「セミも終わりだな」
彼がぽつりと呟いた。
歩道の片隅には、もう鳴くことは無い蝉のなきがら。四季の移ろいを虫で感じる彼のことだから、夏の残骸にでも見えていることだろう。
「秋が来たってことだよ」
私が答えると、彼は笑顔で頷く。
一歩だけだけど、彼の世界に近づいた気がした。
「修学旅行の写真、見せて」
「ああ、うん」
曖昧な返事に、これは何かある、と読んだ。
「あまり上手く撮れてないよ」
言い訳する彼から写真を奪い、私は予想通りの惨状に脱力する。
「虫ばかりじゃん!」
「初めて見る種が沢山いて、つい」
昆虫好きには、修学旅行さえも観察の場なのか。
日差しに明るく輝く小さな花壇。陽だまりで蜜を吸い、文字通り羽を伸ばすチョウたちを前に、彼はご満悦だ。
「寛いでるの、久々に見た」
「ずっと寒かったもんね」
「……冬越しするのもいるけど、大抵はあと少しの命だから。最期くらいは」
来週からは雪の予報。冬がやって来る。
期末テストを控え、二人で勉強会。彼女は頭を抱えてぼやく。
「夏に勉強しとくんだった」
「そういう童話あるよ」
「アリとキリギリス?」
「そう。あれ、元は『アリとセミ』なんだって」
「ほんと?」
こうして、また貴重な時間が減っていく。 二人きりで勉強なんてできやしないのだ。
「松の腹巻」
彼女は藁が巻かれた公園の樹を指差した。
「あれは罠。あの中で冬越しさせて、春に藁ごと虫を処分すんの」
「じゃ、中は虫だらけ? かわいいと思ったのに」
がっかりする彼女が面白くて、俺は笑いを堪える。
「悪い虫もいい虫も入るらしいぞ」
「フォローになってないし」
「部屋にカメムシが出たの」
「冬越しに来たんだな」
「自力で追い出したけど、あなたに来てもらえば良かったね」
彼女は苦笑いした。俺としては、むしろ呼んで欲しかったのだが。
「奴らは集団で越冬するぞ。一頭駆除したからって油断するなよ」
「……今日、遊びに来る?」
「喜んで!」
一人の帰り道で、ふと立ち止まる。冷たい街灯の光に浮かび上がるのは、懸命にはばたく一頭の蛾だ。
彼が熱く語っていたのを思い出す。
『冬の蛾はオス。羽が無くてただ待つだけのメスを探しに、飛ぶんだよ』
聞き慣れた足音に顔を上げると、彼の姿。
「家まで送るよ」
「来ると思ってた」
「これ見て」
弾んだ声に、私はイルミネーション特集の雑誌を閉じた。
「昆虫園のクリスマス」
LEDより目を輝かせ、彼は言った。差し出されたチラシには、金色の蛹が沢山下がったツリー。
「……じゃ、イブはそこ行こうか」
「やった!」
そんな顔されて、私が断れるわけがないのに。
「これ見て」
彼が指差すのは、ライトアップされた並木が美しい写真。
「昆虫園は?」
「今年は、恋人らしいとこに連れてくよ」
真っ赤な顔で、彼は言う。
「じゃ、イブはそこ行こうか」
「やった!」
彼は去年と同じ笑顔で、ガッツポーズを決めていた。
一緒なら、どこだって構わないのに。
通学路に雪がちらちらと舞う。また、雪虫だとかなんとか考えているのだろうか、と彼をそっと見上げた。
「ホワイトクリスマスだな」
「あれ? 普通だね」
「俺だっていつも虫ばかりじゃないよ。はい、これ」
手渡されたのは小さなプレゼントの包み。中から出てきたのは昆虫図鑑だった。