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10 暗雲

 春は、いつから俺の前を歩くようになったのか。
 ――思い出せない。
 答えは、喉元まで出かかっているような気がするのに――。

「要」
 その声で、俺は過去から現在へと引き戻された。さっきまで見えていた春の背中は、目の前から消えていた。
「どうしたの? 急に、立ち止まるから」
「悪ぃ。考え事してた」
 知らぬ間に足が止まっていたらしく、春が少し身体を屈めて、俺の顔をのぞき込んでいる。
 今度は、春と肩を並べて歩き出した。これまで気にしていなかった春との距離が、やけに近く感じられる。
「すごく、怪しいんだけど?」
「何でもねえって!」
 弱みを見せるのが悔しくて、俺は春を置いて歩みを早めた。すると、空いた距離を縮めようと、春は犬を抱き上げると小走りに追いかけてきた。
「あ、待ってよ」

『待って。……かなちゃんっ』

 その声は、間違いなく『昔』の春だ。
 不意に――まるでスイッチが入ったかのように、いくつかの断片がフラッシュバックする。
 春の声。春の泣き顔。うずくまる春。
 しかし、このかけらがいったいどこに収まるのかが分からずに、苛々が募るばかりだ――。

 再び、春の声がした。これは――今度は『今』の春だ。
「要、本当に大丈夫? 顔色、悪いよ」
「ああ」
「公園まで行ったら、休もうよ」
 俺は平気だと言い張ったのだが、結局公園で一休みすることになった。
 春の言うとおりに缶入りのお茶を喉に流し込んで、一息つく。気分はいくらかスッキリしてきた。もともと体調が悪かったわけじゃなく、考えすぎて頭が痛くなりそうだったというだけだから回復は早い。最後の一滴を飲み干そうと上を向いた俺の目に、良く晴れた夜空が飛び込んできた。
「おー、すげえ。天然プラネタリウム」
 満天の星空に、細い月が架かっていた。星に詳しいわけではなく興味もあまりないが、感動はできる。
「明日もきっと、こんな星空だよ」
 俺の横で空を見上げた春が言った。
「午後には夕立があるかもしれないけど、日没前には上がると思うから。夕方には虹も見れるかもね」
 まるで天気予報だ。そういえば、春の部屋には天気の本が沢山あったっけ。伊達に持っているというわけではなく、しっかり勉強もしているらしい。
「虹ねえ」
 勉強してるのは確かに分かるが、虹なんてどうってことはない。俺の気のない返事に、春には珍しく、明らかに不機嫌そうな言葉が飛んできた。
「もう、感動薄いんだから」
「んなこと言われてもなあ」
「……」
「なんで無言なんだよ」
「……」
 やはり返答は無く、春は俯き気味で目を閉じたままだ。長い睫毛がやけに目立つ。空になった缶を両手で弄びながら、俺は話しかけた。
「そういや、お前の部屋に天気の本あったよな」
「……」
 まったく無視されているわけではないらしく、俺が問い掛けるたびに春の口元がわずかに動く。
「あれ、自分で集めたのか? すげえな」
「……」
「おーい」
 一人芝居にいいかげん嫌気がさし始めたとき、春が唐突に切り出した。
「……私、要に『記憶力いい方?』って聞いたよね」
「ああ」
 それは今の俺にとって、聞かれるといちばんイヤなことでもある。正直に忘れたと言うか。こんなことごときで、春が怒るはずもないだろうし――。
 そんな考えが頭をかすめた矢先だった。
「……本当は、思い出せないんでしょ?」
「え?」
 震える唇から押し出された言葉は、さらに俺を突き刺した。
「思い出なんて、忘れちゃったら意味ないよ」
 息を呑んで、春の顔を見る。春も、まっすぐこっちを見ていた。笑顔とも泣き顔とも取れない表情で。
 ――初めて見た。こいつの、こんな顔……。
 それきり黙ってしまった春から、俺は目を逸らした。しかしその態度は、自分が何か――霧がかかったままの記憶や、真摯な春――から逃げているという気分を増幅させただけだった。
 しばらく続いた沈黙を破ったのは、春だった。
「さてと。……私、帰るね」
「お、おい。……春!」
「一人で大丈夫だから! また明日ね」
 呆気に取られて呼びかけた俺に笑顔で一瞬だけ振り向くと、春は犬を促して駆け足で去っていった。俺は取り残されたままその場に立ちつくしていた。精一杯明るい声で話していたが、大丈夫な奴があんな顔をするわけがない。
 所詮、春の足。追いかければ簡単に捕まえられただろうが、追いついたところで今の俺に何ができるというのか。
 冷や汗が吹き出し、手の平をじっとりと濡らす。気が休まるかと思って再び夜空を見上げたが、今度はちっとも感動できなかった。むしろ、明るい星の光が恨めしくさえ感じる。この前の夜からの焦りに加えて、得体の知れない痛みが俺に降り積もってゆく。
 春が、俺の記憶のカギを握っているのは間違いない。でも、春には聞いてはいけない。別れ際、うっすらと目に涙を溜めていた彼女にだけは。
 俺の記憶から抜け落ちているのは、恐らく春にとって大切な何か。きっと、俺にとっても大切な何か。
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