わあ、と彼女が豪快に叫ぶ。足元にはモノトーンの毛虫がうごめいていた。
「暖かいと思ったら、もうこいつの季節か」
「踏むところだった。毎年見るけど、これ何?」
「アメリカ生まれの蛾の幼虫。アメリカシロヒトリ」
「アメリカひろし?」
「……誰だよその売れない芸人みたいな奴」
彼の部屋には小型ながら冷蔵庫がある。
「何入ってるの?」
「見たら引くよ」
そう言って渋々開けてくれた中には、案の定飼育ケースや保存容器が並んでいた。
「食べないよね?」
「観察とか標本作りに使うんだ。居間のに入れたら怒られて」
ご家族も大変なんだな、と私は苦笑いした。
寝ても覚めても虫が好き、そんな彼が虫の話をしない時は、酷く落ち込んでいるときだ。
「……餌、やらなきゃ」
飼っている虫のことを思い出すようなら、浮上してきた証。
「君がいてくれてほんとに良かった。……駄目な俺でごめん」
私のことも気にかけてくれるなら、多分もう大丈夫。
春限定のスイーツがあると連れられてきたのは、ケーキ屋でも喫茶店でもなかった。
「俺の春の定番なんだ」
薦められるがままに、一さじ舐める。口の中に優しい甘さとともに広がるのは、花の香り。
「桜だ!」
「桜の蜜の蜂蜜だからね」
彼も一口。その至福の笑顔もまた、春ならでは。
窓を叩く雨音に、俺はつい顔を歪めた。
「雨は嫌だな」
「何で?」
「昔、アリの巣が水没しないか心配で見に行って、俺の方が水没しかけたことがある」
「その頃から虫好きだったんだ」
思い出した。結局、雨の日の巣の様子は見届けられなかったのだ。
「ちょっと外に――」
「やめて!」
「このウエストの細さ、腹が立つ」
彼女が眺めているのはファッション誌ではなく、なぜかトンボ図鑑だ。
「コシボソヤンマの細さは特殊なんだから、君と比べない。……太ってないと思うけどな」
「服の下はすごいことになってるの」
見せて貰ったことないし、と言ったら頬をつねられた。
「蛍見たいな」
虫好きの彼への、この上ない誘い文句ではないだろうか。初めての夜のデートを仕掛け、私の心は躍る。
「いいね。……で、どっち?」
「何が?」
「蛍狩りの対象だよ。ヘイケボタルとゲンジボタルの二種類がいるんだ」
この問いさえクリアすれば、と私は自分を叱咤する。
彼女の希望で蛍狩りにやってきた。
「わあ、素敵」
光の群舞に歓声があがり、繋いだ手に力がこめられる。どうやら、満足してもらえたようだ――そう思って彼女を盗み見ると、夜闇に浮かぶ顔は俺に向いていた。
「ちゃんとホタル見てる?」
「見てる」
彼女は俺から目を逸らさずに答えた。
すっきりと揃えた黒髪が、白いうなじと夏服によく映えている。
「君もいよいよ夏型だね」
「『君も』って?」
「チョウの仲間は、出てくる時期によって模様が違うのがいるんだよ」
「虫も衣替えするんだね」
夏のナミアゲハに似た鮮やかな黒と白が、俺の目を奪う。夏はもう、すぐそこ。
「駆除終了。アシナガバチだった」
殺虫剤を手に、ベランダから彼が現れた。
「刺されてない?」
「平気だよ。巣が小さいうちなら退治も楽――」
急に黙り込み、目が泳ぐ。
「どうしたの?」
「ここが君の部屋だって、今思い出した」
彼は顔を赤くして、再びベランダへと戻ってしまった。