「今日も貸してあげる」
ルーペを構える俺に、彼女はヘアピンを手渡す。このささやかなやりとりのため、散髪を先延ばしにしているのは内緒だ。
しかし今日は――。
「随分可愛いな」
「あなたに似合いそうだったから」
微笑む彼女のため、俺はラインストーン煌めくお花のピンを髪に挿す。
「動物は死んだあとに残る部分で数えるんだって」
首を傾げる彼女に、俺は解説する。
「魚は尾、鳥は羽とか」
「昆虫は?」
「生物学的には『頭』」
「頭は食べないの?」
「食べ残す部分の話じゃないよ」
そうだったね、と彼女は苦笑い。
「あれ、じゃあ人は?」
「名」
「あ、なるほど」
彼の昏い視線の先に、雪に濡れた蜘蛛の巣。
私は寒風に首をすくめる。
「お昼は暖かかったから」
「バカだな。まだ冬なのに。巣を作ったって餌なんか無い」
「それでも春は恋しいもの。期待しちゃうんだよ」
「分かるよ。俺に似てるなって思って」
彼と目が合う。春を待つ瞳が揺れていた。
「お洗濯取り込むから、ちょっと待っててね」
「俺、手伝うよ」
両手に抱えたタオルに顔を埋め、彼女が言う。
「もうすっかり春だよねえ」
「暖かくなったよな」
「外に干してもよく乾くようになったもんね」
「洗濯物にユスリカがくっつくようになったからなあ」
「え! ど、どこに?」
彼女は視界を横切ってゆくチョウを目で追う。
「もう飛んでるんだね」
「冬越ししてたやつだ」
「春まで何を思って眠ってるのかな」
虫は夢など見ない――言いかけて、俺は思い直した。
「麗らかな日差し、かな」
「私もそう言おうとしてたの」
彼女の眩しい表情が、俺にも春を運んでくる。
苦しいよと言う声で、私はようやく解き放たれた。
「すり抜けて行っちゃいそうで、つい」
「心配性なんだから」
彼は照れながら言う。
「俺、虫になりたい」
「何で?」
「六本脚なら、もっと強く抱きしめられる気がして」
いや蜘蛛なら八本だし更にいいか、と呟く彼。逃げないと誓う私。
「虫には体温無いよね」
「手に乗せるとひんやりするのって体温じゃないのかな。死んじまった奴は、気温と同じ温度になるし」
「生きてるから冷たいってこと?」
頷いた彼がそっと頬を寄せてくる。
「君が冷たいと俺が温める口実にもなるしな」
「二人とも熱すぎて全然意味ないけどね」
「虫ってやっぱ田舎の方が多いの?」
「都会で増えてる奴もいるよ。元々の食草じゃなくて外来植物を食べたり」
「したたかだね」
「俺も見習って逞しくなるかな」
不意に、彼女の指が俺の首筋に触れた。なぞられる感触に体が震える。
「これくらいが好きだけど」
「了解、では現状維持で」
「投票結果で昆虫ノートが復活、だって」
「俺、投票したよ」
「どれに?」
「ヒメベニモンウズマキタテハ」
「え?」
難しげな名前だ。聞き返そうと思ったけれど、楽しげな彼を見ていたらそんな気も薄れる。
「自由帳だね。何に使うの?」
「日記でも書くよ。君のことばかりになりそうだけど」
「この木の板、何?」
詳しく話せば嫌われるんじゃないか。いや、彼女に限ってそんなことはあり得ないはず。
「展翅板。標本を作る時、これで虫の翅を伸ばすんだ」
それを聞き、彼女は微笑む。
「合格」
「もしかして俺、試された?」
「ごめん。でも、私を信じて話してくれたんでしょ?」