とあるページで、俺は手を止めた。彼女が覗き込み、読み上げる。
「アオスジアゲハ。綺麗な色だね。珍しい蝶?」
「いや、この辺にはいないってだけ。一緒に見に行く?」
「デートのお誘い?」
彼女は無邪気に笑った。
青い海と、美しい水色の翅と、そして彼女。俺はうっとりと夢想する。
彼は蝶の幼虫の写真を指差した。
「これは目みたいに見えるけど、ただの模様。本物の目はこれ」
芋虫の先端部に指が移動した。確かに小さな黒い点がある。
「要するに、俺はメイクとかしてない方が好き」
私はむっとして睨むが、彼は怯まない。
「そのままで十分可愛い」
「……狡い」
私服の彼女は春の装い。ひらひらと可愛らしいスカートやリボンが、まるでチョウの翅のよう。虫好きの性か、捕まえたくなってその裾を掴む。
「ま、待って!」
「待ったら捕獲してもいいんだ?」
「……ダメです」
赤面する彼女を、つい虐めてしまう。恥じらう声に、俺は大いに満足した。
髪を下ろした姿は大人っぽくて、いつもと別の顔。まるで、チョウの翅の裏側を見せられているようだ。
「勝手に解かないで」
抗議の声に、俺はリボンを差し出す。怖じけづいてしまい、それ以上は何もできなかったから。
「今度は私の番」
「ん?」
彼女は俺の制服のネクタイに手をかけた。
彼曰く、とあるトンボは、糸を結わえた囮の雌を飛ばせておけば簡単に捕まえられるとか。
「雄が飛び付いてくるらしいよ」
「がっつきすぎじゃない?」
「一刻も早く子孫を残したいんだろ」
「見境ないの? 女子なら誰でもいいわけ?」
「俺はじっくり選ばせてもらったんだけど」
「え?」
彼女はお前にはもったいない、何でお前みたいな奴がいいんだとよく言われる。俺のせいで彼女が悪く言われないよう、彼女に相応しいいい男を目指すのだ。
「格好よくて性格も成績もいい、非の打ち所がない虫オタクになる」
笑顔で頷く彼女。
「運動は?」
「運動以外で穴埋めする方向で」
「暖かくなってきたな」
「浮かれてる?」
「風で枯れ葉が舞ってるのを見て『蝶かな?』って思ったりする程度には」
近付く命の季節に、虫好きはいてもたってもいられない様子。その手からは、一緒に買ったお揃いの手袋が消えている。
もう少しだけ、冬が続いてくれてもいいのだけれど。
虫好きの俺にとって、名前なんて種を識別するための単なる記号。いくら呼ぶのに抵抗があっても、一度口に出してしまえば慣れるのはあっという間。
でも、俺が『ナミアゲハ』と呼ぶとき、そこには溢れる思いがある。気持ちを貫き通す自信がある。
だから、彼女の名はまだ呼べない。
「来年度は部員を増やしたいな」
生物部の彼。良くいえば少数精鋭だが、もう少し頭数が欲しいというのが本音らしい。
「勧誘は?」
「今、君を誘ってんだけど」
「私、苦手な生き物多いし」
彼は不敵な笑み。
「同じ部ならもっと長く一緒にいられるよ」
「……魅力的な特典だけど、やだ」
「私、何でこんなに子供なんだろ」
彼女は落ち込み気味。しかし、気のきいた慰めなど知らない俺だ。
「子供じゃ駄目? ホタルは卵も幼虫も蛹も光るよ」
首を振る彼女。
「私、光ってないよ」
「眩しさでまともに目を合わせることもできない男がいます」
そう言うと、泣きながら笑われた。