玉繭の庭にて

 この庭は常春だけれども、季節の変化は外を覗き込めばよくわかる。
 セツは、門から家の外の様子を窺った。短い夏はいつの間にか去ってしまった。涼しげな風に、セツの白い髪がなびく。澄んだ高い空には、茜、橙、山吹、色とりどりの木の葉が舞っていた。
 その、かさかさと乾いた音の中に、今日は別のものが混じっていた。どんどんと地を伝って響く低い音、ぴいぴいと風に乗って届く音、大勢のヒトの歓声。
「太鼓と笛かねェ」
「お祭ですよ」
「ゆかり」
 声に振り向けば、そこにはセツの片割れである紫が、竹箒を持って立っていた。おとなう者などとんと居ない、山奥のさらに奥の家だ。掃除は毎日は必要ないと言っているのだが、紫は手持ちぶさただといってこうして早起きして庭へ出てくる。
「秋祭りの、鹿踊りのお囃子です」
 肩で切りそろえた灰色の髪を揺らして、紫はこちらに微笑みかける。
 紫はヒトではないが、昔々はヒトであった。
 独りさまよっていた紫を拾ったのは冬のはじめで、家人から山に捨てられた、と彼女は言った。そして春を迎えるころ、紫はヒトの世を捨てて、『こちら側』の住人になった。
 セツに季節の移ろいを教えたのは紫だ。
 セツがいつからこの家の守番をしているのか、セツ自身ももう覚えていない。長く生きすぎて、降り積もるとしつきの中に、セツはただ佇んでいるだけだった。時を楽しむとか味わうとか、考えることすらしなかったのだ。
 紫は、春には花を摘んで飾り、夏はセツに雨や風、星の名を教えてくれた。秋の実りは菓子になった。冬は語らって過ごせば、いつの間にか春になっていた。紫が来て、誰かとともに過ごすときは去るのが早いのだと、セツは知った。
 ――今日もまた、教わるとしようかねェ。
 セツはそう心で呟いて、紫に尋ねた。
「で、その、『ししおどり』ってのは何だい?」
「わたしも昔、里で見たきりですけれど、死んだ者のたましいを鎮めるのだとか。鹿の角を頭に付けて、群れになって踊るんです」
「面妖な」
「でも、きれいなんですよ」
 紫は踊りとやらを思い浮かべているのか、目を閉じた。
 セツにはさっぱり想像が付かない。祭りや踊りなど、紫の話でしか知らない。ここに来る前のことを思い出そうとしても、うっすらと残る記憶は、遠い昔に自らが蚕であったこと。ヒトに飼われていたこと。そのくらいのものだ。
「もしかしたら、わたしも『死んだ者』の中に、入っているのかもしれませんね」
 紫はまたおかしそうに笑うけれど、セツはうまく笑えなかった。胸が苦しくて、笑うどころではなかった。
 紫が里の話をするとき、思いがけず、体の奥底が痛みを訴えることがある。体だけど体ではないところが痛いと紫に言うと、それは心の怪我だと教えてくれた。ならば今、自分は傷ついているのかもしれないと、セツは思った。
 紫を拾った当初、セツは哀れな少女をどうにか里に帰してやりたいと思っていた。なのに、紫はセツに縋るように、ここで暮らしたいと言ったのだ。 ヒトの世には自分が戻れる場所などないのだ、と訴える紫にセツは深く同情した。しばらく一緒にいるうちに、セツは紫をどうにも手放したくなくなって、契を交わし、彼女をヒトでないものに変えた。
 しかし、紫とて、里でだって幸福な時はあっただろう。彼女がここに来てもうだいぶ経つ。いくら辛い記憶があったって、ヒトの世を懐かしんで、ちょっとくらい覗いてみたいと思っても不思議はない。
 ――祭が見てェ、とは言い出さねぇか。それで、里に下りたまま帰ってこねぇ、なんてことは。
 そんな詮無い考えが、セツの胸に広がる。紫はそんなことなど一言も口にしてはいないのにも関わらず、想像しただけで背筋がすっと冷えた。
 ずうっと前にもこんなことがあった。まだ、紫がヒトだった頃だ。
 セツはやはり、彼女が山を下りてしまうのではないか、という不安に囚われた。自らの心をどうにかなだめたい、それだけのために、セツは無理やり紫を縛り、手元に置いた。その結果、彼女を酷く傷つけ、セツ自らの傷も、なかなか癒えなかった。
 そんな馬鹿げたことは、もうしないつもりだ。しかし、うろうろと考えを巡らせたところで、ただ、焦りだけが胸を焼く。
「お掃除、始めますね」
 紫は、箒を握り直し、門の内を掃き始めた。そういえば、掃除に出てきたはずの紫は、セツと話し込んでいて、ここまでまったく手を動かしてはいなかった。
 庭に散る色とりどりの花びらを箒で器用に集めながら、紫はセツに呼びかけた。
「ねえ、セツさん」
「ん?」
「母がしてくれたお話、なんですけれど」
「また、他のあやかしの話かい?」
 そうです、と紫は頷いた。
 紫の母は里に伝わる昔話をよく知っていて、紫に聞かせてくれたそうだ。紫もまた、受け継いだたくさんの物語をセツに教えてくれた。折に触れ、紫の声で紡がれる物語は、今ではセツの楽しみの一つだ。
「昔、神隠しに遭った娘さんが、何十年も経ってから、村にひょっこり帰ってきたのですって。山から来たのだ、と言って」
「ふうん」 
「それから娘さんは毎年のように、山から里に下りてくるようになったんです。……そのあと、どうなったと思います?」
「どんどはれ、じゃあねェのかい」
 紫の曇った表情を見れば、どうやら単純にめでたしめでたし、ではないらしい。聞かせろよ、と急かすと、紫は頷いて口を開いた。
「村人たちは、霊験あらたかな者に頼んで、村の境を封じたんです」
「なんだって?」
「娘さんが里へ下りるたび、なぜだか大嵐がくる。嵐を呼ぶあやかしがもう村に入ることのないように、と」
 会話の途切れた庭に、ざあっ、ざあっと、土と竹箒が擦れる音がする。まるで、遠くのお囃子をかき消すように。
 行方不明だった娘が、実は生きていて、訪ねてくる。村人もそれを受け入れて、神隠し以前のような日常が戻る。いい話だ、とセツは思ってしまっていたが、実際は違った。 山に囚われたゆえに、人の世からはじかれる娘。今のセツはどうしてもそこに紫を重ねてしまうから、妙な気分になる。
「お前さん、酷い話だ――とは、思わねェか?」
 セツの問いに、紫は掃除の手を止めた。
「セツさん、私が祭に行きたがるかもしれないって、思ったのでしょう?」
「……紫は、千里眼かい」
「わかりますよ。ずいぶん長く、一緒にいるんですから」
「おれも、まだまだだなァ」
「ふふ」
 紫は、ふにゃ、と音がしそうなくらいに表情を崩した。口元を左手で隠してはいるが、ものしずかな彼女にしては珍しい大笑いだ。セツが目を丸くしていると、紫は目尻に浮かんだ涙を拭って、弾んだ声で言う。
「ごめんなさい。セツさんに、そんなかわいらしいところがあるって思ったら、嬉しくなってしまって」
「虫のばけものをつかまえて、なにが、かわいい、だ」
「忘れないで。……わたしも今は、ばけものですよ」
 紫は上気した頬をほんのり紅くし、にこりと目を細くした。
「紫――」
 セツは息を呑んだ。
 紫が自らをばけものと呼んだのは、初めてのことだった。
 けれど、そこには負の感情は一切感じられない。むしろ、とてもいとおしげに――まるで、大事に取って置いた宝物にそっと触れるような、柔らかな声色だった。
 そして、確かにばけものだと、セツはその笑顔に思ったのだ。
 眇められた彼女の瞳は年々黒が深くなっている。対照的に、闇夜のような色だった髪はどんどん白くなり、今は綺麗な灰色だ。ヒトを捨てて永い生を手に入れただけでなく、外見も徐々にセツの、蚕のようなそれに近づいてきていると、改めて気付く。
 ――ほんとうに、おれと同じに。
 そう考えたら、セツの身は嬉しくてふるふると震えた。
「さっきの話、セツさんが酷いと感じたなら、そして娘さんが私に似ていると感じたのなら。セツさんは、私の幸いは里にあるかもしれないと、心のどこかで思っているのかもしれません。でもこの通り、もう、わたしはヒトではないから。……ヒトは、ヒトでないものを、おそれます。だからわたし、里に近づきすぎないようにしたい。きっと、そうやってお互い距離を保つから」
 そこで、紫はふと下を向いた。地面を眺めたところで、庭はとうに綺麗になっているというのに。
 やがて紫は小さな小さな声で、ぽつりと呟いた。
「わたしはあなたとふたりで、この家にこもることができるんです」
「お、おれは、紫が、おれとの暮らしに飽いてはいねェかと」
「毎日こんなにしあわせなのに、何を飽きることがあるんです?」
 紫が真っ赤な顔で、拗ねたように言う。上目遣いでこちらを見る目に捉えられて、セツは自らの顔がぽうっと火照るのを感じた。セツの、いつもひやりと冷たい首筋も腹も、つま先までもが熱を持っている。それになにより、さっき痛いと思ったばかりの胸の奥のさらに奥が、たいそうあたたかい。
「掃除はもういいぞ。……どれ、桑茶でも入れてやろう」
「あら、嬉しい」
 紫は襷を解いて、家へと向かうセツの後に続く。祭の音に乗って響くふたつだけの足音を、セツは満たされて聞いていた。