私は彼から昆虫図鑑を奪う。終わりの方の数ページが、クリップで止められていた。
「これじゃ読めないじゃない」
「うっかり開かないようにしてんだ」
虫好きの彼が見たくないページ。俄然興味をそそられ、私はクリップを取り除き、そしてすぐに図鑑を放り投げた。
「ゴ――」
「な?」
体長:165センチ
体重:教えてくれない
時期:いつでも、夏がおすすめ
分布:駅から自転車で10分
特徴:見た目派手だけど性格は素朴 着やせするタイプ よく分かんないけどいい匂い
可愛い 可愛い 可愛い――
「何か読んでるの?」
「図鑑」
君のページ、と心で呟く。
体長:170センチ弱
体重:私より軽いかも……
時期:冬は元気ない
分布:うちから自転車で10分
特徴:青緑色のフレームの眼鏡 痩せ形で肩幅狭い よく焼けてる 鞄に虫採り網が入ってる 優しいけどちょっと捻くれてる――
「もっと色々知りたいな」
「あ、それ俺も思った」
「俺って草食系?」
「昆虫っていう趣味だけ草食かな。本当は肉食だよね」
彼が目を輝かせる。
「草食に擬態ってこと?」
「その例え分かんない」
「イナゴじゃなくてキリギリス?」
私は首を捻る。
彼が身を乗り出した。顔が近い。近すぎる。
「そういうところが――」
食べられるのを待つ。
オレンジ色の蝶が、目にも留まらぬ早さで横切った。虫好きの彼には、その一瞬で充分らしい。
「姫赤立羽」
「姫?」
「赤立羽より少し小さいから、姫だよ」
答えつつも、彼は機敏に飛び回るおてんばを目で追い続ける。
例え刹那でも彼を独占した姫。私は彼に気付かれぬよう睨み付ける。
「これとこれ、同じ蝶なの?」
「ヒョウ柄が雄で、紫の方が雌だよ」
「こんなに姿が違ったら、お互い迷っちゃうんじゃない?」
彼女は俺にはない柔らかさで笑う。
違うかたちだから興味が湧く。触れてみたくなる。同じ生き物なのかどうか確かめたくなる。
「ん、何?」
やはり柔らかい。
登校途中、空を埋め尽くすほどの赤蜻蛉の大群に出会った。無数の影が舞う空に、彼が言う。
「からっと晴れた日に、示し合わせたように集団で里に下りてくるんだ。産卵して、死ぬために」
「……そっか」
爽やかな青空は、途端に悲しい色に変わる。
毎年のことだよ、と彼は微笑んだ。
単調なリズムで響き渡る虫の音。彼曰く、「これはセミ」と。
「秋だよ」
「他のセミが消えると目立つんだ。小さいくせに声だけはでかくて。人間でもそういう奴、いるだろ」
横目で私を見る。
「……大きくてすみませんねえ」
「いや、別に、ちょうどいいサイズだと」
「え?」
「ん?」
「夜に虫の声がすると、涼しいなって思ってたんだ。先週までは」
身震いする彼。長袖を羽織ってもなお涼しい夜だ。
「不思議だけど、寒い日中に同じ声を聞くとなぜかほっこりするんだよ」
お試しあれ、と言って彼は頭を掻く。照れたらしい。
「私、今、あったまった」
「え? 何で?」
別名拝み虫、または祈る予言者。胸の前に鎌を引きつけ、獲物を待つ様子がそう見えるのだという。
彼女はもっともらしく頷いた。
「カマキリにだってお祈りしたいことくらいあるよ」
「例えば?」
「おいしいもの食べたい、とか」
両手を組んで、俺の顔を覗き込む。
「……何かおごるよ」