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6 午後10時

 夜風の中を自転車を引きながら歩いていると、体は幾分暖まってきた。少し歩くと、俺はあることに気付いて春に尋ねた。
「なあ。……俺ん家の方に向かってないか」
「そうだよ」
 俺が昼に門田家へ来たときのコースを、逆にたどっている。俺と春は犬の後ろについて歩いているだけなのだが。
「まさかこいつ、場所知ってるのか?」
「うん。頑張って教えたんだ」
「え、ホントかよ!」
 犬め、とぼけた顔して意外とやるな。俺が感心していると、春はいかにも楽しそうに笑い出した。
「もう……そんなの、犬が知ってるわけないよ。要の家が、散歩のコースの途中にあるだけ」
「……」
「もしかして、だまされた?」
 ただ単に、それだけのことだったらしい。一瞬だが、騙されかけてしまった自分が情けない。
「引っかかってやったんだ」
「またまた、強がっちゃって」
 春は俺から一本取ったのがよほど嬉しかったのだろうか。ふてくされた俺には構いもせずしばらく笑い続けていたが、やっと正常に戻った春は散歩コースの解説をしてくれた。
「要の家の前通って、ちょっと先の児童公園、分かる?」
「知ってる」
「あそこで少し走らせて、来たのとは別の道通って家に帰るの」
「ふーん。……大体毎日散歩させてるんだろ? そりゃ、覚えるよなあ」
 そう言って、俺は同意を求めるように犬を見る。時折振り返りはするものの、この会話の間にも彼はマイペースで進み続けていた。

 そんな珍道中の末、俺たちは桐島家に到着した。春が呼び止めると、先を行く犬はくるりと向きを変えて俺たちのところに駆け寄ってきた。わりと利口な奴である。
 玄関先で、俺は春に聞いた。
「俺ん家、寄っていくか? どうする?」
 もともとは帰りが遅くなったことの証人代わりに春同伴でここまで来たのだが、こんな時間になってまで春に家に来てもらうのも気が引ける。それに引き留めてしまうと、今度は春の帰宅が遅れてしまうだろう。
「うーん……もう、ご挨拶するにも遅すぎるから。また日を改めてお詫びに来るよ」
 春は首を傾げて少し考えていたが、結局そう答えた。
「ま、それがいいな。でも、俺は飯もご馳走になったんだし、春が詫びるほどじゃないだろ」
「えっと……そう言われても……やっぱりいつか行くね。……じゃ、今日はこれで」
 彼女はそう言うと、俺から一歩離れた。
「おう。また明日な」
「うん。要、夜勉強しすぎて明日遅刻しないように」
「しねえよ。もう、教科書すら開きたくない」
 春は、笑って俺に手を振ると散歩の続きへと戻っていった。遠ざかる春と犬の後ろ姿が曲がり角の向こうに消えたのを見送って、俺は玄関のドアを開けた。
「ただいまー」
「……要か?」
 居間から聞こえたのは父さんの声だと思ったのだが、玄関に出てきたのは母さんだった。
「門田さんにはちゃんとご挨拶してきた?」
 遅かったわね、と言われるのかと思ったら、母さんの第一声はそんな言葉。
「ああ、うん。後で母さんからもお礼言っといて」
「春ちゃんは元気なの?」
「ああ。寄ってくかって聞いたんだけど、また後で改めて来るっ」
「え?」
「……いや、何でもない」
 しまった、言い過ぎた。勉強疲れだろうか。
 今日の俺はどうも精彩に欠けるようである。怯む俺に対し、母さんの追求は緩まない。
「てことは、アンタ今、春ちゃんとここまで一緒に来たわけ?」
「ん、犬の散歩して帰るからって別れたけど」
「一人で帰るって? こんな時間に?」
 時計は確かめていないが、十時を回った頃だろうか。しかし、春はこの時間の散歩が日課だと言っていたのだ。
 嫌な予感がする。今日の俺はどうも冴えすぎているから困ったものだ。
「……いつものことって言うから、まあいいかなと思って」
「何言ってるの、さっさと追いかけなさい!」
 途端に、母さんの美声が炸裂した。
「今からかよ?」
「こんな夜中に女の子を一人で歩かせて、何かあったら怖いじゃないの」
 弱々しく抗議してみたものの、権力者には敵うはずもない。俺は観念して、ポケットに入れた自転車のカギを握りしめた。
 ――春も春の母さんもウチの母さんも、どうしてそんなに俺を困らせたいんだ!
「あーあ、分かった分かった。上着着たら、追っかけるよ」
「早くしなさいよ」
「送り狼だけにはなるんじゃないぞー」
 居間にいるはずの父さんにもやりとりが聞こえていたのか、自室に向かう俺の背中を声だけが追いかけてきた。
 ――父さんもかよ……。
 俺の予感は、ここにきてまた現実のものとなったのだった。
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