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9 薄曇り

 数学のテストからしばらく経ったある日、俺は犬を連れて前を歩く春に言った。
「うん、旨かった」
「ほんと?」
「お主、なかなかやるな」
「要にしては誉めすぎじゃない? お世辞じゃないよね」
「じゃあ撤回する」
 そう言うと春は振り返り、いつもの困り顔で笑った。
「あ、うそつき」
 俺がなぜうそつきと言われているのか。
 ――ではなく、どうして春と歩いているかというと、やはり犬の散歩だ。時は、三十分ほど遡る。

「こんばんは」
「あれ、どうした?」
 夕食を食べ終わった夜八時過ぎ。母さんに言われて玄関に出ると、春と犬が待っていた。
「また俺のもの、何か持って帰ったのか? 今度は何だ?」
「今日は違うよ。散歩の途中で寄ったの」
 それは、犬を見れば俺にだって分かる。春は、肩に掛けたカバンから布包みを出した。
「おばさんに、この前要を引き留めちゃったお詫びをしに。あと、これ」
 相変わらず、律儀な奴だ。差し出された包みを受け取ると、やけに軽い。
「何だ、これ?」
「お菓子。ほら、この前は話だけだったでしょ。腕を証明しようと思って、作ってきたの。焼きたてだよ」
 バターの香りが鼻をくすぐる。
「口に合えばいいんだけど……」
 不安そうな春の声をBGMに包みを解いてみると、きつね色のクッキーが顔を現した。
「じゃ、俺が毒味してやるよ」
 一つつまんで口に入れてみた。抑えた甘さと香ばしさが非常に俺好みな逸品だ。
「うん、旨い」
 そう言いながら、俺は一つ、また一つとクッキーを口に放り込む。
「良かったー」
 不安げに俺の様子を窺っていた春の表情が、途端に明るくなった。
「一人で食べないでよー。要にだけじゃなくて、皆さんにと思って持ってきたんだから」
「サンキュ。割と俺好みだ」
 言葉は俺を責めているが、その割に目は笑っている。かなり気を良くしたようだ。わかりやすくて助かる。
「……じゃあ私、慌ただしいけど遅くなる前に行くね」
「あー、待て待て。ちょっと待ってろ」
 散歩に戻ろうとする春を引き留め、もらった菓子を居間に置いてくる。
「送ってやるよ」
「え、いいの? 本当に?」
「嘘吐いてどうすんだよ」
 ――そんなに驚かなくてもいいんじゃないのか?
 俺はそこまで信用がないのだろうか。憮然として靴の紐を結びながら、俺は答えた。
「クッキーのお礼だ。暗いし、一応は心配だしな。……危なっかしいんだよ、お前」

『外見はちょっと地味だけど、放っておけない感じ』
『へえ。……みんなは、そういうのが好きなのか』
『そりゃ、好きなやつも結構いるんじゃねえのか?』
 嵩和とそんな話をしたのは、始業式だった。
 春のいる生活が身近になった今なら『そういうのが好きなやつら』の気持ちが少しだけ分かる。素直で律儀で分かりやすい彼女だからこそ、構ってやったときに返ってくる予想通りの反応が非常に心地良いのだ。
 ま、俺はそんなことはない、と思うが。

 俺をうそつき呼ばわりした張本人は、相変わらず俺の二メートルほど先を歩いている。
その後ろ姿を見ているうちに、授業中に悩んだ『昔の』春について、ひとつ思い出した。
 小さい頃、引っ込み思案でなかなか友達を作れないあいつを連れて遊んだこと。よく俺の後ろにくっついて来ていたこと。
 ちょうど、今の春と俺との間ほどの距離を空けて。
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