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1 春風と闇

 彼女との再会は、すぐに訪れた。再会といっても俺のC組と彼女のいるD組の体育の授業が合同だっただけで、あくまで俺が一方的に見かけただけである。
 俺は正直、始業式の朝の出来事など忘れてかけいたし、クラスが隣同士だったとはいえ積極的に彼女――塚原遍に関わろうとは考えていなかった。だから校内で彼女を見かけても、感想は『あ、あのときの女子か』程度にしかなかった。ただ、嵩和が漏らした『いじめ』という言葉は気にかかってはいたけれど。

 今日の体育は、短距離走と長距離走のタイム測定だった。前半は女子がグラウンド全面を使っての長距離走、男子がグラウンド隅のトラックでの50メートル走。俺と嵩和は自分の出番が終わった後、女子が走る様子を眺めていた。次のグループが召集をかけられたらしく、紺色のジャージの集団がぞろぞろとスタート地点に集まり始める。
「女子は1000メートルでいいんだろ? 短くていいよな。男に生まれたからってなんで長い距離を強制されなきゃいけないんだよ」
 前の時間の授業で付けられたものか、コース上にはゴールを示す白線が二カ所に引かれていた。一周約400メートルのグラウンドを男子は四周弱走るのに対し、女子は二周半で済む。片方は女子のゴール地点、もう片方が男子のゴール地点なのだ。それに気づいた俺が愚痴ると、嵩和が同意する。
「そうだよな。走るのは嫌いじゃないけど、部活で毎日走ってんのに授業でまでやらされるんじゃ」
「部活より授業の方が優先だろ。部活はある意味、趣味でやってんだから」
「帰宅部に部活は趣味とか言われたくないね、俺は本気で水泳やってるんだからな。今走ると、放課後疲れるんだよ」
 薫風の中、ホイッスルの合図でいっせいにスタートした彼女たちはやがて先頭、中盤、後続とだいたい三つの集団に分かれ始める。そのうち、俺はトップ争いを繰り広げる集団の中に見覚えのある少女がいるのに気づいた。長い髪は邪魔にならないよう一つに束ねてある。始業式のときの物静かそうな印象とは百八十度違うが、髪を靡かせて先頭を駆ける彼女は紛れもなく俺に似た名の同窓生、塚原遍だった。
「なあ、嵩和。あの先頭の髪の長いやつって、この前の」
「塚原か?」
「そうそう、いじめられっ子とかいう。見かけによらず早いのな」
「ほんとだ。お、よく見たら陸上部のやつよりも前走ってるぜ」
 先頭集団がコーナーを曲がり、俺達が待機している辺りにぐんぐん近づいてきた。重苦しくさえ見えた前髪は風に乱され、今日は整った顔立ちと表情がよく見える。横顔が目の前を通り過ぎていき、俺ははっとして一瞬見とれた。
(この前は全然気づかなかったけど、すごい美人なんだな)
「見ろよ要。トップだぞ」
「すげえな」
 結局彼女はその後もしなやかに風を切りながら、フォームを終始崩さずに走り続け一位でゴールイン。
「運動得意って感じにゃ見えないけど、圧倒的に早いな」
「……やるな」
 速いだけではなく走る姿が様になっていて、本当は『格好いいな』と絶賛したい気分だった。
 が、クラスで孤立しているという彼女に下手に好意的な態度を人前で取るのは控えようという防衛本能が働いて、嵩和の前でそう言うのは何となく憚られた。卑怯だとは思うが、俺は少なくともこの時まではなるべくなら面倒ごとに巻き込まれずにこの一年を過ごしたいと思っていたのだ。


 体育が終わると昼休みである。俺は春と嵩和とともに教室で昼食を取る予定にしていたが、二人は弁当持参だった。仕方がないので、俺一人が生徒昇降口の脇にある購買へと向かった。
 着替えに時間を食って出遅れてしまったおかげで、購買はすでに熱気と殺気に満ちた生徒でごった返していた。俺は気が進まないながらも、パン争奪戦の行列最後尾に付く。
 ちょうどその横を通り抜けていく、見覚えのある黒い影がひとつ。
 購買周辺の喧噪も聞こえないかのように昇降口へ向かう後ろ姿――というよりは、長い黒髪――塚原遍だった。黒という印象は髪の毛からだけでなく、いまどきの女子高生にしては長めの濃紺のスカート、黒いストッキングに黒いローファーというトータルコーディネートから受けたものだ。春の陽光の下、彼女だけには未だに朝が訪れていない、そんな空間を作り出している。
 まだ午後の授業が残っているはずなのに、彼女は学校指定の紺色の通学鞄を片手に、ローファーへと履き替える。そして先ほどと同様、まるで鹿のように(実際、鹿が走るところを見たことがあるわけではないが、イメージの問題だ)駆け足で校舎を後にした。
 早退するのだろうか。例えば体育で無理をしすぎて具合が悪くなった、とか? しかし今だって彼女は走り去っていったし、先ほどの授業での様子を見る限りは体調不良とはとても思えなかった。家庭の事情で帰らざるを得なくなったというわけでなければ、自主的な下校。
(なんだ、ただのエスケープかよ。真面目そうに見えるのになあ)
 『サボりだろう』と結論づけてさっさと思考を打ち切ったのは、行列の後ろから人波が押し寄せていたからだった。俺はカレーパンとハムサンド、それに牛乳を無事手に入れて教室へと踵を返した。

「さっき昇降口で例のいじめられてる女子を見た」
「……なに?」
 俺の言葉に、春は不審そうに箸を止めた。心底わけが分からないといった表情である。
「……塚原、だろ」
 嵩和は箸で俺を指差す。
「行儀悪ぃな。……そうそう、塚原。なんか、早退したっぽかったけど」
「あいつ、結構早退多いみたいだぜ。……美人でスタイルもいい、その上スポーツもできる、か。男子に限らず同性にだってモテる要素の固まりみたいなもんだ。俺だって、例の噂さえなければお近づきになりたいと思ったかもしれねえ。惜しいったらないよな」
「例のって、祟るとかいう? あれって、ほんとなの?」
 世情に疎い春でさえ知っているのであれば、割と有名な噂なのだろう。残念ながら春に輪をかけて情報に興味がない俺は、始業式までまったく聞いたことがなかった。
「俺もさ、その後ちょっと気になったんで聞いてみたんだ」
「誰に……って、ああ。おまえの彼女にか」
「まあな。女子ってのは噂好きだからな、なんか知ってんじゃないかと思って。いじめっていうか、妙な噂が流れたらしい。『塚原遍に触れると、祟りがある』ってな。それで孤立してるんだって言うんだ」

 嵩和が得た情報の要点を整理すると、こうなる。
 塚原遍は、入学当初は同学年・先輩・性別を問わずかなりの人気を博していたらしい。彼女を射止めようと特攻し、告白した男子の数は両手で数えても足りないほどだといい、そのあたりは嵩和の評したとおりである。結局彼女は誰の申し出も受けずに今に至っているようだが、中には振られてもしつこくつきまとったり下校中に後を付けたりと、かなりタチの悪いやつも混じっていたようだ。
 そうしたうちに、彼らに『祟り』が降りかかった。彼女の自宅に押し掛けようとした男子生徒が、原因不明の骨折で入院したのである。それも一人ではなく数人の生徒が『何もないところで』ケガを負った。その上、彼らの不審な負傷は短期間の内に、いずれも彼女の身近で起きていた。
「どうも、一番最初に『塚原遍に関わると祟る』と言い出したのはそのうちの一人らしいんだ。おおかた振られた腹いせだろうけど、実際にケガしたやつも何人かいるんだとさ。信憑性あるだろ」
「何もないところでって、どういうことだ?」
「あんまり詳しくは聞かなかったけど、道を歩いてて気づいたら突然切り傷ができてたとか、誰もいないはずのところで階段から突き落とされたとか」
「転んだとかじゃなくて?」
 春が食事の手を止め、首を傾げた。よく見れば、さっきから話に聞き入っていたためか春の弁当はまだほとんど減っていない。嵩和がもっともらしく「見回してみても、誰もいないんだとさ」と頷く。
「ケガの理由がケガした本人にもよく分からないから、不気味がられてるんだろうな」
「非科学的だな。どうせ、偶然が続いたんだろ。そんな理由で仲間はずれにされるんじゃ気の毒だ」
「要、なんか塚原にやけに肩入れしてるな」
「……名前が似てる縁でね」
「そりゃ大層な縁だな」
 肩をすくめた嵩和に、俺は半ばあきれ口調で突っ込んだ。
「第一、祟るって何だ? 塚原が、ウザい男子に呪いを掛けたとでもいうのか? なんの祟りなんだよ」
「あり得ないよな。ま、俺もそんなばかげた話はないとは思ってるけど」
「でも、怖い噂はあっても塚原さんって綺麗でミステリアスで素敵なんだよね。さっきの授業でもかっこよかったし」
「俺もそう思った。やっぱかわいい……というか、文句なく美人だしな。人気はまだまだ根強いらしいし、遠くから見てる隠れファンはいると思うぜ」
「ふーん。確かにな」
 知り合いというレベルにも達していない、始業式に間違えて声を掛けられただけの同窓生。気のない返事をした俺の脳裏には、『ごめんなさい、もう関わらないから』という声と、今日まで忘れていた、唇を噛んだ寂しげな表情が浮かんでいた。そんな噂さえ立たなければ、塚原は今ごろこの高校のアイドル――容姿から言えばアイドル的な可愛らしさではないかもしれないが、女子で一番人気という意味だ――になっていたことだろう。
 本人の言う通り、できれば関わり合いたくないと思う。しかし反面、孤立している自分のせいで迷惑が掛からないようにと謝らなければならなかった彼女の精一杯の気配りを考えると、今度は無下に忘れてしまうこともできなかった。忘れないことで、彼女に冷たい周りの生徒たちと俺とは違う、という自己満足に浸っていたところもあったかもしれない。結果的には、『塚原遍には触れない』という、いつの間にか作り上げられてきた暗黙のルールに従っている時点で俺とほかの生徒に決定的な差異があったわけではないのだが。

 その後もD組とは芸術や理科・社会の選択教科で一緒の教室になることが多く、彼女を見かける機会は多かった。塚原はいつも一人静かにいたが、嵩和の言ったとおり授業中に席を立ったり、早退してすでに授業のときにはいなかったりということが度々あった。俺は始めのうちこそ空席が気に掛かってはいたが、何度かそれが続くうちに『またいないのか』程度の感想しか持たなくなっていた。
 そんな中、彼女と言葉を交わす機会が再び訪れたのだ。
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