放課後、教室の窓の外に、彼女はこっそりあいつを探している。下校する生徒の群れからあいつを見つけたときの笑みは、俺だけが知る彼女の秘密だ。
その嬉しそうな横顔に胸が痛むのは、俺だけの秘密。打ち明けるにはまだ早いと自分に言い聞かせて、俺は今日もこっそり彼女を見つめる。
登校してきた彼は、ひどく不機嫌。
「チャリで走ってたら、口にユスリカが入って。最悪の朝だよ」
どうも、よくフラフラと飛んでいる小さい虫のことらしい。確かに、たまに顔にぶつかったりはするけれど――。
「虫好きなら、食べるくらい平気じゃないの?」
「君は俺のこと誤解してる」
彼女が保健室に顔を出した。酷い数字を示す体温計を手渡すと、たちまち表情を曇らせる。
「風邪、私にも移ったかな」
「何で?」
「だって、昨日、その」
「昨日、何かあった?」
「せ――接触したじゃない」
「そうだったっけ」
「バカ」
ハチの針よりも鋭く、体温計が俺の頬に突き立った。
「連休どうする?」
「家族旅行に行くことになってるの」
予定を告げると、彼はがっくりと肩を落とす。もしかしたら、私に内緒で計画を練ってくれていたのかもしれない。
「ごめんね」
「一人で昆虫採集にでも行くからいいよ。……あーあ、俺も家族になりたいなあ」
さらりと問題発言。
連休前日。今日は妙に彼女と目が合う。
「顔に虫でも留まってる?」
「ううん、何でもない」
挙動不審な彼女を問いつめると、渋々口を割った。
「明日からしばらく会えないから、沢山見ておきたかったの」
「恥ずかしいこと言うねえ」
間近でどうぞと近寄ると、彼女はなぜか目を閉じた。
私たちの目の前に蝶が止まる。
「あれはキタテハ」
「さっきは地味じゃなかった?」
飛んでいるときはくすんだ茶色だったはずが、今は綺麗な橙の羽を広げている。彼が教えてくれた。
「こいつは裏が茶色、表が橙色なんだよ」
「ふうん。裏と表が正反対、ね」
「何でそこで俺を見るわけ?」
連休の朝寝は枕元の携帯に邪魔された。彼女からだ。
「おはよう。起きてた?」
「もちろん」
「朝早くから昆虫採集に行ってるはずだもんね」
ぎくり。
「それだけのために電話したのか?」
「違うよ」
しばらく黙った後、彼女は小声で尋ねる。
「……私に会えなくて、寂しい?」
「もちろん」
彼の手帳に私の知らない名前が書き込まれている。クラスメートでも、彼の部活仲間でも、もちろん家族でもない名だ。
「サナエって誰?」
「トンボ」
彼が笑いながらめくった図鑑には確かにサナエの文字。
「ごめんね。少しだけ疑っちゃった」
「もしサナエと付き合えるなら嬉しいけどね」
「きれい!」
虹が横たわる空を見上げ、彼女が歓声をあげた。
「さて、なぜ虹という漢字が虫へんなのかというと――」
彼女は人差し指を俺の唇に当て、続きを遮った。
「すぐ消えちゃうんだから、今は空を見せて」
「確かに、今しか見られないかもな」
「でしょ?」
彼女の瞳にも七色の光。
小さな虫が私の進む方向へと飛び、着地する。
「何か飛んでったよ」
「ハンミョウだな。人の数歩先に逃げるから『道教え』とも呼ばれてる」
教えて欲しいのは道ではなく彼の気持ち。少しの八つ当たりを込め、私は呟く。
「逃げてるくせに道教えって、変なの」
彼はごもっとも、と笑った。