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12 暁

 相変わらず変化のない日常。
 ――いや、違う。
 俺にとっては、春になり、クラスが変わった後――春とともに過ごしたここ数ヶ月がいつの間にか『日常』になっていた。小さな頃、一緒にいることがごく当たり前だったように。
 そんな、ひどく退屈な日々の終わりを告げる出来事は、一本の電話から始まった。

 前夜祭終了後、つまり本祭の前日。クラスメイト達が明日に向けて最後の追い込みをかけている頃、居間でうたた寝をしていた俺は電話の呼び出し音で目が覚めた。家族の誰かが出てくれることを期待してあたりを見回したが、部屋には誰もいない。
 ――あー、そういや今日は姉貴のとこで飯食ってくるとか言ってたような……。
 父と母が不在であることを思い出し、俺は渋々ながら電話の子機を取り上げた。
「はい、桐島です」
『門田ですが……要くん?』
「あ、はい」
『春の母です、こんばんは』
 春から電話が掛かってくることさえ珍しいのだが、これが春の母さんとなるとさらにレアだ。
 眠い目をこすりながら、何気なく時計を見ると午後九時少し前。今頃、春は犬の散歩をしてるんだろう、と考えながら用件を聞く。
「どうしたんですか?」
『ええと、実はお願いしたいことがあって。お使いを、頼まれてくれないかしら?』
「お使い?」
『あの、今ね、犬が車に引っ掛けられたって春から電話が来てね。病院に――ああ、行きつけの獣医さんにいるっていうのよ。それで、犬は怪我したけど春はなんともないって話だから、私は主人が帰ってくるのを待って一緒に獣医さんに向かおうかと思ってるんだけど……まあ、あの子のことだから多分一人で大丈夫だとは思うんだけど、着てるものとかずいぶん汚したらしくて、着替えをね――』
 おばさんはそこまで一気に話すと、一旦言葉を切った。だいぶ混乱しているらしく、話の中身が分かりづらい。
 犬が車に。
 獣医さん。
 春はなんともない。
 着てるものとか。
 聞き取った単語を整理して、俺は聞き返す。
「えっと、犬が交通事故にあった、と。で、春の着替えを獣医さんまで持ってってくれないか、ってことですか?」
『そうそう、そうなの』
「俺で良ければ」
『本当にごめんなさいね、ほかにこんなこと頼める人が思いつかなくて』
「わかりました、今からそちらに行きます!」
 春の母さんがまだ何か喋っていたような気もしたが、俺は待つ時間がもどかしくて電話を切ってしまっていた。

 十分後、俺は春の家を経由すると全速力で自転車を漕いでいた。
 行き先は、ここからそう遠くない動物病院。荷物を運ぶだけならば、俺の父さんや母さんに頼んだ方が早いはず。もしかしたら春の母さんもそれを期待して電話を掛けてきたのかもしれないが、あいにく、今日は誰もいなかった。
 しかし、例え両親への頼みごとだったとして、そして今日両親が在宅だったとしても、俺は走っていただろう。
 犬は、大丈夫なのか。……春はどうしているのか。散歩中のことだから、犬が事故に遭うのを見てしまっただろう。例え怪我を負っていなくたって、彼女が平静でいられるわけはない。

 一つ、思い出した。
『あれ、紐、付けなくていいのか?』
『ウチの子はいい子だから、ちゃんと付いてくるの』
 犬は、いつも引き綱無しで歩いていた。綱を付けていれば、事故に遭わずに済んだかもしれなかったのだ。春のことだから、自分を責めているのではないだろうか。
 春の母さんは、『あの子のことだから多分一人で大丈夫だ』と言ったが、果たして本当にそうだろうか。一人で抱え込む春だからこそ、誰かが励まして、支えてやらなきゃならないんじゃないのか?
 いったい、誰が?
 今、俺がいちばんしたいことは『昔』を思い出すことじゃなくて、『今』の春を支えることじゃねえのか?
 今すぐにそれができるのは、俺だけだから。
 ここしばらく春と話していなかったのは、俺の記憶が途切れているせいだ。でも、そんなことを思い出したりするのは後でもできる。
 遅まきながら、俺は少しずつ、しかし確かに気付き始めていた。胸が痛むのは、息が苦しいのは、決して自転車を駆っているからだけではなかった。

 冷えた月の光が差す病院の廊下に、春がいた。
「……あれ、要」
「よう」
 席替え以来、初めて交わした言葉は、実に素っ気ないものだった。考えてみれば、あの夜から実際には一週間程度しか経っていないのだから、彼女にとっては至極当然の反応かもしれない。
「どうして?」
 冴えない顔色。顔から両腕で抱えた細い肩、体へと視線をやり、俺は歯を食いしばった。彼女の白っぽいキャミソールは、いくつもの黒い染みに彩られていた。『着てるものとかずいぶん汚したらしくて』とは、こういう意味だったのか。
 そこまで理解した俺の頭は突然、まるで殴られたかのような衝撃に襲われた。今、目の前に広がるこの色は、遠い思い出を呼び覚ます――。
『……かなちゃん、助けて』
 ――今になって、なぜ思い出すんだ……?
 動揺する心の中を、記憶のパズルのピースが一瞬よぎる。ここ数日間、喉から手が出るほどに求めていた『何か』がはっきりと形を現し始めた。春の言う『忘れてしまったら、意味のない』ことが、意味のある思い出へと姿を変えようとしている――。
 俺は、慌てて重い頭を振り、余計な考えを取り除く。さっき、自分に言い聞かせたはずだ。
 一呼吸置いてから、春の問いに答える。
「……春の母さんから連絡もらったからさ。大丈夫か?」
「今、手術中なの。今夜持ちこたえれば大丈夫だって。大きい――手術してもらえる病院で、良かったよ」
 実際は犬ではなく春のことを聞いたのだが、この際どっちでもいい。
 春の目線を追うと、確かに『手術中』のランプが点灯していた。今のところ最悪の事態には至っていないようで、とりあえず一安心する。
「そっか。犬もだけど、お前は?」
「これは、私の血じゃないから。まだどきどきしてるけど、私は怪我とかはしてない」
「とりあえず、まあ一応……良かった、な。はねたヤツは?」
 春は俯いて、微かに首を振った。
「逃げたのか」
 今度は縦に一度大きく頷く。
「絶対、許さない」
 射るような強いまなざしが俺へと向けられた。その瞳の怒りの深さに思わずたじろいだ俺は、春の顔から目を背けた。
 ……直視できなかった。どうしてそんな顔をするのか。誰がそんなに、悲しそうな顔をさせたのか。どうしたら、笑ってくれるのか?
 俺が黙っていると、今度は春が軽い調子で聞いてきた。
「お母さん、何か言ってた?」
「あー、かなり心配してたぜ。門田家から着替え預かってきたけど……お前、上着は?」
 暗さに目が慣れてくると、おとなしめな私服を好む春にしては珍しく、夏の夜とはいえ過剰に涼しげな服装だということに気付く。恐らく着ていただろう上着は、どこかで捨ててしまったのだろうか。
 すると、意外な答えが返ってきた。
「犬にあげちゃった。血が止まらなくて、着てたシャツ破いて縛ったから」
「じゃ、その服は」
「……下、着」
「早く言え! 着替えて……そうそう、お前の母さんは後から来るって言ってたけど、家に電話しておけよな。俺、お茶かなんか買ってくるから」
 俺は春の母さんから託された袋を春に押しつけて、その場を立ち去った。背中を、「ありがと」という小さな声が追ってきた。

 動物病院の前にジュースの自動販売機があったのを思い出し、俺は建物から出た。慌てて出たため財布は忘れてきていたが、ポケットを探ると幸いにも小銭が入っていた。なけなしの五百円玉を投入して緑茶の三百五十ミリリットル缶を買い、続いて自分が飲むコーヒーのボタンを押す。
 ガタン、という音を上の空で聞き流し、俺はふと夜空を見上げた。今日はあいにく月の光が強すぎ、気分が悪くなって公園で休んだ、あの日のような星空は見えなかった。
 それにしても、着替えを運んだだけの俺に礼を言うのも忘れないなんてなかなかしっかりしてんだな。あいつならきっとパニックになってると思ったけど……。
 飼い犬を車にはねられた人間というのは、あれほど落ち着いているものだろうか。事故現場でしっかり止血をして、おとなしく病院で待っていられるものなのだろうか。
 正直、見直した。
 ――春の母さんの言ったとおり、別に俺が来なくても、春だけで何とかなったんじゃねえのか?

 ――ああ、そうだったのか。

 やっと、分かった。
 同じクラスになってからずっと感じていた、どこか変な感触がはっきりした。二人でテストの勉強をしたときも、公園で遠くから春を眺めていたときも――感じていた違和感は少しずつ積もり、今になってやっと形を持つに至ったのだ。
 俺の後におそるおそるついてくる、あの弱虫の春じゃない。
 春はもう、一人で前を向いて、しっかりと歩いて行ける。
 春を助けられるのは俺だけだなんて、勘違いも甚だしかった。いつまでも昔のままだと思っていたのに、昔のままだったのは俺だけだった。ブランコに座る春に感じた気持ちも、単に『今』を認めたくなかっただけの、俺のわがままだったのだ。
 すべて思い出してしまった。
 途切れた糸が紡ぎ出す、俺が拒んでいた記憶と思い。受け入れたくなくて、『昔』に置き去りにしていた記憶の底の自分のこと。
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