「シュリ、今、何て言ったの」
「僕がこうしてメアと話せるのは、今日が最後なんだ」
 硬質でつやのある声が、合成されたものとは思えないほど流暢に、メアの問いに答えた。
 メアはディスプレイを真っ正面から見つめると、聞き返す。
「最後って、どういうこと」
「君を引き取りたいという人が現れたんだ。明日、君を迎えに来てくれる予定になってるよ」
 メアの人生を左右する一言を、シュリはさらりと告げた。音声とともに、会話の内容が一字一句漏らさず、真っ白い画面に刻まれていく。『最後』の文字を目にして、やっと事態の深刻さを理解し、メアの顔からはすっと血の気が引いた。
 『シュリ』は、コンピュータ内に構築された、カウンセリング用の男性型人格プログラムだ。
 メアとシュリとが出会ったのは五年前。
 とある事情から天涯孤独の身になってしまったメアの心を癒すために、中央地区の王立病院から貸し出されたのがシュリだった。彼はそれ以来ずっと、ともすれば孤独に溺れそうになるメアの心のよりどころとして、話し相手を務めてきてくれた。今や、メアの人生には無くてはならないパートナー、それがシュリだった。
「自分で言うのも何だけど、いい人を選んだよ。……本当に良かったね、メア」
 シュリがそう言うと、会話文で埋め尽くされた画面が少しだけ揺れた。それは、これまでにもたびたび見られた彼の感情の表れだった。彼は今回のことを心底喜んでいるのだ。本当の家族以上に絆を深めたはずのシュリが急に裏切り者になったような気がして、メアは唇を噛んだ。
 黙っていては、明日には別れが来てしまう。どうにかして彼を思いとどまらせなくてはと、メアは考えがまとまらないまま、とりあえず口を開いた。
「……そんなに急に決められたって、私、困る」
「実は、話を持ちかけられたのはもうずっと前のことなんだ。君に教えるのがぎりぎりになってしまったのは、謝るよ」
 文字の列が揺れる。きっと、頭を下げたつもりだ。
「シュリを一緒に連れて行っちゃだめなの? それなら、お別れしなくてもいいんじゃない?」
「僕の貸し出しについての契約書を読んだことはないの」
「え? ……うん、一応はあるけど」
 実際は、メアが契約書を読んだのは五年前の一度きりだった。当時十一歳だったメアが、膨大な量の書類のすべてを把握できたはずもない。シュリはそれを知ってか知らずか、「じゃあ分かっているはずだけど」と前置きして続ける。
「僕の貸与期間は『貸与者本人が成人するまで、もしくは、貸与者の身元を保護する者が決定するまで』。だから、今日いっぱいでお役ご免ってことになるね。あ、僕のプログラムは、日付が変わると同時にネットワークを通じて研究所に回収されるから、メアの手を煩わせることはないよ」
 すでに、ちょっとやそっとのことでは動かせないところまで手を回してあるのだ――シュリは、そう言いたげだった。見慣れていた光景が、メアの前から遠のいていく。
 果たしてまだ打つ手が残されているのか、メアは諦めきれずに探りを入れる。
「一言くらい、相談してくれてもよかったのに」
「言えば、納得したかい?」
 メアは否定の代わりに、うつむいてディスプレイから目を逸らす。たとえ事前に相談されたところで納得などできるわけがなかったし、シュリもそれを理解した上で、メアに内緒でことを進めていたのだろう。
「だいいち、君に加えて僕の世話まで頼むんじゃ、引き受け人も大変だよ。せっかく迎えた新しい家族に、口うるさい兄貴まで勝手に付いてきたって感じだろう? ……メアはもう一人じゃない。こうして向かい合えなくなっても、僕はいつでもそばにいるから。僕と君だけの部屋から出て行こう」
 一方のシュリは、いつもと変わらない様子で、気安く話しかけてくる。その穏やかな態度がなおさら、メアを苛立たせた。
 メアは、シュリが全てと言っても大げさではないほどに彼に依存しがちな日々を送っていた。シュリが支えてくれる限り、メアは彼に甘え続けて過ごしたことだろう。
 しかし彼が言うとおり、生きていくために、メアは外の世界を知らなくてはならない。シュリが別れを選択したのは、彼が誰よりもメアを思ってくれているからだとも言い換えられる。それはメアだって分かっているつもりだったのだが――。
「一緒に、ドアを開けようよ」
「勝手に決めないで! 一緒だなんて、嘘じゃない! ……私はやっぱり一人よ。あなたが、明日からの私を一人にするんだわ!」
 抑えきれなくなった感情が、一気に迸った。
 メアは、目から涙がこぼれ落ちたことに驚いて乱暴に頬を拭った。堪えていたものが溢れ出してしまうと、心が折れるのは簡単だった。
「……僕と初めて会った日も、震えてたよね」
 そんなシュリの言葉も聞こえないふりをして、メアは身体を抱くように丸くなった。

 しばらくして、膝に顔をうずめていたメアは、視界の端で何かがちらちらと動いているのに気付いた。顔を上げると、ディスプレイが妙に明るい。シュリに何かあったのかと思い、メアは慌てて彼に走り寄る。
 メアの目は、画面に釘付けになった。
 そこに映し出されていたのは、立体画像で描き出されたひじから先だった。骨張っていて、力強くたくましい手。健康的な肌の色も、青いといっていいほど色の白いメアとは違う。
「シュリの――手?」
 問いかけに、画面が画面がわずかに揺れた。
 メアはこれまで、シュリの『姿』、つまり彼の『外見』を見たことがなかった。メアとのコミュニケーションに必須である『声』は、シュリに設定された人格に沿うように合成されたものだと聞いたことがあるけれど、その見た目までは設定されていないらしかった。
 ならばこの手は、今まさに、リアルタイムで作り出されているに違いない。
 その証拠に、シュリはさきほどから言葉を発しなくなっていた。手の描画にかなりの処理能力を割いているため、その他の機能を休止せざるを得ないのだろう。
 コンピュータが微かな音を立てるにつれ、少しずつ画面の中の手が変化していった。さっきまではただ開いていただけの手のひらが、軽く閉じつつある。それは、目の前のメアにまるで助けを求めるかのように差し伸べられていた。
「触っていい?」
 メアはそっとシュリの手に触れた。夜の空気に馴染んで冷たいディスプレイが、メアの体温を少しずつ奪っていく。そういえば、人の温もりなんてもう何年も感じていないと、メアはいまさら思い出した。
「そういえば、シュリに触るの、初めてだね。嬉しい」
「……僕は、苦しい」
 シュリの声と同時に、手の画像が画面から消えた。やがてディスプレイは元の状態に戻り、いつものようにシュリの言葉が表示されていった。珍しくどこか自嘲気味に、彼は独白する。
「君が泣いていても、僕は慰めることさえ満足にできない。せいぜい話しかけることくらいしかできなかった。だから今も、『シュリ』ができるのはここまでなんだなって、思い知ってるところ」
 メアは頬を張り飛ばされたような衝撃を覚えた。
 いつでもメアのことをいちばんに考えてくれ、自分のことは多くを語ろうとはしなかったシュリ。彼がここまで心の内をさらけ出すのは初めてだ。肉体を持たないシュリだからこその辛さ、手を握ることさえもできずに傷ついていた彼の心を、果たしてどれほど思いやることができていただろうかと、メアは涙を堪えながら考える。
「これからの君に必要なのは、生身の人間の温もりだと思う。……僕じゃ――にせものじゃ、だめなんだ」
 呆然と座り込んだままのメアに、シュリはさらに説く。シュリは、自身がどう足掻いてもできなかったことを、次の人に託そうとしている。そこには、たいへんな勇気が必要だったはずだ。
 それに比べて私は、とメアはため息を吐いた。
 メアは初めて、外に出たいと感じ始めていた。シュリに報いるために、そして彼に慈しんでもらった自分のためにも。
 せっかくシュリがいろんなことを教えてくれたのに、メアは五年前と何も変わらない子供のまま、殻に閉じこもっている。このままでは、シュリの気持ちも、彼と過ごした日々も、踏みにじることになってしまう。
 あと一歩を踏み出す力を。最後に、一度だけシュリに背中を押してもらったら、もう振り向かずに進もう。
「お願い。……私に力を分けて、シュリ」
 振り絞るように呟いたメアに、一呼吸置いて、彼ははっきりと告げた。
「僕と違って、メアは手を伸ばせば誰かに届くんだよ」

 チャイムが鳴り、メアは出発の時間を知った。
 思い切って開けた扉の外に立っていたのは、度の強そうな眼鏡を鼻に乗せた青年だった。メアが考えていたよりもぐっと若く、柔和な笑顔が場を和ませる。いかにも人の良さそうな彼の雰囲気に、警戒していたメアの肩の力は一気に抜けた。
「あなたが、引き受け人の方?」
「はじめまして、メア。今日から君の家族になる、ラシュリー・ホルツです」
 彼の、どこかしら透明感のある声に射抜かれ、メアはその場に立ち尽くした。
 ――これは、夢なのだろうか。例え夢だとしても、こんな幸せがあっていいのだろうか。
 メアの名を呼ぶ柔らかな物腰。五年間、毎日のように聞いてきた優しい声をメアが間違えるはずはなかった。
「はじめましてじゃないよね、その声。……あなたは誰? 『シュリ』なの?」
「やっぱり、一発で分かったか」
 頷くラシュリー。
 わけが分からず首を傾げるメアに、『シュリ』の声を持つ青年はいたずらっぽく微笑んだ。
「そもそも『シュリ』自体が、架空のものなんだ。……僕はもともと、王立病院でカウンセリング専門の医者をしていてね」
 そう切り出すと、ラシュリーはこれまでのことを順を追って話し出した。
 五年前、雇われ医師として働いていたラシュリーのもとに、とある依頼が舞い込んだ。事故で身寄りを亡くし、感情を失った少女を救ってほしい。彼女の心が閉じてしまわぬよう、見守ってくれないか、と。
 そして、傷ついた心を癒すための人工人格というアイデアが生まれ、ラシュリーがメアの主治医、つまり『シュリ』を演じることになった。
「遠隔地からの診察には何かと便利だったし、機械にならメアも気兼ねせず本音を打ち明けられるかなと思って、僕が提案したんだ」
 つまり、これまでメアとやり取りをしていたのは、『シュリ』ではなく、病院のコンピュータの前に座ったラシュリー本人だったのだ。
「本当は昨日、打ち明けるつもりだった。でも、どうしてもメアに自分から区切りを付けて欲しいと思って、ちょっと厳しいことを言ったんだ。騙していて、ごめん」
 彼は眉を寄せると深々と頭を下げた。これが『シュリ』だったら、画面がゆっくりと揺れるところだろうか。
 メアは、うなだれたように足下に目をやるラシュリーを見上げた。むりやり視線を合わせると、彼はやけに苦しげに「許してくれるかな」と乞う。
 ――今度は、ラシュリーが私に救いを求めている。
 メアは、どうしても騙されたと思うことはできなかった。
 確かに、ラシュリーはメアに嘘をついていたのかもしれない。だからといって、メアの中の『シュリ』への感謝も恩も消えるわけではない。ラシュリーがずっと私を見守ってくれていたことも、私が彼に五年間育てられたことも、紛れもない事実として心にある。
 メアは、昨日『シュリ』と語らったのと同じように、素直に気持ちを打ち明けた。
「許すも許さないもないわ。『シュリ』と過ごした時間は私の誇りなんだから」
 ラシュリーはメアを見つめる目を丸くし、まばたきを繰り返す。やがて彼は、困ったように頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。
「……ありがとう」
「それに、これからはラシュリーと一緒なんでしょう? きっと、今までよりももっと素晴らしい日々になるんじゃないかなって思う」
「ずいぶんと期待大、だね」
「『いい人を選んだ』って言ったのは、あなただわ」
「つい、口が滑ってさ」
 それから、ふと懐中時計を取り出すと、メアに見えるように掲げる。
「さて、そろそろ行かないと――」
「待って」
 メアは、ラシュリーを遮るように言った。
「本当に届くかどうか、確かめたいの」
 メアは横目で自分の手をちらりと見た。この手を伸ばせば、そこに温もりがある。
 しかし、言葉を交わすことは普通にできるのに、いざ行動に移そうとすると、メアはなかなかその先へと進むことができなかった。激しく打つ心臓が、メアの心を挫く。深呼吸を繰り返したものの、震え出した手をどうしても止めることができなかった。
「あとちょっとだから、お願い、待ってて。……頑張ってみるから」
 ずいぶんと時間が経ってしまい、ラシュリーへと預けるために逡巡し続ける腕は痺れてきた。萎えそうになる自分を奮い立たせようとしても、事態は一向に改善する気配を見せない。
 と、ラシュリーがごく自然な動作で、自分の手をすっとメアの目の前に出した。二人の指が、あとわずかで触れ合う距離にまで近づく。
「おいで、メア」
 その声に、メアは意を決して、冷や汗の滲む手を前に押し出した。そして、度々つっかえつつも、ありったけの思いを込めて言う。
「……今日からも、よろしくね」
 メアの手に、ラシュリーの手がそっと重なった。ディスプレイの中で見たよりもずっと大きい手のひらに、メアの手は震えごとすっぽりと包まれる。伝わる体温が心地よくて、メアは今にも泣きそうに顔を歪めた。
 ラシュリーはそんなメアを覗き込み、照れながら囁く。
「やっと、触れられた」