「あ、蝶が来てる」
「桜の出す物質に誘因されるんだよ」
何でも生物学的に解体するのも善し悪し――と思っていたら、彼はさらに続けた。
「でも、理屈じゃ説明できないこともあるよ。なぜか分からないけど、どうしても惹かれるんだよ」
真っ直ぐに見つめられ、私はもう桜どころではない。
「これがスジグロシロチョウ、こっちがヤマトスジグロシロチョウ」
「そっくりだね。見分けられる?」
「香りで分かるよ」
彼女は顔をしかめた。
「スジグロはレモンの香り。ヤマトは少し穏やかな柑橘系」
彼女は後ずさる。おかげで、君の髪の香りが一番好きだ、と言いそびれてしまった。
『ぼくのゆめは世界で一番きれいなチョウをつかまえることです。大事に飼い続けて、ずっといっしょにいたいです』
彼女は昔の文集から顔を上げて尋ねる。
「叶いそう?」
「君次第だね」
頬を染めたチョウは抵抗もせず俺の腕の中に捕われた。
「早速叶ったぞ」
「後段も忘れないでね」
必死でテスト範囲を詰め込む私。一方の彼は余裕でのたまった。
「俺は普段から勉強してるから。君はキリギリスってわけ」
私がそんな彼の隣で遊んでいたのは事実だけれど、困らせてやろうと尋ねてみる。
「その蟻はなんて蟻?」
「クロナガアリだね」
私はおとなしく勉強することにした。
待ち合わせのコンビニ前には青白い光。バチッという音に私は肩を震わせる。
やってきた彼に尋ねると「電撃殺虫器だろ」との答え。
「虫は青が好きなんだ」
「呼び寄せられるの?」
「死ぬためにね」
飛んで火に入る夏の虫、と彼は呟く。音のたびに消える命を思い、私は光を見上げる。
「ホタルって卵や蛹も光るんだよ」
蛍の光は雌雄の会話のはず。輝きを頼りに飛んでゆける親はともかく、なぜ卵まで?
そう彼に尋ねると「その方が綺麗だから」という返事。
「今日は虫マニアっぽくない答えだね」
「き、君はこういう方が好きかなって」
耳まで赤くして、彼ははにかむ。
「クワガタを通学路で拾って」
「拾って?」
怪訝な顔で復唱する彼女。無理もない。
「公園で見つけてさ。家で飼ってる」
「見かけるとついお持ち帰りしちゃうタイプ?」
「そうだな」
「じゃ、私も公園で待ってよう」
無邪気にそんなことを言う。さて、連れ帰った後はどうしてくれようか。
「蝶蜻蛉?」
「ひらひら飛んで、虹色に光るんだ」
「蝶みたいに綺麗ってこと?」
「トンボも綺麗だと思うけど」
蜻蛉好きの彼は口を尖らせた。確かに一理ある。
「うん、素敵なものはカテゴリーに関係なく素敵だよね」
「だから君は俺を選んでくれたんだろ」
彼は自分で言って頭を掻いた。
「蝉に感じるのは静けさじゃなくて暑さだよね」
彼女がそんなことを言うので、一応反論してみる。
「夏だけじゃなくて春も秋も鳴いてるよ」
「そういうことじゃなくて! ……夏休み、海に行こうよ。二人で」
いつもより薄着の彼女が俺の汗ばんだ手を握る。俺は心からセミに感謝した。
顔の一部と言っていいほど馴染んでいたもの。日本最大の蜻蛉にあやかったという青緑のフレームが、今日は無い。
「コンタクトにした」
「何で」
彼は眉を僅かに動かす。
「接近したいから。眼鏡は邪魔なんだ」
その目はまるで猛禽。蜻蛉の眼鏡はカモフラージュだったのだと、私は悟った。