたげだった。
「避けられる雨には、できたら当たりたくないの」
「ずっと続くわけじゃないだろ? すぐに止む」
 友達のような顔をした友達じゃない奴らから拒絶されることを、雨というのか。言いなりになってその場をやり過ごすことができても、自分の心はどうなる? どんよりと闇に沈んではしまわないのだろうか。
 北浦は抱えた膝に顔を乗せ、こちらをぼんやりと眺めている。しばらく何事かを考えていたようだったが、やがて北浦はぽつりと呟いた。
「でも、やっぱり、雨は嫌い」
 自分を殺してまでもつかの間の凪を得たい、という。彼女は彼女なりの処世術に拠って、今の立ち位置に甘んじているのか。
 俺が次の言葉を探しているうちに、北浦は話題を変えた。
「暑いというよりも、太陽が痛いね」
 北浦はパラソルの短くなった影に合わせて体を縮めると、白いパーカーの前をかき合わせた。その下の水着は、まだその役目を果たしてはいない。
「予報、雨だったのに」
「外れたな、残念ながら」
「……外れたね」
 はいともいいえとも取れる返答は、胸の中のもやもやをそのまま口に出したような色のくすんだ声だった。
 雲ははるか遠くに見えてはいるものの、すぐに雨が降り出す天気とは思えない。じりじりと、肌を刺すような光が注いでいた。青い空と海、そして白い砂浜。コントラストが強い風景の中、北浦だけが淡い。
 雨で今日の予定が流れてしまえば、俺も北浦も、もっと有意義な休日を過ごせたはずだ。それに、雨なら間近で北浦の物憂げな顔を見なくてもすんだ。
 しかし、雨だったら俺と北浦が出会うこともなかった。こうして、彼女のことを真面目に考えることだってなかっただろう。そう思えば、外れた天気予報を恨まずにいられた。同時に、彼女の置かれた状況を知らぬふりで通り過ぎることができなくもなったのだが。
「信じるか信じないかは任せるけど、俺、ものすごい晴れ男なんだ」
「晴れ男?」
「そう。大抵の雨雲はふっ飛ばすくらいの」
「てるてる坊主、みたいな?」
「吊されるのはごめんだけどな」
 北浦が盛大に吹き出した。
 彼女が感情らしい感情を表に出したのは、今日初めてだった。今の北浦はごくふつうの女子高生で、友人と称する輩にいいように使われているようにはとても見えない。教室ではこうして存分に笑うことすらないのだろう。少なくとも、教室での彼女の笑顔は、俺の記憶には一切残っていない。
 笑いを引きずっているのか、北浦は口元を隠しながら言う。
「大丈夫、吊さないから。……わたし、戸賀くんと逆だよ。ひどい雨女なの」
「へえ。そりゃあ――偶然だな」
 運命だなと言いそうになり、慌てて言い換えた。
「戸賀くんといれば降らないんだ」
「そうみたいだな」
 雨女に、晴れ男。今日のところは、俺の勝ちだったようだ。
「俺が晴れ男だって噂が割と広まってたみたいでさ。俺がいれば、晴れる上に荷物も頼めて一石二鳥ってことで――」
 ふと振り返って荷物の山を見た。無造作に放り出されたバッグやタオル。持ち主たちはいまだに帰って来ていない。
 ――結果だけを見れば、俺も北浦と一緒か。
「ごめん」
 俺は、勢いよく頭を下げた。北浦は状況が飲み込めない様子で、それでもあたふたと俺を止める。
「やめてよ、そんなの。……いったい、どうしたの?」
「パシリだとか酷いこと言ったけど、俺が乗り気でもない役を引き受けたせいで、北浦まで。俺、ここに来てからずっと、晴れさせちゃって悪いことしたなって思ってたんだ」
「戸賀くんがそんなの気にしなくたっていいんだよ。……これは、こんなふうになるまで何もしなかったわたしが悪いの。断る勇気がなくて付いてきたわたしが」
 すう、と、聞き慣れない音がした。北浦が、思い切り息を吸ったのだ。
「やっぱり私、こんなのはもうやめたい。雨が止むまで耐えたら、いつかは晴れるんだよね。でも、頑張れるかな。……頑張りたいな」
 吐き出された息は声に、そして決意に姿を変えて、北浦から溢れ出す。それは自分に言い聞かせているように――あるいは、自身を奮い立たせているかのように、俺には聞こえた。彼女が何を頑張ろうとしているのか、こっちにまで伝わってくる。
 俺も北浦の力を分けてもらおうか。そして、こんな馬鹿馬鹿しい休日から抜け出せたら。クラスメート達からは文句を言われるに違いないが、もし北浦が乗ってくれるなら――。
「北浦、俺と帰んない?」
「え?」
「戻ってきた奴と代わって、逃げようぜ」
「そんなことしたら――」
 怒られちゃうよとは、彼女は言わなかった。口をつぐんで、ただじっと考えている。
 遠くに目をやると、ちょうどクラスメート二人の姿が見えた。男女並んでこちらへ向かって歩いてくる。人の気も知らずにうまくやりやがって、と俺は舌打ちをした。
 そして、気合いを入れ直す。
 ――やるなら、今。
「どうする、北浦」
「戸賀くんと行く」
 きっぱりと、彼女は告げた。俺を見つめた北浦の瞳に迷いはなかった。こんな顔もするのかと驚くほどに、生気に満ちた表情だった。
「じゃ、決まりな。自分の荷物まとめて、すぐ運べるようにしといて。あいつらが来たら撤退しよう」
 徐々に近づいてくる友人たちとの距離を目測で測る。あと十メートル。五メートル。
「よし、行くぞ」
 しかし、逃げるはずだった北浦は、自分の荷物を抱えたまま硬直していた。不自然な立ち姿でクラスメートたちの方に向いたまま、動こうとしない。
「おい、北浦?」
 女子の方がこちらに気づき、「まさか帰るつもり?」と金切り声で北浦のもとへ詰め寄る。女子二人の距離がどんどん縮まっていく。
 北浦が一歩踏み出す。砂に浅く埋まったその足は細かく震えていた。すう、とさっき聞いたばかりの音が、周囲の喧噪などものともせず俺の耳まで届いた。
 北浦は絞り出すように、「その、まさかだよ」と口にする。
「今日、本当はすごく嫌だった。今日だけじゃなくていつもそう思ってた。こういうことはもうやめて。それが友達だっていうなら、そんなものはいらないから!」
 北浦は詰まることなく一気に叫んだ。今日までずっと考え続けて、しかし言うことができず、何度も何度も反芻してきた言葉だったのだろう。
 北浦は雨に立ち向かうことを決めたのだ。震える体でもかすれた声でも、とにかく彼女はやり遂げた。
 俺は胸の内で喝采を送る。彼女と俺が、今日この場ですべきことはなくなった。
「俺も帰るから。あと、よろしくな」
「行こう、戸賀くん」
 北浦がためらいがちに、そっと俺の手を取る。
 呆気にとられた様子のクラスメートを後に残し、俺は北浦を引っ張るように砂浜を駆けた。握り返した手は、やけに冷たかった。

 先に更衣室を出て北浦を待っていると、不意に視界が暗くなった。見上げれば、膨れ上がった入道雲が山のように積み上がり、日差しを遮っている。
 雷鳴が俺の耳を打った。すぐに、大粒の雨がぼたぼたと空から落ち始める。それはあっと言う間に叩き付けるような降りになり、辺りを飲み込んでいった。
 俺はたまらず海の家の軒下に避難する。薄い屋根が、派手な音を立てて雨を跳ね返していた。そのノイズに混じって北浦の声がする。
「遅くなってごめんね」
 着替えを終えた北浦が傘を差し、こちらへ歩いてくる。
「濡れなかったか?」
「これ、持ってきてた」
 折りたたみの傘のようだが、無いよりは大分ましだったろう。北浦が傘の下から得意げに言うので、俺の頬も思わず綻ぶ。
 一方の俺は何の備えもしてこなかった。俺の性格上の問題で、自らの晴れ男振りを当てにしてというわけではない。傘を持っていないと言うと、北浦は雨宿りを提案してくれた。彼女は軒下にまで降り込んでくる雨を気にしたのか、傘は差したまま俺の隣に立った。
 しばらく待っても、相変わらずの雷雨。そういえば、北浦は雨女だと自称していたが、これは彼女に俺が押されているということなのだろうか。
「予報通りだな。北浦の勝ちだ」
「そうだね。……泣きたくなると、なぜか雨になるの。昔からずっとそうなの」
「……泣きたく?」
「今日は戸賀くんと一緒だから大丈夫だと思ってたのに、だめだった」
 揺れる声にはっとして北浦を見る。顔はよく見えないが、雨に当たっていないはずの頬にも滴が伝っていた。
 空が彼女と一緒に泣くのだとしたら。北浦は俺と別れた後、更衣室で泣いたのだろうか。この降りならば、相当ひどく。
 しかし。
 しかし、俺は晴れ男だ。
 北浦は充分すぎるほどによく頑張った。今度は、俺の力の見せどころだ。
「俺がいるんだから、すぐ止むって信じろよ。……もう泣くな」
「うん」
 北浦は傘に隠れて、こぼれたものをかき消すようにパーカーの袖で顔をごしごしと擦った。そして、傘を畳む。次に見えたのは、泣きはらした目と白い歯だった。
 北浦は、白状するとね、とはにかんだ。
「今日、実は雨にしてやろうって思って来たの。でも、戸賀くんと話してたら全然泣きたくならなくて困ったよ。……ある意味、思った以上のこともできたし。みんな、戸賀くんのおかげ」
「俺、何も――」
「ううん。私のここが晴れてる。……ありがとう」
 北浦は手を自分の胸に当てた。
 さっきから、砂浜で啖呵を切る前までとはまるで違う、弾む感情が見え隠れする。おそらく、こちらの方が素の彼女なのだろう。俺はこっちの北浦の方が好きだ。
 ――好き? 俺は、好きになったのか。この、晴れた雨女を。
 やけに眩しいと思ったら、痛いほどの日差しが辺りに再び満ちていた。炎天下、すっかり乾いた北浦の頬は真っ赤に染まっている。
「よかったら、後でまた海に行かないか」
「え?」
「今日、水に入れなかったし。それに、その――そうそう、泳ぎ苦手だって言ってただろ? 俺でよければ、教えられるけど」
「二人で、ってこと?」
「嫌かな」
「嫌じゃないよ! ……全然嫌じゃない。でも、私と行くと――」
「泣かせなきゃいいんだろ?」
 北浦は、笑いながら頷く。はじけるような笑顔は夏の色彩によく映えて、鮮やかに焼き付いた。