「今日は何の日?」
「虫歯予防デー」
「一理あるな」
笑って首を振る。どうやら彼が求めていた答えではないらしい。
「正解は虫の日。あと、蒸しパンの日でもある」
さすが虫マニア、虫と蒸しパンは彼の中では並列なのだ。
「蒸しパン食べたくなってきた」
「じゃあ今日はパン屋デートね」
「俺の物差しは虫専用なんだ」
「体長を測るの?」
「心の中の話」
本物の定規じゃなくて、と彼は言う。
「でも君は、普通の物差しと、俺と同じのと、二つ持ってる」
「増やしたの」
「俺も君と同じ間隔のが欲しい。どうしたらいい?」
真顔で聞く彼に、私は「もう持ってるのに」と答える。
彼が熱心に眺めているチラシには『妖精たちのつどい』とある。清廉さといかがわしさをまとった語感は何とも怪しい。
「何それ?」
「なーんだ」
「綺麗なお姉さんの夜のお店」
「惜しい」
裏面には『特別展 蝶と蛾』。
「惜しくなくない?」
「綺麗、は当たり。でも君ほどじゃないけどね」
「これは綺麗」
「こっちは?」
「無理」
「これは?」
「きらきら感が素敵」
指差していた甲虫図鑑を置き、彼は困ったような顔で笑う。
「君は難しいな」
「虫の好みなんか考えたこともなくて」
「……ごめん」
「あなたが好きなことなら、私も考えたいから」
「君のそういうところが――」
雨と風が弱まるたび、その僅かな合間にアブラゼミの声がする。
「台風が過ぎたら秋なのに」
「諦めてないんだろ」
「何を?」
「俺が諦めかけてるもの」
彼女が首を傾げる。
あれはオスがメスを呼ぶ声だ。まだ恋をしたくて鳴いているのだ。
「頑張ってみたら?」
「君が応えてくれるなら」
「蝉の声しなくなったね」
「してるよ。蝉の声が少なくなったね、が正しい」
「現代文みたい」
彼は俯き、唸っている。咎めたわけじゃ――そう言おうとしたら、彼は顔を上げ、にっと笑った。
「蝉の命を対価として、赤蜻蛉の群舞を手に入れた」
「文学青年みたい」
「そう言われたくて」
「雨を空に縫いとめてみたんだ」
彼が私にデジカメを差し出す。空中に雨粒がいくつも浮いている写真だ。
「不思議」
「クモの糸なんだけど」
照れ笑いする彼の、そんなロマンチックなところが好きだ。どうしてみんな分かってくれないのだろう。
ううん、大人気になっても困るのだけれど。
「なんで虫が好きなの」
「知らないことを知りたい、それだけ」
歯切れのいい答えが、一直線に返ってくる。
「さすがの昆虫愛だね」
正直に感想を述べると、彼は照れ笑い。やがて、潤んだ瞳が私を捉えた。
「君のこともまだ知らないから、たくさん知りたい。それは、愛、なんだろう?」
「どんぐりか」
「親戚の子が、遠足のお土産だって」
「虫は退治した?」
彼は俺がやるよ、と持ち帰ってしまった。数日後、どんぐりは戻ってきた。
「ちゃんと始末した」
「嫌なこと頼んでごめんね」
「君のためなら殺せる。たとえコナラシギゾウムシだって、ね」
仕事人の顔で、彼は笑う。
「ニセクロホシテントウゴミムシダマシという虫がいて」
「ん?」
「ゴミムシに似てるから騙し。テントウムシに似てて黒い模様がある。そんな別の虫に似てるから『ニセ』」
「難しいね」
「君の名前の方がずっと簡単なのに、うまく呼べない」
「気長に待ってる」
「よろしくな」