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16 あけぼの

「今になっちまうとガキっぽい考えだけど、お前が言ってた虹の根元にある『宝物』の話を俺は信じてたんだ。それを、俺は一人で見つけようと思った。こっそり持って帰ってきた方が、お前を喜ばせられると思った。だから、春がついてきちゃまずいって、突き放すようにして走った――」
 屋根から滴る水滴を眺めながら、言葉を探す。
 昔の俺は、どうしたら彼女が喜んでくれるか、密かに考えるのが楽しくてしかたなかった。その結果として生まれたのが、内緒で出かけて宝物を見つけて戻り、びっくりさせようという作戦だったのだ。
「そんなに思ってたのに、お前に怪我させたのを自分の中ではなかったことにして――本当に忘れてしまって、いや――あの日のことをすっかり封印して、忘れたことにしてた。つい最近までまったく思い出せなかったんだ。今さらになっちゃうけどな。
 ……昔も今も、足手まといだなんて全然思ってない。むしろ、偉いと思ってる。
 昔の俺はほんとに素直じゃなかった。春を責めることで自分の失敗じゃないと思いこもうとしてたんだ。そうしないと苦しくて、お前と顔を合わせられなかった。……本当に、すまない」
 のどの渇きを覚え、春がくれたコーヒーを一口流し込む。いつもなら顔をしかめるだろう、しつこいほどの甘さ。しかし、今日は優しく全身に染み渡っていく。
「最近の俺は、訳も分からないのにやたら焦ってた。その理由が分からなくて、ずっと、こう――頭の中に霧がかかったような感じが続いてた。でも、やっと今、分かったよ。俺は、自分だけが昔のままでいることが不安だったんだ」
 雨音に混じって遠くから音楽が響いてくるのは、軽音同好会の野外ライブだろうか。この程度の雨などはね返す勢い。文化祭の主役たちの熱気には敵わない。それに比べて俺達の温度ときたら――。
 春は目を軽く閉じ、抱えた膝の上で頬杖をつきながら俺の話を受け止めていた。昨日と違い、彼女の表情が見えることで、距離はいくぶん縮まったように思える。きっと、気のせいだろうとは思うけれど。
「置いてきぼりになって、先を行くお前との距離がどんどん開いてくような気がしてた。……俺には、それくらい大人に見えてた」
「そんなことないよ」
 春は、必要最低限の動きで左右に軽く首を振った。
「そうかな。今まで俺が思ってたのよりは、ずっと――昨日も、『春なら大丈夫、俺なんかの手は必要ないんだ』って考えてた。獣医で倒れたのを見るまではな。でも違ったんだ。本当は、ひとりきりでほんとに精いっぱい、ギリギリまで頑張ってたんだって――もう遅すぎるかもしれねえけど、昨日と今日でやっと分かった。そんなふうに、辛くても誰にも頼んないで無理してるお前が痛々しくて見てられなくて、心配でたまんねえんだ」
 夜の公園で見た彼女は、これまで見たことがないほど綺麗だった。幼なじみの春は俺が足踏みしている間に、俺の知らない春に変わろうと努力をし、実際変わり始めていたのだ。
 しかし、慣れない背伸びを続ける彼女の限界は思わぬところで現れた。その現実を認めたとき、俺はやっと素直に『昔の俺』から抜け出す決心ができた。昨日の言葉を改めて繰り返す。
「俺が弱くて卑怯だったせいでこれまでずっと蓋をしてきた。昨日も言ったけど――俺は、春が好きだ。今も昔も、ずっと好きだ。昔の泣き虫だったお前も、今のお前も」

「私……私は」

 春は何か言いたげに俺を見つめていたが、大きなため息とともに目を閉じると言葉を切った。俺がさっきしたように深呼吸をすると、膝を抱えたまま俯く。その頬にも足にも、十年前の怪我の跡――俺が残した傷跡はかけらも残っていなかった。心底、ほっとする。
「ね、要は虹の出た日のこと、どれくらい覚えてるの?」
 春の口から改めて聞かれ、刃物でえぐられるような痛みが胸に走った。昨日思い出したばかりなのだから、忘れるはずはない。
 それにしても十年もの間、よく色褪せずに保存されていたものだ。もしかしたら、無意識下で大事な記憶として丁寧に、厳重に包み込んで心の底に安置していたのかもしれないな、とも思う。
「……多分、全部」
「私がお天気の本を集めてるのは、知ってる?」
「あの、本の山か。なんか、目立ってた。本棚から浮いてたって言うか」
 春の家で勉強したとき俺が違和感を持った、専門書が置かれた一角を思い出す。頷く俺を確かめて、春はカフェオレの缶を握りしめ、先を続ける。いつものように、よく考えながらゆっくりと言葉を選んで。
「あれから――虹の日から、私、変わりたいって思うようになった。小さい頃は漠然とだったけど、最近はすごく切実に。せめて周りに迷惑かけないようになりたいって、ずっと思ってて。いつも私の手を引いてくれてた要に突き放されて、要の背中が雨の向こうに消えていって。要に拒絶されたのって初めてのことだったから、ほんとに悲しくて――」
 俺の手は、いつの間にか冷たい汗でじっとりと濡れていた。昨日、虹の日のことを思い出したときもそうだった。
 その俺の身体を、夏らしい風がなでていくのを感じる。雨はいつの間にか止んでいて、心地よい乾いた空気が広がりつつあった。
「虹とか天気とかの本は、あの日から読み出したんだ。虹の根元の宝物を独りでも探しに行けるようになるために、勉強しようと思って。そしていつか、要には秘密で宝物を手に入れてきてびっくりさせようと思ってた。……言葉は悪いけど、見返してやるんだっていうのもあったかもしれない。『ほら、私はもう自分でこんなことまでできるようになったんだよ。すごいでしょ』って自慢して、偉いなって要に誉めてもらおうって。
 今思うと、あの日のおかげで泣き虫の私は嫌い、頑張らなきゃっていう決心ができたような気がする。……もちろん今は虹の話がただの言い伝えだって分かってるよ。けど、それでも虹を見たり本を読んだりするたびに、前に進めって自分を勇気づけてきた」
 自分を導いてくれるはずだった手が突然自分を置いて去ってしまったら、俺ならどうするだろう。
 また、その記憶に蓋をして生きていくことを選んでいたかもしれない。
 しかし、春はそれまでの自分と決別するという選択をしたのだ。
「始業式の自己紹介で、変わらないなって言われたじゃない。結構、ヘコんだんだよ」
 確かに言ったが、しかし、決して悪い意味ではない。自分なりに精いっぱい話そうと苦戦している春がとても懐かしく思えた、それだけだった。まさか、彼女をそんなにも傷つけていたなんて思いもしなかった。
「ごめんな。俺は、いつでもお前を傷つけてばっかりだな」
「ううん、そんなに気にしないで。なんだか、高二になってからずっと焦ってばかりで、上手くいかないんだ。要の前ではしっかりしなきゃって、変に気負いすぎて」
 焦ってばかりでという台詞を最近どこかで聞いたな、と思ったが、何のことはない。それはついさっき、俺が自ら使った言葉だ。
 春は、照れたように笑った。ちょっと前まではいつも隣にあったこの笑顔を、久々に間近で見た気がする。
「虹には宝物なんて隠されてない、ただの言い伝えだってすぐに知ったけど、気象の本を読むのは止められなかった。始めは、どうしてこんなに虹に惹かれるのかよく分からなかったけど、この頃だんだん自分の気持ちが分かってきたの」
「分かった?」
 なかなか戻ってこない返事に、そっと隣を窺う。春は膝の上で組み合わせた手にぎゅっと力を込めていた。その力の入った指先が白くなっているのが印象に残る。

 じっと待っていると、春はやがて再び大きく息を吐いた。
 彼女はさっきの笑みを崩さぬまま、しかし瞳にはこぼれ落ちそうなほどの涙を溜めて俺を見た。俺は、思わず息を呑む。
「虹を見るたびに、要の顔が浮かんでくるんだ。……だって私は、ずっとずっと昔から要が好きだったから。あの虹の日よりももっと前から、要の背中に憧れてた。そして、今も」
 次の瞬間、俺は春に抱きつかれていた。肩が、熱く濡れていた。
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