「 」
「何か言った?」
彼は申し訳なさそうに尋ねる。
「ううん、なんでもないの」
「そう?」
読んでいた図鑑に再び目を落とす彼。がっかりしたような、ほっとしたような――私は小声で繰り返す。
「 」
「実は、聞いてた」
意地悪く言う彼の顔は、なぜか真っ赤。
彼の前髪は長い。切りに行くのが億劫だという。
「顕微鏡覗く時に邪魔なんだよ」
ふと思い付き、私は自分の髪からヘアピンを外した。
彼の柔らかい髪を指で梳き、留める。隠れていた、意志の強そうな額と眉があらわになる。
「サンキュ。借りとく」
「に、似合うね」
「何で照れてんだ?」
家で読んでと、くるくる巻かれた手紙を渡された。何とかという虫の真似らしい。
内容も虫絡みかと開いてみれば、気恥ずかしくなるような愛の言葉がこれでもかと連なっていた。震えた字で凹む便箋。彼の思いが私の心にすとんと落ちる。
その虫の名は、オトシブミ。
外は五月雨、ご機嫌斜めの空。遊びに来ていた彼に尋ねた。
「蝶は雨の日どうしてるの?」
「葉の裏とかで雨宿り」
「……外、行かないの?」
普段は天気などお構いなしで、捜しに行こう、という彼が、今日は動かない。うっとりとした目でこちらを見る。
「俺も、雨宿りしていたい気分」
空を恨めしく見上げていると、彼女の声。
「雨乞い?」
「よくお分かりで」
今日は体育祭だ。運動がすこぶる苦手な俺。彼女に格好悪いところを見せたくはないが、こればかりは仕方がない。
「虫を追って走り回ってるけど、足が速くはならないんだな」
「虫採り競争があれば優勝なのにね」
テスト勉強という口実で、図書館で落ち合う。
私を待つ間に彼が見ていた図鑑は、大人でも買うことを躊躇しそうな高額のもの。
「こういう本を作る人になりたいんだ」
「買える人じゃなくて、作る人?」
「うん」
迷いなくうなずく彼が眩しい。
では、私はいったい何になるのだろう?
まるでアゲハのような、それが第一印象。
その後、彼女の何気ない仕草や表情を知り、実際はカマキリやハチのような一面もあることも知った。ただ、俺には上手く伝えられる語彙がない。
「で、結局どう思ってるの?」
「いろんな虫を一つにした感じが、好きだな」
「……あ、ありがと」
「薄着過ぎ」
「だって暑いもん」
「例えば、だ。花を壊して、旨い蜜だけ吸うハチがいる」
「悪いねえ」
「蜜だけ盗むようなのは、ヒトにだっているんだ」
「そうなの?」
「そうだよ。だから他の奴らの前では薄着禁止」
「……あなたは、悪い蜂じゃないよね」
「そうならないよう努力する」
知らない男の人に絡まれた。捕まれた腕が痛くて怖くて、泣きそうだ。
そこに、いつになく低い彼の声。
「俺の彼女だ。放せ」
敵が退散した後、彼に聞いてみた。
「怖くなかった?」
「『悪い虫』を追い払うのは、俺の得意分野だから」
さすが虫マニア。照れ笑いしている彼に惚れ直す。
「あれ何?」
彼女が指差すのは長い脚で小川の水面を滑る虫。
「シマアメンボ」
「普通のとどこが違うの?」
「羽が無いから飛べない」
「空を捨てて水を選んだんだね」
なかなか詩的で俺好みの表現だ。
彼女は川岸から身を乗り出し、更に一言。
「本当にしましまだ」
素直で俺好みの表現だ。