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2 夜桜と笑顔

 学校から自転車で十分ほどの城趾公園は俺の下校コースの一つだ。
 公園内は若干アップダウンがあるものの、手軽なサイクリングに使えるようにと自転車道がきっちり整備されている。公園を突っ切るとまともに道路を通るよりは距離とかかる時間がかなり短縮されるため、寄り道で帰りが遅くなった夜など、俺はショートカットとしてたまに利用していた。桜や紅葉の時期などは自転車を押して、城跡の上へと向かうなだらかな坂道をのんびり上るのである。登下校のついでに花見や紅葉狩りをするのも、なかなか乙なものだ。しかし、花や紅葉を愛でるにしても一人で風流に浸るという境地にはまだ達してはいない。誰かパートナーがいればいいに越したことはないのだ。
 まあ、それはさておき――。

 放課後を遙かに通り越してあたりがすっかり暗くなったころ、俺は普段のように公園を通り抜けて家へ向かっていた。 今年は平年より気温が低めとかで、桜はまだ五分咲き程度。花見には時期が早すぎるように思えるが大人ってやつは不思議なもので、さくらまつりと書かれた提灯の下、花もないのに花見を楽しむ人々で賑わっている。
 人々の歓声や屋台の売り子の声を聞きながら、俺は侘びしい気分でとぼとぼと歩いていた。いつもは非常に便利な近道だが、今日は勝手が違っている。人が多くて歩きにくく全く時間の節約にはならないし、腹が減った俺の神経を逆なでするかのようにいい香りまで漂ってくる。周りの浮かれた様子も、ひとりぼっちの今の俺には辛い要素だった。
 ――今から引き返すともっと時間かかっちまうし、諦めて公園の中を通るしかないか。
 どうしてこの時期、この時間に一人きりでこの場にいるのか――その責任の一端は嵩和にある。
 うちの高校には悪しき伝統として、『新入生歓迎早朝球技大会』という行事がここ十数年受け継がれている。平たく言うと、字面の通り先輩による新入生いじりが目的のソフトボール大会である。歓迎と銘打ちながら一年生のクラスが勝ち進むと二・三年生に目を付けられるという理不尽さで、毎年新入生には大変不評を買っている、ある意味行う必要がない大会である。俺にとってはどうでもいい、むしろ忌まわしいというレベルに分類されるイベントだ。しかし、世の中にはそういう行事が大好きな人種も存在する。それが嵩和、明日から始まる大会の実行委員に就任した男だ。
 俺は、ついさっきまで嵩和に動員されてトーナメント表やらスコア記録用紙やらの準備を手伝わされていたのである。今日手伝えば明日の試合出場を免除してやるというヤツの甘い言葉に乗せられたのも悪いのだが、こんなに遅くなるとは一言も聞いていなかった。しかし、背に腹は代えられない。明日の早起きより今日の居残りの方が格段にマシだ。

 憂鬱な気分で自転車を押しながらようやく公園の出口が見えてくる辺りまでたどり着くと、何やら揉めているらしい声が耳に入った。声のほうを見やると、恐らく花見客の一団なのだろう、若者が三〜四人、少し離れた東屋のあたりで何事か怒鳴っているようだ。東屋の横は俺にとっても通り道である。不自然に避けて通って因縁を付けられるのも嫌なので、厄介ごとに巻き込まれなさそうな距離を保って素通りすることに決め、何食わぬ顔で彼らに近づいていく。
 話し声が聞き取れるくらいまで近づくと、俺にも状況が飲み込めてきた。どうやら彼らは寄って集ってベンチに座っている女性に絡んでいるようだ。嫌がる彼女の腕を掴み、一緒に花見しようよ、とか、ひとりなんだろ、とか何とか説得しているが、ろれつが回っていない。どうやら酔った勢いで強引にナンパのようなものを行っているらしい。よく聞いていると、やめてください、という弱々しい女性の声も混じって聞こえてくる。
 ――酔っ払いかよ。
 酔っ払いには関わらないほうがいい。これは俺の親戚一同の酒ぐせがあまりに悪いので、やむなく身につけた処世術の一つだ。
 ベンチの女性の両脇には若者二人がそれぞれ座り、正面にもう一人。逃げようにも逃げられなくなっているようだった。心は痛むが、きっと誰かが助けてやるだろうと通り過ぎようとした俺の目に女性の後ろ姿が映る。それは、見覚えのある――というか、毎日見ている高校の制服。
 ――あれ? ウチの制服じゃないか?
 となると、彼女が知り合いの誰かだったりする可能性もある。
 ――まさか、春じゃないだろうな。
 俺は思わず立ち止まる。まず目に飛び込んできたのは、夜闇に溶けるような漆黒の後姿。これは誰だっけ、と思い出す間もなく、男の手を交わそうとして身を捩った女子高生の顔がこちらを向いた。
 それは、塚原遍だった。塚原は一瞬だけ暗い瞳で俺を見たが、やがて静かに俯いた。
 俺はその場に立ち止まったまま今の状況を整理しようと必死に頭を働かせていた。こういう場合、どうするべきなのか。彼女とは同窓生以上、知り合い未満という程度の間柄だ。向こうは、きっと俺のことなんか覚えていないだろう。
 ――どうする?
 助けるか、助けないか。考えるまでもなく、当然助けたほうがいいに決まっている。俺はそんな結論に至ったことが、自分自身で意外だった。一度でも会話したことがある人間を見捨てられるほど冷たい人間ではなかったということに、ちょっと感動を覚えていたくらいだ。もっとも、それも自己満足と言われてしまえばそれまでだが。
 塚原は明らかに悪い方の選択肢を考えているように見えた。ここでこのまま去ったとしたら塚原は学校でも一人、ここでも一人になってしまう。他の生徒の目が無いところなら、関わったとしても俺と彼女の今後の高校生活に支障はないだろう。ふと『祟る』という嵩和の言葉が頭をよぎったが、正義感か同情か自分でもよく分からない中、体が自然と動いていた。
「あのー、すんません」
「何だよ、お前」
 俺が肩に手をかけると、男は機嫌悪そうに振り返った。思った通り、酒の匂いが鼻を衝く。他の二人も敵意むき出しの視線を俺に向け、邪魔するな、あっちへ行けと口々に言った。三人とも、標準的男子高校生である俺よりも細めで色白のインドア的体躯で、正に『酒の勢いで普段しないことをしちゃってます』といった雰囲気だった。
 ――酒の力を借りないとナンパもできないのかよ。だから酔っぱらいは嫌いなんだ!
 男たちと塚原の間に割り込み、まだ座ったままの彼女を庇うように立つ。男のうち一人が俺の肩に手をかけると「何の用だ? あっちへ行けよ」と凄んだが、全く迫力がなくちっとも怖くない。これなら三人がかりで掛かってこられても、俺が何とか勝てそうだ。そう踏んだ俺は使い古されすぎて逆に新しい、ベタなセリフを使うことにした。
「そっちこそ、何か用? 俺の『彼女』に手を出さないで欲しいんですけど」


 一発くらいは殴られるかと思ったが、酔っぱらいどもはあっけなく退散した。無事で済むならそれは良いことなのだがかえって拍子抜けだ。男たちが遠ざかっていくのを見送ると、俺はベンチに座り込んだまま目を丸くしているらしい塚原に声を掛けた。とは言え、俺の目に入ってくるのは長い前髪ばかりでその下の表情は今ひとつよく分からない。
「ケガとかは?」
「ない、と思います」
 この前は小声だったのと周りのざわめきとでよく聞こえなかったが、見た目から想像したとおりのやや低めのしっとりした声は彼女によく似合う。
「遍さん。塚原遍さん、だよな」
「……はい」
「俺、同じ高校なんだけど。俺のこと覚えてます?」
「はい。始業式の朝に。隣のクラスですよね? ええと……要、さん」
 わざわざ説明したのは、ウチの高校の男子制服が何の変哲もない学生服だからだ。助けたとはいえ、俺まで不審人物だと疑われるのは辛い。幸いすぐに反応が返ってきたのは、どうやらあの日間違えられた俺の名前を覚えていてくれたからのようだ。
「そうそう。あの時は名前言うヒマなかったけど、桐島要っていいます。……これ、塚原さんの?」
 地べたに放り出された砂まみれの学校指定のカバンを拾う。カバンを持っていることと制服であることからすると、俺と同じく学校帰りだったのだろうか。
 ――それにしても、なんでこんな時間、こんなところに? 誰かと待ち合わせか?
 このあたりはこの公園の中でもっとも寂しく、桜の時期でないときは夜になると薄気味悪くも思えるような雰囲気の場所だ。肝試しになら向いているかもしれないが、こんな遅くに女性のいるようなところではない。ましてデートの待ち合わせに使うには最悪のスポットなのだ。
 カバンに付いた埃を払って差し出すと塚原は一瞬戸惑ったそぶりを見せたが、構わず彼女に手渡した。塚原はようやく立ち上がり、軽く頭を下げてそれを受け取る。
「ありがとうございました、助けていただいて」
「あ、いや。気にしないでください。彼女なんて言っちゃってすみません」
「いえ」
 酔っ払いからは解放されたはずなのに、彼女の表情は晴れない。思えば、憂い以外の塚原の顔は見たことがなかった。助けるためとはいえ、仮にも勝手に『彼女』などと設定してしまったから気分を害したのだろうか。 やがて、しばしの沈黙ののち、ためらいがちに塚原は切り出した。
「……助けてくれたのにこんなこと言うのはすごく失礼だと思うんですけど。私の噂、知らないわけじゃないでしょう? だから、あまり声をかけないほうがいいと思います。要さんまで巻き込まれますよ」
「いじめに、って意味ですか」
 俺の問いには答えず、彼女は続けた。
「要さんのために言っているんです。お願いだから関わらないで下さい」
「どうして」
「『祟り』がある、から」
 俺までいじめに遭うということなのかと改めて尋ねようと思ったが、それを遮るように塚原はあの言葉を口にした。まさか、塚原本人から祟りという言葉が出てくるとは考えてもみなかった俺は大いに面食らう。
「今日はありがとうございました。さようなら」
 彼女は微かに笑みを――ほんの少し顔が緩んだように見えたので、たぶん笑ったのだろう――浮かべると、俺が呆気に取られているうちに走り去っていった。
 はっとするほど整った顔立ちは、明るく笑えばおそらく異性のみならず同性までをも引き付けるだろう。嵩和の言うように、入学当初は大人気だったというのも頷ける。しかし、塚原の陰りのある笑いは別の意味で強烈に俺の目に焼きついていた。俺が他人の笑顔に心を裂かれるような気持ちにさせられたのはこれが初めてのことで、いったいどんな心境から彼女の陰に満ちた表情が生まれるのかはさっぱり見当がつかなかった。


 塚原を気にかけてというわけでもないが、俺はそれ以降、公園を通り抜けて登下校することが多くなった。この花見シーズンに何度も通ったおかげで比較的混雑していない散策路を帰宅ルートとして開拓するのに成功し、公園は近道として重宝していた。一方で平年より遅い桜前線が進んでくるにつれて、小高い丘を利用して建てられた城跡の頂あたりには花見客も増えてきており、客同士のトラブルだとかでケガ人が出たという物騒な話まで出る始末だった。
 そんな大勢の客の中には塚原遍の姿もあった。俺がショートカットとして使っていたのは週に何度かだったにも関わらず、そのほぼすべての日で彼女を見かけたので、頻度から言えば塚原は毎日あの公園を訪れているのかもしれなかった。公園に何か用があるのか、あるいは俺のように通学路にしているのか、理由は分からないが。
 幸いなことにあれ以来酔っ払いに絡まれるということはないようで、俺としても特にこちらから話しかけることなく、彼女に気づいても素通りする日々が続いた。もちろん視線が合う日はあったものの、決まって彼女から先に目を逸らすのだった。見知らぬ隣人から知り合いぐらいには進歩したとはいえ相変わらず会話もなかったが、それが彼女の希望でもあったので俺は大して気にしていなかった。
 そしてこれも相変わらずだが、学校では塚原が誰かと一緒にいるところを見たことはなかった。
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