虫めづる 251-260

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 6月4日

「今日は何の日?」
「虫歯予防デー」
「一理あるな」
 笑って首を振る。どうやら彼が求めていた答えではないらしい。
「正解は虫の日。あと、蒸しパンの日でもある」
 さすが虫マニア、虫と蒸しパンは彼の中では並列なのだ。
「蒸しパン食べたくなってきた」
「じゃあ今日はパン屋デートね」


 物差し

「俺の物差しは虫専用なんだ」
「体長を測るの?」
「心の中の話」
 本物の定規じゃなくて、と彼は言う。
「でも君は、普通の物差しと、俺と同じのと、二つ持ってる」
「増やしたの」
「俺も君と同じ間隔のが欲しい。どうしたらいい?」
 真顔で聞く彼に、私は「もう持ってるのに」と答える。


 妖精たち

 彼が熱心に眺めているチラシには『妖精たちのつどい』とある。清廉さといかがわしさをまとった語感は何とも怪しい。
「何それ?」
「なーんだ」
「綺麗なお姉さんの夜のお店」
「惜しい」
 裏面には『特別展 蝶と蛾』。
「惜しくなくない?」
「綺麗、は当たり。でも君ほどじゃないけどね」 


 好きなんだよなあ

「これは綺麗」
「こっちは?」
「無理」
「これは?」
「きらきら感が素敵」
 指差していた甲虫図鑑を置き、彼は困ったような顔で笑う。
「君は難しいな」
「虫の好みなんか考えたこともなくて」
「……ごめん」
「あなたが好きなことなら、私も考えたいから」
「君のそういうところが――」


 アブラゼミ  [カメムシ目 セミ科]

 雨と風が弱まるたび、その僅かな合間にアブラゼミの声がする。
「台風が過ぎたら秋なのに」
「諦めてないんだろ」
「何を?」
「俺が諦めかけてるもの」
 彼女が首を傾げる。
 あれはオスがメスを呼ぶ声だ。まだ恋をしたくて鳴いているのだ。
「頑張ってみたら?」
「君が応えてくれるなら」


 ブンガクテキヒョーゲン

「蝉の声しなくなったね」
「してるよ。蝉の声が少なくなったね、が正しい」
「現代文みたい」
 彼は俯き、唸っている。咎めたわけじゃ――そう言おうとしたら、彼は顔を上げ、にっと笑った。
「蝉の命を対価として、赤蜻蛉の群舞を手に入れた」
「文学青年みたい」
「そう言われたくて」


 魔法

「雨を空に縫いとめてみたんだ」
 彼が私にデジカメを差し出す。空中に雨粒がいくつも浮いている写真だ。
「不思議」
「クモの糸なんだけど」
 照れ笑いする彼の、そんなロマンチックなところが好きだ。どうしてみんな分かってくれないのだろう。
 ううん、大人気になっても困るのだけれど。


 好奇心

「なんで虫が好きなの」
「知らないことを知りたい、それだけ」
 歯切れのいい答えが、一直線に返ってくる。
「さすがの昆虫愛だね」
 正直に感想を述べると、彼は照れ笑い。やがて、潤んだ瞳が私を捉えた。
「君のこともまだ知らないから、たくさん知りたい。それは、愛、なんだろう?」


 コナラシギゾウムシ  [コウチュウ目 ゾウムシ科]

「どんぐりか」
「親戚の子が、遠足のお土産だって」
「虫は退治した?」
 彼は俺がやるよ、と持ち帰ってしまった。数日後、どんぐりは戻ってきた。
「ちゃんと始末した」
「嫌なこと頼んでごめんね」
「君のためなら殺せる。たとえコナラシギゾウムシだって、ね」
 仕事人の顔で、彼は笑う。


 ニセクロホシテントウゴミムシダマシ  [コウチュウ目 ゴミムシダマシ科]

「ニセクロホシテントウゴミムシダマシという虫がいて」
「ん?」
「ゴミムシに似てるから騙し。テントウムシに似てて黒い模様がある。そんな別の虫に似てるから『ニセ』」
「難しいね」
「君の名前の方がずっと簡単なのに、うまく呼べない」
「気長に待ってる」
「よろしくな」


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