彼女が俺の手元の図鑑を指差した。
「このカマキリ、花みたいで可愛い」
「君に似てるよね」
彼女は頬を染めて、上手だねえ、なんて言っている。
「擬態っていうんだ。花のふりをして、寄ってきた虫をペろりと」
「で、私にどこが似てるっていうの?」
「……そういうところだと思います」
彼が難しい顔で顎を撫でる。今日に限って無精髭が目立つので、気にしているのだろう。
「……うーん」
「顎、気になるの?」
「ああ。このざらざらした手触り、何てチョウの幼虫だったかなあと思って」
「……毛虫?」
見慣れない髭に少し胸が騒いだのに、やっぱりそうなってしまうのか。
「いいことあった?」
「わかる?」
「鼻の下伸びっぱなし」
彼は子供のように無邪気に笑った。
「今日、今年初めて虫を見たんだ」
「よかったね」
言葉と裏腹に私の心は曇る。虫に彼を盗られる季節がまた巡ってきたのだ。
「今年は一緒に出かけようか」
「いいの?」
「一緒じゃなきゃ嫌だ」
ネットをしていた彼女が突然振り向く。
「昆虫館行こ? 約十五種の生体を展示しています、って」
「やだ」
素っ気ない俺に、彼女は不満げだ。
「俺が苦手なの知ってるよね?」
「ごきぶり?」
「言うし」
ディスプレイをこちらに向け、彼女は嫌な笑みを浮かべた。
「優位に立ちたいじゃん」
休みの前日、大量のフィルムを鞄に詰め込む彼。
「そんなに要るの?」
「去年借りた分なんだ」
話を聞けば、毎年、ある時期、ある場所でしか会えない蝶がいるらしい。フィルムは、その時期その場所でしか会えない虫仲間に返すのか。
「いろんな出会いがあるんだね」
「虫のおかげさ」
「モンシロチョウってキャベツ食べるの? お店で買ったキャベツにはいないよね?」
「ちゃんと退治されてるんだよ」
「かわいそう」
同情したのか、彼女は眉を寄せた。確かに、チョウにとっては気の毒な話ではあるのだが――。
「じゃあ青虫付きのキャベツ、食べたい?」
「……無理」
「今度、生物部の合宿なんだ」
彼はうきうきと言う。確か女子部員もいたはずだが、夜空の下でいい雰囲気に――なんてことはないのだろうか。
「合宿って夜は何するの?」
「夜行性の虫を捕まえるよ」
採集法について語り出す彼。
すっかり忘れていた。彼のような人の集団が生物部なのだ。
「全部のテントウムシが肉食じゃないんだよね」
「そうだよ」
先日、俺をナナホシテントウに例えて逆襲された彼女。今度は勉強してきたようだ。
「じゃ、あなたはこの黄色いの」
「カビを食べる奴だね」
「え、私、カビなの?」
勝手に墓穴に落ちる。彼女はどうしても食べられたいらしい。
彼女が浮かない顔で呟いた。
「蓼食う虫も好きずきって言われちゃった」
タデは辛くてまずいが、それを好む虫もいる。
俺を良く思わない友人がいるのか。俺をけなされるのが彼女には酷く堪えるのだ。
「俺じゃなくて君が虫ってこと? それは可笑しいね」
彼女はほんとだね、と微笑んだ。
帰り道、今日の彼は口数が少ない。眉を八の字にして黙ったまま。
「悩み事?」
「い、いや、全然!」
怪しい態度に、私はさらに問い詰める。
「……どの虫にこじつけたら、君に」
「私に?」
「キ――キスできるかな、って」
「普通に言ってくれて、いいんだよ」
私はそっと瞳を閉じた。