「チョウも水を飲むんだよ」
「蜜だけじゃないの?」
そういえば水溜まりにいたりするよね、と彼女は言う。
「何か得なことでもあるのかな。 あなたは見習わないの?」
「飲んだ方が繁殖に有利なんだって」
途端に、彼女の顔が真っ赤になった。
「見習った方がいい?」
「や、やめて」
虫好きの彼からの賀状はやはり虫の写真。
「あれ、何?」
「ヘビトンボ」
「蛇?」
「蛇でもトンボでもないよ」
では何故蛇蜻蛉。悩む私に彼は言う。
「写真は二の次。勇気を出して年賀状を送ったことが大事で」
「でも、できれば次はもう少し可愛い写真で」
「……はい」
昔の同級生に出くわした。いい思い出がない相手の横をすり抜けようとしたら「おい」と止められる。
「お前、昆虫採集とかキモいことまだ続けてんの?」
俺は震える胸を精一杯張って答えた。
「続けてるよ。凄く楽しいんだ」
大好きな彼女が認めてくれた趣味。誰にも馬鹿にはさせない。
「不完全変態と完全変態が」
「手短に」
「子どもと大人が同じ姿の虫と、劇的に姿が変わる虫がいるわけ」
飛蝗は前者、蝶は後者だという。
「子どものまま大人になってもいいのかな」
「君が君であれば、どんな大人になったって僕は」
その続きは、教えてもらえなかった。
彼女は自分を蛹と言った。殻の中で、厳しい現実の嵐へ飛び込む前の小休止をしていると。
それなら俺は繭になろうか。彼女を風雨から護り、優しくくるんで寝床になるのだ。
ただし、蛹はいずれ繭からすり抜けるけれど――。
うたた寝する幸せそうな寝顔を見ながら、何故か寂しさが募る。
「チョウは近くしか見えてないんだって」
「近眼なのかな?」
彼は眼鏡をずり上げながら、俺と一緒だ、と笑う。
「どのくらい見えるの?」
「そうだな――」
突然、ぐっと距離が詰まった。彼が私を引き寄せたのだ。
「これくらい近寄らないと、見えないらしいよ」
それは、半径1メートル。
「蝶の名前って覚えにくい」
青条揚羽、紋白蝶、褄黒豹紋。特徴の羅列は素人の私には辛い。一方の玄人は「俺は分かるよ」と宣う。
「虫好きだからだよ」
じゃあ覚え易いのを、と彼は図鑑をめくる。
「バナナセセリ」
「バナナ?」
「バナナが好きだから」
「……覚えちゃうね」
「だろ?」
俺の部屋には酒瓶がある。黒糖とバナナを漬け込めば昆虫捕獲用トラップの完成だ。
本来の用途通りに沢山呑ませれば彼女も捕まえられるはずだけれど、それには俺の経験値が足りない。あと三年、お酒は二十歳になってから。
それまでは昆虫で練習しておこうと、自分に言い聞かせる。
「数十年ぶりに発見なんて蝶や魚がいるだろ」
「幻の、ってやつね?」
「幻も追い求め続けると現実になるよ。僕にとっての君もそうだった」
彼はこの上なく真剣な表情で、私の手をそっと握った。慌てたように、冗談めかして言う。
「消えるなよ」
答える代わりに、その手を強く握り返す。
「これ、何?」
彼女の問いに、俺は折り畳まれたレンズを引き出した。
「虫眼鏡。倍率は十倍」
彼女はレンズ越しに俺の方を覗きこむ。ピントが合うところまで寄ってきて曰く、「ほんとだ、大きく見える!」
普段より距離が近いんだから当たり前だ。赤い顔を観察されないよう、俺は俯く。