みどりのしずく

三羽の鳥【12】

「すべては、私のふがいなさが引き起こしたことだ」
 王はまず、そう切り出した。玉座から立ち上がると、儀礼用の豪華な服の裾が音を立てる。歩くごとに、金の糸の縫い取りが上品に光る。
 何が起きるのかと見守っている間に、王はルーやラグが立つ、一段下の床へと降り立った。
「せっかくの祝いに水を差すかとも考えたのだが、少しでも早くと思えば、今日このときがもっとも良いと思った」
 ロディ王は言いながらルー、レン、メルフィと視線を交え、弱々しく微笑む。

 と、次の瞬間がくりと膝をつき、王は頭を垂れた。
「皆につらい思いをさせて、すまなかった」

 その光景に、場の誰もが息を呑む。いくら非公式な場だからとはいえ、一国の王が個人的に謝るなんて――と。
「アルノルートがこの『家』から去らなければならなかった理由も、エルレーンが自らを牢に入れなくてはならなかった理由も、メルフィーナが皆から隠れて泣いていたことも、私は知っていた。知っていたというのに、ほんとうに――ふがいない」
 ラグも驚いていた。溜め込んでいたものを一気に吐き出したかのようなそれは、『王』ではなく、『父』の言葉だったのだ。それがとても自然に発せられた言葉だったから、なおさら。
 ラグはこれまで、ルーの話を通じてしかロディ王を知らなかった。それから推測するに、子供たちがそれぞれ苦しんでいるのにも気付かない愚鈍な男なのか、はたまた気付いていて手を差し伸べようともしない酷薄な男か、そのどちらかだと思いこんでいた。
 しかし実際の王は、どうやらそのどちらとも違うようだった。遅くはなったけれど、子どもたちと真っ正面から向き合おうとする意思を見せ始めたのだから。王と父の間を彷徨い続ける、少し臆病な青年――中身はラグやルーの何倍も生きているのだろうけれど――その顔には、深い苦悩が見え隠れする。
「謝るなよ」
「王ともあろうお方が。……そのように簡単に頭を下げるのか?」
 ルーが苦虫を噛み潰したような顔で言い返し、レンが表情を変えずに問う。二人に代わるがわる咎められ、ロディ王は僅かに笑った。
「それでも――詫びねばならないと、思っているよ」
 しかし、ルーは動かない。
 レンも、メルフィも、凍り付いたかのように微動だにしない。
 誰も、王に――父親に、手を差し伸べようとしなかった。
 三兄妹は、怒っているわけではなく、迷っているようだった。家族になろうと努力を始めた王を、どう受け止めていいのか困惑しているように、ラグには見えた。
 頭を下げた王の表情はラグには分からない。見えるのは、その玉座の背後に彫られた緑の木のレリーフだけ。玉座を護るように施されたそれは、ラグには王を、そしてその子どもたちをも絡め取っているように感じられた。
 ――みんな、動かないのではなく、動けないのだ。家族みんなが、あの緑の木に囚われているのだ。
 ラグは、思わず手を伸ばしていた。
 もし護衛の兵たちがいたならば、きっと有無をいわさず引き剥がされていただろう。しかし、ラグの手は何の障害もなく、すんなりと王の肩に触れた。王の隣にしゃがみ込み、寄り添う。
 途端に、治まっていたあの感覚が、ラグの中に蘇った。たまらず床に膝をつき、両手で身体を支える。
 まるで、嵐がまさに体内を通り過ぎようとしているような。あるいは、多大な魔力が――得体の知れない力が体じゅうを駆け巡るような。
 でも、どことなく懐かしい匂いがするような――。

 そこで、ラグの目の前は暗転した。


 やがて真っ暗な視界は急速に真っ白へと変わり、ラグは不意に、故郷の凍てつく季節を見た。
 ラグの人生を変えた、血の色の吹雪の日。半ば雪に埋もれた自分と、温度を失っていく両親の亡骸。
 そこに現れた金色の魔法使い――リュエット。

 やがて場面が切り替わり、森の外れの花畑が見えた。ラグの記憶にはない――始めて見る景色なのに、鮮明な色、柔らかな風、甘い香りの花畑までもが、まるで体験したかのように目の前に現れた。
 花に囲まれて立つ町娘。少し癖のある赤錆色の髪が、風にあおられてふわりと広がる。小型の竜を駆り、空から金色の青年が現れたのだ。
 『待たせたね、アルーテ!』
 ルーと同じ色、でもルーより少し優しげな目の光。娘の名を呼ぶその声は目の前の王――ロディールのものだった。
 娘は両手を広げ、ロディ王を迎える。無邪気に笑う娘の顔が、ラグの脳裏でルーの笑顔に重なった。


 王もいつしか顔を上げ、驚きの表情でラグを見つめていた。
 そこから察するに、王の身体にも何らかの異変が起きたのだろう。もしかしたら、ラグと同じ光景を王も見ているのかもしれない。
 ラグが垣間見たのは自らの幼い頃の記憶。そして次に、ロディ王、そしてアルーテ――ルーの母親の過去、だろう。
 ラグ自身の過去はもちろん、ロディ王の過去さえも、幻燈機で映し出されているかのように鮮やかに克明に蘇る。それは、『思い出した』のとは違い、まるで、ロディ王の記憶をそのまま体験したかのようだった。
 ――これはどういうことなんですか? あなたの――王様の力なんですか?
 ラグはそう尋ねようとしたが、上手く声が出てくれないのだった。


「ねえ、ラグ! 父さまも! いったい、どうしたの?」
 その時、ラグの耳元でメルフィの声がした。
「いつまでそうしてるつもりだ。……とりあえず起きろよ。ラグが、困ってんだろ」
 次いで、ルーの声が上から降ってくる。ずいぶんと立腹している様子だ。
 振り返れば、心配げに眉を寄せたメルフィ。そして眉間に思い切り皺を寄せたルーが、不機嫌そうに仁王立ちしている。
 王は両の眉を一瞬だけ上げ、すぐに普段の顔に戻った。そして、何事も無かったように、ラグに声を掛ける。
「……これは、すまなかった。ライグさん、無様なところを見せてしまって、悪かったね」
「い、いえ。……私こそ、王様だということも忘れて、気軽に触れてしまって。たいへん失礼しました」
「なあに。今だけは、ただの人のつもりだよ。気にしなくていい。……さて」
 王は立ち上がると、再び兄妹たちに向き合った。そして、しばらくの沈黙ののち、痛みを堪えるような表情で口を開いた。
「できる限りの償いは考えていくつもりだ。しかし、すぐに何かが変えられるとは思わない。ここまでくるのに長くかかりすぎたからね。それに――過去には戻れない。償いたくても、詫びたくても、言葉すら届かないひとたちも、いる。……だから、今できることからしていこうと思うのだ。
 まず、後継を決めておきたい。もう二度と争うことがないように。……いいかな、アルノルート」
「言いたいことがあるなら、さっさと言え」
「ならば話は早い」
 ロディ王は微笑みを浮かべ、真っ直ぐにルーを見る。そして、凛としたよく通る声で宣言した。
「私――現リトリアージュ王、ロディール=ベレトル=リトリアージュは、アルノルート=ユリストバド=リトリアージュを次代の王として指名する。……レンはそれで良いと言っていたな。メルフィは、どうだ」
 レンとメルフィが迷いなく頷く。ルーはその二人の顔を見比べていたが、やがて殊勝な顔で頷いた。
「ありがたく、お受けする」
「では、決まりだな」
 王の念押しととも言葉に被さるように、よかった、と小さな声が聞こえた。ラグが振り向けば、メルフィが両手を顔に押し当て、大きく息を吐いたところだった。その薄い肩を、レンがさり気なく支えている。
「何も今すぐという話ではない。……できれば機工師として一人立ちできる頃になればいいのだが、戴冠の儀の日取りなどは私だけでは決められないからね。細かいことは、これから詰めてゆくことにしよう」
「明日からって言われたらどうしようかと思ったぜ」
 隣でルーが苦笑いで呟いている。日取りなどは、ロディ王の一存ではなく国のお偉方といろいろ詰めねばならぬということだろう。
 王は頷くと、仕切り直すように声の調子を変えた。ひっそりと、穏やかな口調に。
「それから。……フロレナは家へ返してやろうと思う。もうあれは自分がなにをしたのか覚えていないがな。最悪の道は、私からも口添えして避けさせるつもりだが。それでも恐らく、生涯自由はないだろう」
 フロレナは、レンの母の名だ。
 ルーを抹殺しようとした彼女は、やはりこの国からは出て行くことになったのだ。本来であれば死も免れないほどの重罪であるだろうに、せめてもの慈悲――いや、王の自責の念からくる情け――だろうか。
 レンが、沈んだ声で言う。
「では、私も母と一緒に――」
「レンがいなくなるってなら、俺は王にはならねえ」
 ルーがレンの言葉を遮った。
「俺はこれまで間違いばっかだったけど、俺の作るもんには間違いがないようにしてえんだ。それは機工も国も一緒だと思う。……周りが俺を糺して、支えてくれねえと、俺は王にはなれねえよ。だからレン、お前がいてくれねえと困――」
「最後まで聞け、この愚兄」
 レンはなぜか笑みを浮かべている。ルーはその顔を見て、「謀りやがったな」とふて腐れた。
「約束してしまったからな、一緒に国を見ていくと」
 レンが少し意地悪な視線をルー、そしてラグに送り、にやりと笑った。それからすぐに真顔になり、続ける。
「この馬鹿な兄にどう発破をかけようかと随分悩んだが、私が何もしなくても結果は同じだったのかもしれぬ。ならば、私は何もするべきではなかったのではないかと、最近になって思うのだ。ラグにもルーにも非道いことをした、と。……それは――ひどく、後悔している」
「ほんとだぜ」
 ルーが口を尖らせた。
 思えば、レンが竜に乗ってやってきたのが今回の発端だった。兄に似た姿を不本意だ、そして実の兄を馬鹿と言い切ったレン。ルーが一の王子だと、ルー本人の意思などお構いなしにラグに告げたレン。
 短い間に様々なことが起こりすぎたせいで、それらはもう遠い記憶となりつつあったけれど――。
 ラグは、つとめて明るく言った。
「こうして落ち着くところに落ち着いたんですから、いいんです」
「いいのかよ。お前だって巻き込まれて、結構えらい目に遭ってるんだぜ」
「いいんだよ。……私は、みんな一緒にいるところが見られて嬉しいから。ルーも、きっとそうでしょう?」
「俺は――お前がそう言うなら」
 ルーは拗ねたような顔でそっぽをむいてしまった。もしかしたら、ルーはラグが怒りを我慢しているとでも思ったのかもしれない。
 ――それを何事もなく受け流してしまったのだったら、ちょっと悪かったかな。
 確かに思うところはいろいろある。でも、レンにもメルフィにも気を揉ませたくないし、何よりも父と兄妹が揃ったところを見てしまったら、もう胸が一杯で何も言うことはない。
 黙って聞いていたメルフィが、期待と不安が入り交じった声で尋ねる。
「ね、いつから三人一緒にいられるの? 今日から――とか?」
「今すぐにでも、というお前の気持ちは分かる。……しかし、ルーはそうは言うまい。フィスタから教わることは、まだ残っているのだろう?」
「そうだな。……まだ日も決まってねえなら、今と生活を変えることもねえだろ? その日が来るまでは、居候を続けるとするよ」
 ルーが出て行く日が少し先になりそうで、ラグは内心ほっとして、それから自己嫌悪に沈んだ。


 帰りがけ、ロディ王はなぜだかラグに小声で言った。
「ライグさん。……あなたがいれば、私はいつでもアルーテに会えるようだ。またの機会に、ルーと二人でおいで」
 謁見の間を出たルーが、少々の驚きを込めて呟く。
「俺、親父が母さんの名前を呼ぶの、初めて聞いた気がする」
「あ、アルーテってやっぱり」
「おう」
 さきほどの王の囁きは、あの白昼夢――今のラグには、そうとしか表現出来なかった――のとき聞いたのと同じ優しげなものだった。ルーの母への並々ならぬ愛情が滲む声色。しかし、ラグはルーにそれを上手く伝える術を持っていなかった。
 あの光景は、現実のものだったのだろうか。ラグの過去は確かにラグの体験そのものだったけれど、では、ロディ王とアルーテの思い出は――?
「……ちょっと、いいかな」
 思いついたことがあって、ラグは背伸びしてルーの肩にそっと触れてみた。ちょうど、先ほどロディ王に触れたときのように。
 しかし、ラグが期待したようなことは起きなかった。怪訝そうなルーに「何でもないみたい」と言うと、「何だよ」と返される。
「ううん、私の勘違いだったみたい。……ね、どうだった? お父さんと話してみて」
「王としては尊敬できねえな。……けど、父親としては、少しだけ認めてやってもいい。そんな程度だ」
 ルーは言いながら、ふっとかすかに笑った。その顔は、ラグが見たアルーテによく似ていた。