その、幽かな声を

この、確かな声を【6】

「来るなと言ったろうが」
「そんなこと、聞いてません」
「この――うつけ」
 澪が弱々しく毒づく。
 うっすらと雪化粧した獣道。日陰の斜面は凍り付いていてよく滑り、何度か転んだ。立ち止まったぬかるみに自分のものではない足跡を見つけ、それが高嶺のものであると聖は直感した。そこから大急ぎで山を登ってきて、なんとか間に合った。
 ――いや、間に合ってない。自分がもう少し早ければ結果は違ったかもしれないのに。
 澪と高嶺との間にいったい何があったのか、聖は分からない。ただ、高嶺に襲われている澪を見て、頭に血が上った。助けなくては、と思った。
 聖は、息も絶え絶えな様子の澪をそっと横たえる。澪の真っ白な着物は胸元が大きく開かれて、その襟には何か赤いものが見える。どうも、怪我をして出血しているらしかった。いつもなら隠しているはずの、毛皮に覆われた耳や尾が露出していた。かろうじて人型を保っている、といったところだろうか。
「やりやがったな。一張羅が台無しだ」
 高嶺は泥を払い、起き上がった。底冷えのするような光を瞳に湛え、言葉とは裏腹に笑う。今日の高嶺はこの前会ったときとは違い、もう本音を隠してはいないようだった。頬はざっくりと切れ、そして口の周りは赤黒く色づいている。そのせいか、いかにも狼のような、ぎらりとした鋭さが強調されていた。
「食事の邪魔を」
「食事だって?」
 手の甲で口を拭き、さらにその手を舌で舐め取る高嶺。その赤が澪の血だと気づき、聖は言葉を失う。本性を表した高嶺と、急激に弱りゆく澪。首には血が滲んでいる。それらが何を意味しているのか、聖は悟った。
 高嶺を前にしているにも関わらず、聖の体は恐怖ではなく怒りで震えていた。全身の血が沸騰でもしたのではないかと思えるほど体が熱い。
「お前、澪さまを」
「まだ途中だったんだがな。無粋な輩が乱入してきたんでね」
 澪を征服した昂揚感からか、上気した高嶺の顔。それが、聖には歪んで見えた。それほどまでに強く、聖は高嶺を睨み付けていた。
 ――食ったんだ。こいつ、澪さまを。
 体のどこかから、ぎりっ、という硬質な音がした。聖自身の歯ぎしりだった。
 罵倒の言葉など、多くは知らなかった。言いたいことは数え切れないほどあったが、声にならない。
「この――けだもの」
「間違っちゃいねえな。俺は昔からそうしてきた。強いものがより旨い肉を喰える、それが当たり前だろう? 枯れかけの澪にはそんなに期待はしちゃいなかったが、なかなかだ。あの娘――赤い眼鏡の千里眼よりも、数段いい」
「赤い、眼鏡?」
 意外な単語に、聖は少しだけ冷静になった。
 千里眼とは環のことだろう。先日、何故か道端に落ちていた彼女の伊達眼鏡は、聖の机の引き出しにしまってある。
 しかし、高嶺がなぜ環のことを知っているのか。そういえば近頃、環のことで何か引っかかることがあった気がしたが何だっただろう――少し考えて、すぐに思い当たった。おととい聖が澪の心を聞いたとき、なぜか環の名が出てきたのだ。
 環は先日、聖のところにも顔を出してくれた。澪のところにも行くと言っていたけれど、その途中で高嶺ともめ事でもあったのかもしれない。いかにも衝突しそうだ。
「環さんが、何だっていうんだ」
「この餓鬼、何も知らねえのか? 知り合いならば教えてやるのが親切ってもんじゃねえのか、澪」
「それは」
 澪が不自然に口ごもる。
 聖は澪を見た。澪は相変わらず横になったまま、何かを訴えるようにこちらを見つめ返している。とても悲しげな目をしていた。
『すまぬ、環。もはやこれまでじゃ。……環はただのヒトとなった。高嶺殿に――』
 澪の心を最後まで聞くことなく、聖は目を見開いて高嶺の方に向き直る。高嶺は何も答えず口元を緩めただけだったが、聖の耳は彼の声を捉えていた。
『たまき、なあ。そんな名だったのか。味は良かったが大した力じゃなかったな。磨くのを怠ったヒトの力など、所詮あんなものか』
 ――環さんを――澪さまだけではなく、環さんまで食っていたのか。
 高嶺は、自分が手に掛けた者たちの名すら覚えていない。
 きっと、環が名乗る間も与えずに食らったのだ。彼女がどんな思いで力を封じて生きる道を選んだのか、高嶺にはその長い一生を掛けたって分かるまい。それを、あんなものと片付けるのか。
「あんなものか、だと? ……ふざけるなよ。あの人はこれから生き直すはずだった。それを踏みにじって、よくそんなことが言えるな!」
「それ以上はやめよ」
 苦しい息の下から、澪が聖を鋭く制止する。次いで、聖だけに向けて声が飛んだ。
『早まるな。高嶺どのは、そこまで口にはしておらぬ』
 しかし、すでに遅い。高嶺は顎に手をやって首を傾げていた。
「どうもおかしいとは思ってたんだよ。てめえは、消えかけた山奥の鹿にどうして気付いた? 今、俺の心をどうやって読んだ?」
 聖を値踏みするように高嶺の目が光る。頭の奥まで見透かされそうな視線に、聖は体を硬くした。
「さてはてめえも異能だな。腹の足しになる力か?」
「それほどの強さがあっても、他人から盗らずにいられないのは――なぜなんだ?」
 聖は、それがずっと気にかかっていた。もちろん、聞き耳から話を逸らし、時間を稼ぐ目的もあった。しかし、それだけはどうしても高嶺の口から聞いてみたいと思っていたのだ。
「美しいものと強いものが好きなだけだ。……澪は俺好みに仕上がってたんだが、どこかの人間のせいで台無しだぜ」
『目の前の恐怖に耐える顔もなかなかそそるもんだが、昔の澪は怯える表情がそれは美しかった。同じ恐れを知る者として、これでもいろいろと気に掛けてやったんだがな。……いや、そんな昔のことなどとうに忘れた、か』
 自らの言葉――実際は、声にならない声、というやつだが――を、すぐに打ち消す。挑発的な表情は崩さず、高嶺は聖の後ろにいる澪を見ていた。
 同じ恐れ、と言ったのだろうか。これほど強靱な心と体を持つ神、高嶺ともあろうものが忘れたい記憶とは何だ。澪と同じ恐怖とは何だ。今、彼女が直面している恐れとは何だ。
 ――それは、力が尽きて消滅すること。
 聖の中で、何かが、すとん、と収まりのいいところに落ちたような気がした。もしや、高嶺も澪と『同じ』ように、消えかけたことがあるのではなかろうか。
 だとすれば、一度消えかけたことがある澪に執着するのも納得はいく。その孤独を共有する相手は、きっとそう多くない。その中で、いちばん身近にいて高嶺のお眼鏡にかなったのが澪だったのだろう。
 他人を食ってまで自分を高めたい心理も、それなら分からなくもない。そもそも高嶺は狼だから、弱いものを自らの血肉にすることにためらいはないのだ。そうだとしても、澪や環にしたことはとても許せるものではないけれど。
「どうして、澪さまにこだわる」
「さてね」
 案の定、高嶺は答えない。
「そろそろ、俺の質問にも答えて欲しいんだが」
「どうせそれを聞いた後で、僕も澪さまも食うんだろう?」
「よく分かってるじゃねえか」
「だったら、嫌だ」
 少しでも時間を稼ぎたい、と思った。
 冷え切った澪の体に、包み込むように優しく触れる。高嶺の目から守るため、聖は彼女を抱きかかえた。
 ――これで、高嶺には僕の背中しか見えないだろう。
 聖は、澪にしか届かない小さな小さな声で囁いた。
「澪さま」
「……すまぬ」
「謝るのは変です。僕、初めて自分の力を自分の幸せのために使おうとしてるんですから」
「儂は人間ではない。獣じゃ。鹿じゃぞ。それに、お主の何十倍も生きておる年増じゃ」
「知ってます。そんなの、どうでもいい。一目惚れなんです。この耳は、きっとあなたに出会うために授かったものだって、今は思ってる。僕、澪さまの声をずっと――できるなら死ぬまで、聞いてたい」
「この、大馬鹿。口ばかり上手くなりおって。……嬉しいことを」
 言うなり、澪は聖の胸に顔を埋めた。
「み、澪さま?」
『もう少し、寄れるか?』
 澪は口には出さずに、直接心で伝えてきた。聖は返事をせずに、頬が触れるほどの距離まで顔を近づけた。
『温かいな。聖の側にいると、儂も温かい。そんなことは、とうに知っておったのに。……先に詫びておくぞ。本当に、すまぬ』
 閉じかけた瞼を細め、澪が微笑む。彼女が何を詫びたのか、聖にはすぐに分かった。
 遠くで高嶺が何か言っている声、近づく足音が聞こえるような気がした。しかし聖は無視して、澪の声に集中するため、目を閉じる。
『見ての通り、ちと、高嶺殿に食われてな。儂が不甲斐ないせいでこのざまじゃ。もう少し力があればこんなことにはならなかったろうに、口惜しくてならん』
 落ち着いた口調のなかに滲む気迫のようなものが、澪の覚悟を示していた。これが、恐らく『聞き耳』が捉える最後の声になるだろう。聖はじっくりと味わいたくて耳を澄ます。
『なあ、聖。愚かだと笑うものもおろうが、儂は聖と同じものを見聞きしてみたい。……それゆえ、お主を――お主の力を、儂のものにする。よいか?』
 次の瞬間、聖は澪を思い切り抱きしめた。巻き付けるかのように強い力を腕に込める。普段の聖からには似合わない、荒々しくぎこちない動作だった。
「それを、ずっと待ってたんですよ」
 耳元で息を吐く音がして、澪が身を震わせた。澪の背中に回した手から彼女の低い体温が伝わってくる。
『また透けておる。いつかと一緒じゃの』
 聖が薄く目を開くと、ちょうど澪の首が見えた。痛々しい傷跡と、さらによく見ると指の跡が赤黒く残っている。もともと透き通るように白かった肌が、今は完全に透けていた。
『聞き耳の力は聖にはかけらも残らず、すべて儂の命になる。その代わり儂は、お主から譲り受けた力でお主を守る。お主を看取るまで守り通してやろうぞ。約束じゃ』
 聖は澪を抱きしめたまま頷いた。看取る――すなわち死ぬまで一緒だと告げられても、もとよりそのつもりだったから、聖は驚かなかった。彼女の選んだ幸せの中に自分がいる。自分の力と思いが、澪の中に生きる。それはなんて素晴らしいことなんだろう。
「澪さまと一緒に育てた聞き耳です。後悔なんかしませんよ。……僕の未来を奪ってしまう、なんて思わないでくださいね。僕の力がふたりの未来になるんです。いいですか?」
『あい分かった。遠慮はせん』
 消えかけているのが嘘のように、澪は悪戯っぽく微笑んだ。幼い顔には不似合いな、妖艶な表情が浮かんでいる。
『……高嶺殿に見せつけてやるのもよいかもしれん』
 そして、澪は何の躊躇もなく聖の首筋を舐めた。
「うわ……!」
 初めての柔らかさに、聖がびくりと震える。目を丸くする聖に構わず、澪はさっき自分が高嶺にされた通り、顎に力を込めた。
 澪の歯が聖の首に甘く食い込む。彼女と一つになるのだと思えば、その感触は聖にとっては涙が出るほど嬉しいものだった。
『泣くな』
「ごめんなさい」
『男がみっともないぞ。……儂の器を満たすには、ちょうど良い。まるで、あつらえたようだのう』
 聖と長年共にあった何かが、徐々に体から抜けていく。ときには自分を苦しめ、あるときには喜びを運んできた『聞き耳』。形はないけれど、確かに存在したはずのもの。それが、澪に食われている――澪の新たな力となるため、自分の中から出ていく。
 代わりに、空になったところは幸せで満たされていく。心と心が直に触れ合い、混じり、また二つに別れて戻ってくる。
 気が遠くなるくらいの幸福感。そして実際、聖の意識は徐々に白んでいく。
「いい加減にしろよ」
 高嶺が二人のすぐ側まで迫る。聖に歯を立てたまま、その肩越しに澪は高嶺を睨み付けた。死にかけだった澪は、聖の力と心を得て、此岸へと舞い戻っていた。瞳は燃えるように赤く、高嶺に食われる前よりも爛々と輝いている。
 澪は、ぐったりとした聖を優しく横たえた。
 高嶺を睨め付けて不敵な笑みを浮かべる澪は、先ほどまでのように透けてはいなかった。小さな体は生気と自信に溢れ、高嶺の前に立ちはだかっている。神をも恐れぬというのはこういうことかと、聖は朦朧とした中で思った。
「邪魔をするな、無粋な輩め。……儂は、聖と一つになったぞ。もう遅れは取らぬ」
「……ぬかったぜ」
 高嶺が舌打ちをした。
「まさか、てめえらがその道を選ぶとは!」

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