今日から男の子  〜「掌」番外編〜

「シュリって、男の子? 女の子?」
 スピーカーから、聞き慣れた女の子の声が聞こえてくる。遥か遠くに住む患者が、そう尋ねているのだ。
 とある事故で家族を失った少女、メア。その、心のケアのために生み出されたのがシュリだ。すでに事故から半年が経ち、メアも表面上は落ち着きを取り戻している。同じく出会いから半年を経て、シュリは、メアの新しい家族の一員と言ってもいいほど、生活の中に溶け込んでいた。
 『シュリ』は人の名前ではない。『シュリ』は、機械の中だけに存在する仮想人格に与えられた名――ということになっている。
「シュリ、聞こえてる?」
『ああ、聞いてるよ』
 催促に、ラシュリーは、慌ててキーボードで返事を打つ。メアの部屋にある『シュリ』のディスプレイには、シュリの言葉として表示されていることだろう。メアのカウンセリングを一任されてから半年、タイピングもだいぶ上手くなった。
 ――実態は、これだもんな。
 ラシュリーは、自分のデスクの周りを見渡してため息をついた。散らかった書類、飲みかけのお茶が入ったカップ。椅子の背もたれに無造作に掛けられたジャケット。そして、僕。
 こんなくたびれた若造が、シュリを名乗ってやり取りをしているなんて。
 メアが、シュリ自身に興味を抱いたのは初めてだ。そのくらいの余裕が出てきたということは喜ばしいが、まだシュリの正体を知られてはならない。すべてが露見すれば、これまでのカウンセリングが無駄になることも十分考えられるからだ。
 何食わぬ顔をして――無論、ラシュリーの顔自体はメアには見ることは出来ないが――『シュリ』は逆に尋ねた。
『どうして、そんなことを聞くの?』
「ちゃんと聞いたことがなかったから。……文章からは男の子かな、って思うんだけど、どうかな?」
『うーん』
 短い返答を残した後、手が止まる。ラシュリーは、背もたれに寄りかかってしばらく黙っていた。
 どう答えていいものか、悩ましいところだ。
 架空の存在である『シュリ』のデータを、さも実在するようにでっちあげる方がいいのだろうか。その場合、にわか拵えで、のちのち、メアとの会話で何か齟齬が生じないとも言い切れないのではないか。
 では、ラシュリー自身のプロフィールをそのまま流用するというのはどうだろう。それこそ、『シュリ』ではない誰かの存在を匂わせることにはならないだろうか。
「シュリ? ねえ、シュリってば!」
 さっきよりも大きな声が、スピーカーから聞こえた。どうやら、マイクに顔を近づけて叫んでいるらしい。
『ああ、ごめん。大丈夫、聞こえてるから』
「……びっくりした。あんまり黙ってるから、故障かと思っちゃった。シュリまでいなくなったら、私――」
 その声は、わずかに震えていた。
 せっかく得た新しい家族をまた失うとしたら、とラシュリーは考える。そうなればきっと彼女は、一度目よりもひどい打撃を受けるに違いない。年端も行かぬ少女にそんな心配をさせてしまったのかと、ラシュリーは唇を噛んだ。
『実を言うと、そういう細かい部分についてはまだ設定されていないんだ。これまで必要が無かったことだからね。それで、考え込んでたところ』
「そっか。それなら、よかった」
 何食わぬ顔で紡いだ嘘に、メアは安堵の声を上げる。
 その嬉しそうな顔が、ラシュリーの心に火をつけた。
 僕は、メアともっと近づくべきなんじゃないのか。いや、今以上に近づきたいと、そう思っているのではないか。では、それは主治医として? それとも、『シュリ』として?
 ――いや。ラシュリーという、彼女の家族として、だ。例え『シュリ』というフィルターを通していたとしても、メアはすでに僕の家族なんだ。そして恐らく、メアも『シュリ』に対して同様の感情を抱き始めているはずだ。
「……それで、シュリはどういう設定になるの? 何か思いついた?」
『それを今、作ってたんだ。残念ながら、僕の能力的な問題で、画像として出力することは出来ないんだけど。字だけでよければ書き連ねていくよ。どう? 聞いてくれるかい?』
「どうぞ」
『……(もったいぶった咳払い)じゃあ、発表するよ』
 もったいぶった、のところでメアは噴き出したようだったが、ラシュリーは構わずに続ける。
『性別:男性
 年齢:二十代半ば
 外見:中肉中背、眼鏡をかけている
 性格:真面目で辛抱強い。ただし、それだけではなく少しお茶目なところもある
 趣味:旅行、家族との会話』
 すべて、ラシュリー自身のことを包み隠さずそのまま書いた。
 お茶目だとか言ってしまうくらいは、普段のシュリからは不自然ではないはずだ。しかし、ディスプレイ内だけの存在なのに趣味が旅行なんて、メアはどう思うだろうか。
 メアは、首を傾げて「ずいぶん変な設定なのね」と笑った。
「仮想人格プログラムなのに、眼鏡とか旅行とか」
『その方が面白いかと思ってね』
「趣味。……家族との会話って、これ――」
『もちろん、メアのことだよ』
「……本当?」
 嬉しい、とメアは呟く。それを聞いたラシュリー自身が、メア以上に幸せそうな顔をしていたに違いなかった。
「二十代ってことは、シュリは私のお兄さん? 少し歳が離れすぎてるかな?」
『メアよりもかなり年上だけど、親子ほどの歳の差は無いから、お兄さんになるのかな。……ということで、最初の質問の答えが出たね。僕は、今日から男の子だ』
 少し歳の離れた妹を、ラシュリーは想像する。メアはモニターを通じて毎日見ているが、くるくると表情が変わる利発そうな娘だ。こんな妹がいたら、きっと毎日楽しいだろうと思う。
「ねえ、いつか、私がシュリを本当に旅行に連れて行ってあげる」
 一瞬、正体がばれたのかと顔が引きつったが、メアは何かに気付いた様子もなく、屈託ない笑顔で『シュリ』の前に座っている。
 どうやって、という『シュリ』の疑問に、メアは「こう」と立ち上がった。
 精一杯腕を広げ、ディスプレイを抱える。まだ小さいメアには持ち上げるのがやっとというくらい大きい代物だが、それでも『シュリ』は少しだけ床から浮いた。
「もっと大きくなって、こうしてシュリを連れて行けるようになれば、一緒に行けるでしょう?」
『……待ってるよ。いつまででも』
 ただし、僕が迎えに行くのが先かな、とラシュリーは微笑んだ。
 メアの心が完全に癒される頃には、僕もいい加減、独り立ちできるくらいの腕と、蓄えはあるだろう。初めて一緒に旅をするのは、メアを引き取りに行くときになるだろうか。
 それが実現するのは、まだずっと先のお話。