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14 ゆらぎ

『お前、変わんねーな』
『ううん、だってそう簡単には変わらないものでしょ』
『そういうもんか?』
『そうだよ』

 思えば俺は春と再会したその日、つまり始業式から、昔に囚われていた。一方で春はごく当たり前に答えたが、そんな言葉は変わろうと懸命になったことのある人間にしか浮かばないものだ。
 ――そういや、春の部屋には天気の写真集があったよな。
 門田家で数学のテスト勉強をしたとき、ぱらぱらと捲った本の中身に引っかかりを覚えたことがあった。あの時はすぐに忘れてしまったが、その引っかかりの正体は今になってみれば分かる。
 俺の目に留まったのは、あの本に載っていた虹の写真だったのだ。実際、春と虹の話をしたこともあった。俺は気のない答えを適当に返しただけだったが、春は明日の天気予報まで教えてくれたっけ――。
 しばらく考えて、ぼんやりとではあるが目の前が開けたような気がした。俺が必死に隠していた記憶と、春が俺の後ろについてこなくなったこととは、何か繋がりがあるんじゃないか?
 もちろん根拠も何もないただの勘ではあるけれど、なぜか間違いだとも思えなかった。

 背中を濡らす冷や汗の不快さで我に返った。
 自販機の取り出し口に入ったままの缶コーヒーは、手に取るとまだ十分に冷たかった。そう長い時間、春を放ったらかしにしていたわけではないと分かり、駆け足で病院内に戻る。
 そう広くもない廊下を慌てて見回してみたが、春の姿はなかった。まだ着替えているのかもしれないと思い、女子トイレのドアをノックしてみたが、ここも消灯されたままだ。
「……春? ……はーるー、どこ行ったー」
 小声で何度か呼ぶと、やや間があって手術室兼診察室から白衣の男性が顔を出した。彼は、駈け寄った俺に「門田さんのご家族? 春さんのお兄さんかな?」と声を掛けた。見上げると、『手術中』のランプは消えていた。
「ええ、まあ、はい」
「ああ良かった。春さんならこちらですよ」
 曖昧に答えると、どうやら獣医と思しきその男性は、手で俺を室内へと招き入れた。
「処置は無事に終わりました。大丈夫、多少後遺症の危険はありますが、助かるでしょう……というのは、先ほど門田さんにもお話しした内容なんですけどね。あとはお任せ下さい」
「どうも、ありがとうございました」
 話しながら、白衣の先生は部屋の奥へと向かう。
「……犬くんはこのまま入院になるから、また明日にでも来てもらえればよろしいかと思いますよ。今心配なのは、むしろ彼女ですね」
 立ち止まった先生が示した先を見ると、蒼白な顔の春が目を閉じたままソファーに沈んでいた。
「春!」
「要……」
 若干かすれた春の声がどうもくぐもっているように感じたのは、口元に当てられたハンカチのせいらしい。彼女は、俺に気付くとうっすらと目を開いた。
「血の匂いが良くなかったのかな、廊下で座り込んでいてね。……とりあえず今日のところはもう帰って、ゆっくり休んでください」
「……気分は?」
「もう平気。ごめん、すぐ帰るね」
 春はそう言って立ち上がると、俺に向かって笑顔を見せた。それが多大な無理の結果のように感じ、俺は目を逸らしてしまった。

 俺は、自転車を引いて春と家路に着いた。春の顔色は先ほどよりだいぶ良くなったし、足取りもしっかりしているようだ。聞いたところで春の答えはほぼ予想がついているのだが、一応尋ねてみる。
「体調は、もう大丈夫か?」
「うん」
「そっか」
 会話が途切れた。疲れ気味の春の口が重いのはもっともだが、俺が無口になっている理由は三つ。
 一つ目は、春の体調。これについては、今、しかもあっという間に解決してしまったので、恐らくこれ以上は話が発展しないだろう。
 二つ目は、犬のこと――もちろん犬が無事で良かったと言うべきだろう。しかし下手にその話を持ち出すと、春が自らの落ち度、つまり引き綱を付けずに歩かせたことを責めてしまわないだろうか?
 そして三つ目は、俺の記憶のことだ。理由はまだ分からないものの、思い出にこだわる春。俺がようやく思い出した記憶を正直にぶつけてみたいのが本心だが、それは何も今日でなくてもいい。
 しばらく沈黙が続き、やがて俺の記憶の始まりの場所――帰り道の途中にある、例の児童公園に差し掛かった。ネタはあるが言い出せない状況。それを打ち破ろうとした俺の口から飛び出したのは、こともあろうにこんな言葉だった。
「犯人は?」
 無神経だった。言ってしまってから、今の春に浴びせる言葉じゃなかったと後悔した。犯人は、なんて聞かれたら、春は『私』とでも言いかねない。
「……その、撥ねた車は?」
「逃げた」
「覚えてるか?」
「色とか車の種類とかはなんとなく覚えてるけど、ナンバーまでは。でも、犯人がわかっても、ペットの交通事故は人みたいに扱われるわけじゃないから……許せないけど、悔しいけど私がどうこうできることじゃない、と思う」
「そうか」
 再び、会話が途切れる。俺と並んで歩いていた春は、突然立ち止まると俺の方を見た。
「ねえ要。犬、死んじゃったらどうしよう。……ううん、そうでなくも、ケガさせたのは私のせいだよ」
 彼女の瞳には月明かりが映り込んでいたが、堪えきれなくなった涙があふれ出すと、歪んで見えなくなってしまった。
「大丈夫だ。獣医の先生が、太鼓判押してただろ?」
「で……も、私がちゃんと紐を付けてればっ――」
 やっぱり、そういう流れになるのか。実際、春に何と言っていいのか掛ける言葉が見つからないというのが正直なところだが――。
「それは、今言ったって仕方がないさ。一番悪いのははねたヤツだろ? ……これからできることを考えようぜ」
「……だめだよ。そんなこと、今はとてもできない」
「おい、春?」
 この弱々しくため息をついているのは、先ほどまでと同一人物だろうか。本当に、自分の服を裂いて止血を施し、獣医まで自力で犬を連れて行った春だろうか?
 駄々をこねる子供のような、いや子供じみた仕草で、春はうつむいたまま小さく首を振った。
「でも、大丈夫。何とかする。何とかするから」
 覚えのある焦りに襲われる俺。
 ちょうど、しばらく前にこの公園のブランコで春を見つけたときの、あの気持ちだ。何も考えることなく、ごく自然に手が伸び、その肩を掴む――。

 俺は、春を抱きしめていた。
 華奢なやつだとは思ってはいたが、その背中の小ささに驚いた。笑顔がデフォルトの表情、人より少しゆったりとした態度、そして何よりここ最近の春の印象が、彼女を実際よりも大きく見せていたのかもしれない。
「……きっと助かるから。お前、頑張りすぎて疲れてるんだよ。そんなこと考えないでとにかく休め」
 そう言うと、小さな体からは意外なほどの質量が俺の身体に預けられた。
 少しクセのある柔らかい髪の毛が、俺の頬をくすぐる。甘い香りに混じって、わずかに血の臭いがした。俺の胸を濡らしていく涙、ついさっきまで血で赤く染まっていた白い腕。かけがえのない重み全部を、両腕でしっかりと俺につなぎ止める。
「……いたいよ」
「痛いだろうよ」
「え?」
「一人で大丈夫な奴が、そんな顔するかよ」
「……」
「そんな顔、放っておけると思ってるのか?無理するなよ」
「無理してない」
「してんだろ!」
 語気が荒くなってきたのに気付き、深呼吸した。落ち着いて、言わなくてはいけないことがあるから。たとえ俺がどう思われても、彼女にこれ以上負担がかからないように。
 その間に、平静を取り戻し始めた春が腕の中で動き出す。それを封じるように、俺は切り出した。
「……俺、春が思い出して欲しいこととは違うかもしれないけど、ついさっき、やっと思い出したんだ。大事なことを」
「こんなときに」
 春が呟いた。その声に棘が含まれているように聞こえたのは、きっと気のせいではない。その反応を、いったいどう受け取ればいいのだろう。単に、無神経な俺に対して---犬が事故にあったこんな夜には相応しくない話題だから怒っているのか。それとも、思い出に触れられるのが怖いのか。しかし、そんな人間が、『記憶力いい方?』なんて問いかけをするものだろうか?
「なに言ってるの。……離して! こんなの、困る」
「ずっと昔、この公園で……虹を見に行こうとして、俺がお前に怪我させたまま逃げたこと」
 春の体がビクリと震えた。俺の腕にささやかに抗っていた彼女に、突然力がこもった。カタカタと小刻みに身を震わせながらも、春を強く引きつける俺から離れようと抵抗し続けていた春は、やがて何かを振り払うかのように、勢いを付けるかのように大きく何度も頭を振ると、俺をしっかりと見据える。
「なんで今さら、そんなこと!」
 瞳を大きく見開き、泣きながら、怒りながら彼女は叫んだ。
「なんでも、自分でできるようになったんだよ」

 ――二面性。しっかりした大人。反面、脆くて不安定。彼女はまだ、変わりきっていないのだ。

「もう、昔の私じゃないから! ……要の足手まといにっ」

 俺は、衝動的に唇でその続きを遮った。彼女に俺の体温が伝わっていくのが、ぼうっとした頭でも分かる。緊張しきった春の身体から力が抜けるにつれ、見開かれていた瞳がゆっくりと閉じていく気配がした。
 いっそ、この唇から俺の考えていることすべてが春の中に流れ込んで行ってはくれないだろうか?
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