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5 独り言と雪解け

 俺のケガはそうひどいものでもなかったらしく、痛みは二、三日で引き、包帯も湿布も必要ではなくなった。
 そうは言っても激しく飛んだり跳ねたりはできずに体育は見学していたが、周囲から余計な勘繰りを受けるのも煩わしかったので、自転車に乗っていて転んだと説明していた。
 嵩和なんかは「ついに祟られたか?」などと冗談交じりに尋ねてきたが、塚原から聞いた話をしたところでどうなるとも思えず、俺は笑ってはぐらかしていた。そんなことをしようものなら、正に彼女の言ったとおり『変な目で見られる』ことは火を見るより明らかだ。
 彼女の闇を知ってからは、傷跡が消えるごとに塚原との繋がりまでもが薄れていくように思われてならなかった。この数日、さすがに公園に行くのは控えていたが、そんな短い間にも塚での出来事が始めから何もなかったかのように空ろで不確実な記憶に変わりつつある。
 ――確かに触れ合ったはずなのに、思い出せなくなってるな。
 『熱しにくく冷めやすい』を自負する俺だが、忘れたくない、ゼロには戻したくないという気持ちは逃がしようがない熱を帯びてきていた。今、彼女の力になれるとしたら俺だけ――いつの間にか沸点を超えようとしていた熱さは、ケガが治りきる前に俺を動かした。

 早朝、狐殿塚に塚原の姿を認め、俺は自転車を引いてベンチへと向かった。今日は彼女がいるからなのだろうか、塚に近づいても先日のようなひどい寒気に襲われることもない。
「遍――さん」
 いつものアンニュイでとらえどころの無い表情でこちらを眺めていた塚原は、近づく人影が俺だと分かったとたんに顔を伏せた。呼びかけてみたものの当然というばかりに返事はなく、俺は予想通りの反応に苦笑いしながら塚原の隣に勝手に腰掛けた。こうでもしないと口すらきいてくれないだろう。
「これ、独り言だから無視してもらっていいんだけど」
 そう前置きをするとカバンから半分に折りたたんだB4用紙を数枚取り出し、あっけに取られている彼女の前に並べていく。俺は特別な力を持たないから見えないバケモノを相手になどできず、彼女の闘いには手は出せない。他に手伝えることといったら学校のこと――授業のノートを貸すくらいのものだと考えて、今日は早めに家を出てコピーを取ってきたのだった。
「合同授業のノート、遍さんが出れなかった分のをコピーしてきた。この塚に来てたから早退とか遅刻とか多いんだろ? これが日本史、化学、こっちが音楽の鑑賞で使ったプリント。あと、化学は明日小テストだから休まないほうがいいと思う。範囲はここに書いたから」
 受け取るそぶりを見せないので、俺はプリント類をまとめてクリアファイルに入れ、ベンチの空いたスペースに置いた。今日の塚原は視線こそこちらに向けてはいるものの、まだ一言も発していない。
「ノートのことでなんか聞きたいことがあったら、学校ででもいいから気にしないで言って。遍さんは嫌かもしれないけど」
 しばらく待ったが、やはり返事はないまま。携帯電話を見ると登校時間が迫ってきていたので、諦めて立ち去ることにした。空しさも残るが、今できることはしたつもりだった。俺のためを思ってあれだけ忠告したというのにあっさりと無視されたのだから、彼女が気分を害しても無理はない。
 あまり無理しすぎるなよと声を掛け、留めてあった自転車に積もった花びらを払ってサドルに跨ると、塚原の声が追いかけてきた。
「要さん」
 急ブレーキをかけて振り返ると、塚原はゆっくりと立ち上がってこちらを向いたところだった。俺と彼女との距離はまだそう離れておらず、風の音に乗って衣擦れの音が耳に届く。
「同情? 義務感? 私には、良く分からないんです。……かび臭い墓に縛られながら化け物を斬って手を血みどろにしてる私が、不気味じゃないんですか。そんな突拍子もないでたらめを話す女に近づきたくないとは思わないんですか」
 先日、傷の手当を受けたときも塚原は自分が怖くないのかと尋ねた。『祟りが怖くないのか』と受け取っていたが、あれは『刀を手に戦っている自分をどう思うか』という意味だったのだ。
「この間も言ったけど、塚の祟りの話は信じてるし、俺は遍さんのことすごく優しいと思ってる。だから、全然怖くないよ」
「でも、だからって何で優しくするんですか。どうしてこんなことしてくれるんですか」
 彼女は未だ暗い表情で俺を見つめているが、先ほどのクリアファイルを半ば握り締めるように胸にかき抱く姿には明らかに戸惑いが伺えた。おそらく、彼女には本当に理解できないのだ。これまでに俺のようなしつこい協力者はいなかった――彼女がそうなるように人を遠ざけてきたからにほかならないが、拒絶する以外の方法を知らない塚原はこうして俺に聞くことしかできない。
「この前、『シンクロする』って言っただろ。確かに危ない目にはあったけど、おかげで霊がどうとかだけじゃなくて、遍さんの苦労とか、そういうこともちょっとだけシンクロできた気がするんだ。あれくらいの傷で済むなら少しぐらい迷惑かけられてもいいや」
 塚原の話を聞いたこと、そして傷を負った言い訳を考えたことで、彼女の寂しげな面持ちや何かを諦めたような瞳のわけが俺にはおぼろげながら見えてきていた。守らなければいけないはずの皆から注がれる冷淡な目、闘いでの疲労や緊張の蓄積、過去からの因縁の重さ、孤独感。そういった、人には言えない悩みすべてが彼女の日々を黒く塗り潰してしまっている。部外者(もう、全くの部外者とは言い切れなくなったが)の俺でさえ悶々としているというのに、当事者の塚原はこの状況下で十数年間も過ごしてきたのかと思うと身が細る思いがした。
 それが飲み込めたからこそ、俺なりに、退屈だが平和な生活に別れを告げるという覚悟を決めてここにやってきた。たかがノートを貸すだけとは言えど、塚原に積極的に関わることは『祟り』の被害者候補に名を連ねることと同義だ。しかし、彼女の毎日に楔を打ち込むきっかけにでもなれば、それでいい。
「でも、今日この塚に来たのは同情じゃないし、助けられたからって義務感でもない。今度、ここで遍さんの横を素通りしてしまったら、始業式から今までに起こったことが全部なかったことになっちまうんじゃないかって思った。それが嫌だったんだ。俺、普段は他人に対してほとんど関心がないんだけど、遍さんの……秘密って言うのかな、それはなぜか見て見ぬふりができなくて。どうしても何かしたいんだ」
「今度は、ひどいケガになるかもしれないんですよ。命に関わるようなことになったらどうするつもりなんですか」
「遍さんがいるから大丈夫だって思ってる。とりあえずそばにいれば、危険な目には遭わなそうかと思って」
「私を何だと思ってるんですか。甘すぎます」
「甘いかな?」
 塚原には会うたびに駄目出しをされているような気がする。日々、人ならざるものと命のやりとりをしている塚原からすれば俺の決意など薄っぺらく見えることだろう。また怒られるかと身構えていると、やや間を置いて、驚くべきことに彼女はぎこちなく口角を上げた。
「要さんって、本当に変な人なんですね。……あんなに言ったのに」
 大人びている塚原だが、笑うといつもよりあどけない歳相応の雰囲気になった。あっという間に微笑は消えて、前髪の下から大粒の涙がボロボロとこぼれ、細い顎を伝って地面の色を変えていく。
「……優しくされると、困ります」
「遍さん」
 俺は自転車を放り出して、立ち尽くしたままの塚原のもとへと駆け寄った。とりあえずベンチに彼女を座らせて俺も隣に腰を下ろす。
 泣き声こそ抑えているものの、胸を震わせるような吐息が嗚咽の代わりに絶え間なく聞こえていた。どうすることもできず、小声で何度も「ありがとう」と呟く塚原の右手を軽く握ると、ぎゅっと握り返される手ごたえがある。やがて左肩に力の抜けた体を預けられ、気恥ずかしかったがされるがままにしておいた。俺に出来ることはこれくらいなのだから、彼女のしたいようにすればいい。
 目のやり場に困ってふと真っ正面を向くと、木漏れ日の中に鎮座する狐殿塚が目に飛び込んできた。彼女から喜怒哀楽を奪った元凶は、塚原に封じられて目の前で眠っている。子孫が自分のせいでこんなに苦労しているのを、祟り神となった彼は果たして知っているのだろうか。
 触れ合った肩が汗ばんでくるほどの時間が経つと、声を殺して泣き続けていた塚原はようやく体を起こし、「いけない、もう、時間が」と切れ切れに言った。
「要さん、遅刻しますよ」
「遍さんは?」
「私は……この顔じゃ、すぐには学校には行けませんから。要さんは先に行ってください」
 自分は遅刻して行くということなのだろう。充血し、まだ濡れている瞳は痛々しい。いくら塚原が周りの目を気にしないたちだとは言っても、さすがにこの状態で人前に出るのはためらいがあるようだ。
「ノート、取っておいてくださいね」
「わかった。……ばっちり授業受けてくる。無理、聞いてくれてありがとな」
 申し出はどうやら受け入れられたらしく、塚原はクリアファイルを胸の前に両手で掲げてみせた。笑顔でそれに応えると、彼女は上目遣いで俺を見上げてからぎゅっと瞳を閉じた。腫れた目を開いているのが辛いようだった。
 塚を横目に、俺一人が学校へ向かう。途中、自転車を止めて振り返ると塚原はこちらに向かって小さく手を振って叫んだ。
「帰りも、ここを通ってくれますか!」
 初めて聞く、彼女の大声だった。俺が両手で大きく丸を作ると、塚原は深々と頭を下げた。

「遍さん」
 放課後、いつものように狐殿塚の前で文庫本を読んでいた彼女は、俺を見て軽く会釈をした。
「授業は、出なかったんだ」
「はい」
 俺は一日じゅう隣のクラスを気にしていたが、今日は彼女を学校で見かけることはなかった。やや申し訳なさそうな声に、慌てて「責めてるわけじゃないよ」と付け加える。朝、泣きじゃくった彼女一人を残していくのは少し不安もあったが、だいぶ元気になっているようだ。明るい表情とは言い切れないものの、穏やかなまなざしは以前のようにすべてを拒否した暗いものではない。普通の会話ができるということは、精神衛生上なんて健康的なことなのだろうか。
「あの後いろいろあって、学校には行けませんでした」
「いろいろ?」
「何頭か狩りました。狐を」
「……で、ケガとかは?」
「大丈夫。いつものことですから」
「毎日、狐退治してるのか」
「日に五頭は」
 俺の問いかけに、塚原はそう答えるとなぜか自分の左足を軽く叩いてみせた。ガシャガシャと、手が当たったあたり、ももの外側から明らかに人の肌ではありえない金属音がする。そんなところに何を隠し持ってるんだと考えて、すぐに思い至った。
「もしかして、刀」
「小太刀です。堂々とは持ち歩けませんから」
「制服の中に隠してるとは思わなかった」
「スカートの丈、ほかの女子より長いでしょう」
 俺は半ば呆れ、それをごまかすように頭をかいた。武器の在りかにももちろん驚かされたが、それ以上に、彼女が平然と『日に五頭』と言うことが衝撃だった。俺が、嵩和や春と昼飯を食べることが日課になっているのと同様に、そんな闘いが彼女にとっては日常なのだ。
 どんよりとした思いに陥る寸前、そもそも塚原に頼まれてここに寄ったことを思い出した。
「ところで、何か用でも? 来てみたけど」
「これを渡したくて。魔除けにはなるはずです」
 塚原はセーラー服の胸ポケットから何かを取り出し、俺に手渡した。体温がまだ残るそれはお守りのような小袋だった。少し凹凸があるがしなやかな手触りの布は、おそらくちりめんだろう。
「ありがとう。……香り付き?」
「匂い袋の中に、私が書いた符を入れたんです。大きさがちょうど良かったので」
「絶対手放さないようにする」
 桜に混じって鼻をくすぐる落ち着いた香りと薄い藤色は、塚原のイメージにぴったりだった。俺が学生服の胸ポケットの奥に匂い袋を押し込み、軽く叩いて塚原に示すと、彼女は首を小さく縦に振った。
「ええ、無くさないでくださいね。……もう迷いません」
 塚原はやや厳しい表情で、逆光に目を細めながら塚を見上げた。何が『迷わない』なのか。俺がそれを知るのは、まだ少し先のことだった。
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