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15 激流

 わが高校の文化祭は、前夜祭と本祭、それに本祭終了後、夕方の閉祭式の三部構成で行われる。
 今日は、本祭当日。文化系部活動や同好会のステージ発表、クラスによる展示、模擬店、そして夕方には本祭の締めとして行うファイアーストームなどイベントが盛りだくさんで、一般客の出入りも許されている。今日は朝から快晴で、父兄や他校生などの人出も多い。

 今朝、教室に春の姿はなかった。浮き足だったクラスメイト達の中、昨日噛み切った唇の痛みが俺を現実につなぎ止めていた。
 実際は、文化祭どころではないというのが本音。春が来ると信じて待ちながら、昨日のこと、そしてこれからのことを、ゆっくり考えておこうと思った俺は、今年もサボりを決め込む予定だ。
 出欠確認で点呼を取るのは朝のホームルームと夕方の閉祭式前だけなので、もう今日は夕方まで自由時間と言ってもいい。毎年、文化祭そっちのけで校外に遊びに出かける生徒がいるそうである。
 俺はホームルームが終わるとすぐに、荷物置き場に指定されている武道館から不要な段ボールを持ち出して、その裏の軒下に席を取った。この辺りはにぎやかな声が響く校舎からはやや離れていて、ごくたまに学祭実行委員の腕章を身につけた生徒が何かを取りにやってくる程度だ。
 壁にもたれ、昨日のことをじっくり思い返す。あの後――春を黙らせた後のことを。

 唇はどちらともなく離れ、俺は力の抜けた春の体を一方的に抱き留めていた。
 間近で見るその頬には、あの日の傷跡はみじんも残っていない。今さら――本当に今さらながら、俺は安堵のため息を漏らす。
 春は俺の胸を押し返すようにして、ゆっくりと身体を離した。
「……どうして、こんなことするの?」
 息とも声ともつかない、耳元に届くのがやっとの小さな呟きからは感情を読みとることができない。しかし、視線は俺と出会うことなく、公園の青白い照明に冷え冷えと照らされる地面へと投げられている。それはまるで、拒絶の証のようだった。
「昔のこと思い出したからとか、そんなんで優しくされたって……嬉しくないから」

 ちゃんと昔と向かい合う。
 昔から抜け出して、彼女に追いつく。追いついて、伝えたいことがある。彼女を抱き締めて、やっと決心がついた。
 過ちを認めたくなくて逃げ出した虹の日のことを思い出すと、冷や汗がにじむ。いくら俺が鈍くても、さっき急変した春の態度を見れば、彼女の心の奥で思い出が澱となり、未だに積もっているらしいことは明らかだった。そして今は今で春の言葉も聞かず、気持ちも考えずむりやり黙らせた。
 春は今、何を思うのだろう? こんなに近くにいるのに、俺には何も分からない。きっと彼女も、俺がこれから告げようとしていることに気付いてはいない。
 これが、俺と春との間の十年分の隔たり。記憶の片隅に放り込み、縮めようとしなかった距離なのか?
 自分への怒りと決意を込めて、迷いを振り切るように強く唇を噛んだ。鉄臭い血の味が口の中にじんわりと広がる。思ったよりも鋭い痛みのおかげで、幾分頭がすっきりした。

「違う!」
 滑稽なほど震えた、なんとも情けない声だった。
「好きだからだ。春が、好きだから。優しくしたいし、放っておきたくない」
 春の肩に、今度は精いっぱいそっと触れる。物理的な隔たりだけは、俺の腕の長さに縮まった。彼女は目を丸くし、しかししっかりと俺を見据え――やっと、目が合った。

 二人とも無言のまま、どれくらい経っただろうか。
 強い風に流されてきた雲が月を覆う。気付かぬうち、頬をなでる生ぬるい湿った風と、木々のざわめく音が強まってきていた。
「今日は来てくれて、ありがとう」
 待ちに待って発せられた春の言葉は、囁くような声だった。
「悪いんだけど、今、もう何も考えられない。いろんなことで頭がいっぱいで」
「ああ。……そうだよな」
 肩に置かれた俺の手に春の手がふわりと触れると、俺が春に触れたときと同じくらい慎重に、そっと外した。そして俺を見つめていた視線をやや伏せると、いつもの表情、あの少し困ったような微笑を浮かべ、「ちょっと、整理する時間が欲しいな」と続けた。
「……明日、学校に行ったらお話しよう? それで、いいかな」
「そうするよ。こんなときに、急にいろいろ……ごめん。送ってく」
 俺たちはその後、お互いなにも言わず春の家まで歩いた。俺が聞いた、その日最後の彼女の言葉は「おやすみなさい」だった。

 にぎやかなBGMが途切れることなく流れ続ける中、春を待ったまま午後になった。いつしか小雨がぱらつき始め、俺の憂鬱さに拍車が掛かる。
 いつだったか、俺は『今年の文化祭はサボらない』と春に約束しなかったろうか?
 しかし、今日は誰がどう言おうと楽しむ気にはなれそうもない。だいいち、約束した相手である春だってまだ登校していないのだ。それは、俺のせいかもしれないのだが。
 ――ああ。こんなところでいったい何してんだろ、俺。
 情けなさともどかしさと、その他の色々な気持ちが混じり合い、なぜか叫びたくなったのをどうにか堪える。天を仰いだ俺の視界がすっと暗くなったかと思うと、首筋に冷たい固まりが触れた――いや、押しつけられた。
「うわっ」
「おはよう」
 見上げた先に立っていたのは、見慣れた顔。
「お早く、もないけどな。……びっくりさせんなよ。寿命が縮む」
「もう。見るからに長生きしそうなくせに。……コーヒー、飲む?」
 両手に一本ずつ持った缶コーヒーの片方を俺に差し出し、春は言いながら俺の隣に座ると膝を抱えた。受け取った缶には冷たい雫がまだ残っている。出店の、氷水が張られたプールから仕入れてきたのだろう。
「教室行ったら、ここにいるって堺くんが教えてくれたから」
「ああ」
「降ってきたけど、夕方までにはなんとか晴れそう。閉祭式のファイアーストーム、できたらいいね」
「お前――犬は?」
「大丈夫。朝、病院寄ってきたけど。多少は足を引きずるかもしれないけど、目立つほどではないだろうって」
「そっか。良かったな。……お前は、大丈夫か?」
「うん」
 伝えたいことも聞きたいことも山ほどあるはずなのに、俺の口をついて出てくるのはなんとも煮え切らないせりふばかり。
 プシュッという音がして、甘いミルクの香りが漂う。春が、自分の缶のタブを引いたところだった。
「『明日話す』って約束したよね?」
 問いかけに訳も分からず頷くと、彼女は一口飲んで下を向いた。
「昨日の要の言葉を聞いて、いろいろ考えて。私、ちょっと長話になっちゃうと思う。良かったら要から、どうぞ」
「俺も長くなるかも。せっかくの学祭、見れなくなるかもしれねえぞ」
「構わないよ。すごく大事なことだと思うから。学祭は、来年もあるもん」
「わかった」
 昨日見せた感情の爆発などなかったかのようににっこりと笑う彼女の表情には迷いがない。安心した俺は、自分の気持ちが萎えないように空を見上げて息を深く吸い、一気に吐き出す。
「ここんとこの春はすごくしっかりしてたと思う。変わっていくお前を見てると、まだ春が俺といつも一緒にいたころに、俺だけが昔に――十年前のあのころに置き去りにされていってるみたいだった」
 『十年』と口にしたとたん、春の表情が強ばる。でも、もう覚悟は決めた。
 俺は、一つ一つ言葉を選びながら気持ちを形にし始めた。
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