five-star

PREV | NEXT | INDEX

5 午後9時

 時計の針はそろそろ九時を指そうかという時刻。
 春の母さんが気合いを入れて作ってくれた晩飯は予想以上に旨かった。その後いろいろと話が弾み、そろそろ帰ろうと外の様子を窺うともうすでに真っ暗だったのである。
「俺、帰るぜ。このままいたら、明日は春んちから学校行くハメになりかねない」
「……そうだね。ごめんね、さんざん引き留めちゃって」
「まったくだ」
 春のドジから始まった一日が、まさかこんな展開になるとは思いもしなかった。そのおかげで、俺と俺の数学のテストは救われそうなのだから結果オーライである。
 門田家の玄関のドアノブに手をかけ、振り返る。
「じゃ、ま……」
「あ」
 また明日な、と言おうとしたのだが春に遮られた。さっき、ベルトを引っ張られたときの感覚が蘇る。
「……ああ? なんだ、またかよ?」
 思いの外、強い口調になってしまったらしい。その俺の言葉を聞いて、春も同じことを思ったのか「えっ……」と言ったきり目を泳がせ、黙る。沈黙の中、シュンとしてうなだれた春を見ながら、俺は今さらながら少し反省した。
(言い方がちょっとキツかったかな……)
 男友達どうしならこの程度はさっくり流すところだろう。ついうっかり、嵩和を相手にするようなノリで受け答えてしまったが、女の扱いは難しい。それが、例え春だとしても、である。
(ん?)
 しかし、昔の記憶を手繰ってみると俺は以前からこんな調子――まったく気を使うことなく春に話しかけていたと思う。少なくとも、高校に入る少し前くらいの頃には、まだ平気で――。
 とりあえず、抑えた口調で言い直す。
「あー、その……怒ってるわけじゃないって。今度は、何だ?」
「……犬を、散歩に連れてこうかと思って」
「散歩?」
「要が帰るなら、途中まで一緒に行こうかな……」
 春は、俺の顔色をうかがいながら言う。夜中に女の子が出歩くのはいろいろと危ないだろう。ただでさえいつも隙だらけなのだから、それが夜中に出歩くとなると、痴漢にとっては格好の餌食になりそうだ。俺はケータイを出し、液晶の時計表示確認すると春に見せ、尋ねた。
「今から……って、もうこんな時間だぜ」
 しかし、春は胸の前でブンブンと手を振り、心配するなというジェスチャーで応えた。
「あ、いいのいいの。いつもこんな時間だから」
「そうなのか?」
「うん。晩ご飯食べてから行くのが日課なんだ。でも……」
 こいつのことだから、ここまできて『やっぱり、今日はいいや』と平気で言いそうだ。
「ま、俺は構わないけど。さっさと支度してこいよ」
 思い返すと、今日は(プリントを持ち帰られたことを除けば)とことん春に世話になっている。これが恩返しになるかは分からないが、最後まで付き合うとするか。同じ方向に向かうのなら断る理由はないし、春と一緒なら遅くなったことを親に怒られずに済みそうだ。
「……ありがと」
 俺の計算を知らない春はそう言い置いて、小走りに廊下の奥へと消えた。

 玄関先で自転車を準備して春を待つ。昼、門田家に来たときの格好では肌寒く、思わず両肩をさすった。あいにくの曇り空で星の一つも見えない空を仰いでいると、春が『犬』を伴って現れた。
「お待たせしました」
 その姿から察すると、時間が掛かったのは犬ではなく人の方の着替えだったようである。
「おー、犬だ犬だ。お前、元気にしてたか?」
 何とも変な会話だが、名前が『犬』という犬なのだから仕方がない。以前――さすがに、中学生の時に見たときよりは年老いてはいるが、それは当たり前だろう。しかし、程良く濡れた鼻がいかにも健康そうだ。
「まだまだ元気だよ。ねえ?」
 春はそう言うと、屈んで犬の毛並みを撫でながら話しかけた。
「この人分かる?……覚えてるよね、犬。嬉しいでしょ?」
「俺のこと分かってるのかな、こいつ」
 俺も、犬と同じ目線になろうと膝を折る。触っても全く吠えないし、パタパタとしっぽまで振ってくれている。感心なやつだ。
「……この様子なら、多分ね。さ、これ以上遅くなったら要が怒られちゃうよ。行こ」
(怒られないために、お前に付き添ってもらおうとしてるんだぞ)
「あれ、紐、付けなくていいのか?」
 犬は、黒い革製の首輪だけを付けている。散歩というのは、綱を引っ張って連れ回すものではないのだろうか。
「ウチの子はいい子だから、ちゃんと付いてくるの」
「あ、そう」
 犬を連れて歩き出した春を追いかけ、自転車を押しながら後ろ姿に目をやる。
(普通にしてりゃ、痴漢が狙ってくれそうな見た目だとは思うけどな)
 冷たい風に遊ばれる髪、薄手のニットのカーディガンを羽織った肩、足下は流行りのスニーカー。しかし、その中身を知っている俺にとっては天然ボケの固まりに見えてしまう。強引に他の言葉でフォローするならば、微笑ましいとも言えないこともない。俺にとっては昔を思い出す懐かしいボケなのだ。なおも見ていると、前を行く『固まり』は突然バランスを崩して三、四歩前へ踏み出した。
(あ、つまづいた!)
 幸い転びはしなかったようだが、街灯を頼りに道路を見ても引っかかりそうなものは何も見当たらず、どうして転べるのかよく分からない。嵩和の言う、春を放っておけない男子諸君に聞いてみたいものだ(実際、どのくらいいるのかは知らないが)。これを可愛らしい仕草だと思う輩は、果たしているのだろうか?
「……何よ」
 吹き出すのを必死でこらえていた俺を振り返り、春が顔を真っ赤にして言った。
PREV | NEXT | INDEX

-Powered by HTML DWARF-