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6 狐と標的

「おはよっす。……何事も無かったよ」
「おはようございます、要さん。……こっちもです」
 塚原は膝の上のサンドイッチを手に取りつつ、相変わらずの無表情でそう答えた。

 塚原とは朝と夕方、ほぼ毎日そんな会話をするようになった。刷り込みというのは恐ろしいもので、始業式で出会ったときに要と名乗ったからなのだろうが、彼女は俺を『要さん』と呼ぶ。俺を名前で呼ぶのは家族以外に嵩和、春ぐらいのものだったので、当初はくすぐったかったが、今はだいぶ慣れた。
 涙を見せたあの日以来、塚原を学校で見掛ける頻度はぐっと上がっていた。俺は気にしないと言ったのだが彼女が頑として聞かなかったので、校内で会話をすることはなかったものの、廊下や合同授業などで顔を合わせたときには少しだけ柔らかい表情を向けてくれた。学校で会えるということは、裏返すと彼女の『仕事』が忙しくないということだから、おそらくはいい傾向なのだろう。
 ただ、俺は登下校は必ずと言っていいほど公園を通るようにしていたが、いつ行っても彼女は塚の前にいたので、ちゃんと休養を取っているのか心配でもあった。塚原はどうも俺の影響で積極的に学校に出てくることを決心したようだったので、その努力を否定するのも憚られたが、今日は思い切って尋ねてみると「塚の封印を強めたから、出勤――の回数が減ったんです」との答えが返ってきた。

「ふーん。……学校に来るのはいいけど、身体壊さないようにしろよ。最近、顔色悪いだろ? 朝飯だってこんなところで食べるんじゃなくて、家で食べた方がいいんじゃねえのか」
 せめて食事の時くらいリラックスできればいいのに。公園でお弁当と言えば聞こえはいいが、彼女ははその間もアンテナを張り巡らせている。こうして塚にいても、学校ですれ違ったときでも、塚原からは『何か』への警戒の色が抜けることはない。果たして、彼女の心が本当に安まる日は訪れるのだろうか。
「そうですか? ……でも学校には行きたいですし、そのためにはそれ以外の時間、できるだけここにいたほうがいいかと――」
「分かってる分かってる」
「……ありがとう」
 幾分穏やかな顔つきで、塚原は呟く。こんな緩んだ表情も、最近になってようやく見られるようになった。
「心配性ですね、要さん。でも、私はこれで充分ですよ。友だち――とお話ししながらご飯を食べるなんて、もしかしたら初めてかもしれません。だから、大丈夫」
 これでというのは、つまり二人で話していることを指しているのだろう。ささやかすぎる幸せで満足できるほどの人生を歩んできたのかと思うと胸が痛むが、その幸せに俺が貢献できているのであれば嬉しい。
「今度、俺もここで朝飯食ってもいい?」
「早起き、苦手じゃないんですか」
「頑張るさ。花見――は、次のシーズンまで持ち越しか。桜でも咲いてればもう少しましな場所なのにな」
 塚原は何事か考えていたようだったが、やがて広げていたランチボックスの片付けを始めた。ということは、もう登校しなくてはいけない時刻なのだろう。
「じゃ、今日は俺が後から行く。……午後の日本史が一緒かな」
「はい。じゃあ、お先に。何かあったら、大声で呼んでくださいね」
「そっちも気を付けろよ」
 塚原は軽く頷き、小走りで塚を後にした。
 彼女の後ろ姿が消えるまで見送って、俺はベンチに腰を下ろす。毎朝同じ場所から学校へ向かいながらも、登校はいつも別。心を開いてもらっていないわけではない。むしろ、危ない目に遭わせたくないからだとは思うのだが、塚原は未だに俺との間にある程度の距離を置いている。
 俺はここまできたら一蓮托生、この騒動が片付くまでは塚原と行動を共にしようとすら考えていたが、彼女はどうだろう。塚原に匂い袋をもらって以来、見えない何かに危害を加えられることはなくなった。とすれば、俺と彼女が一緒にいる理由はない。
 制服のポケットから例の匂い袋を取り出してぼんやりと眺めながら、何もできない自分を呪う。せめて、役に立てればいいのに。闘う力が俺にもあれば、彼女の寂しさや痛みももっと分け合えるのに。
 俺の背中を総毛立つような冷たさが襲ったのは、その時だった。
 逃げなくては――直感的にそう思ったものの、襲われた悪寒に足が言うことを聞かなかった。俺は根が生えたようにベンチに座ったまま、次に起こることをただ待つ。
 じきに、よく通る男の声が俺を捕らえた。
「邪魔は、消えたか」
 遠くから聞こえるような気もするし、腹の底まで鋭く刺さるような近さもある。うろたえながらも塚原がくれた袋をしっかりと握りしめると少しだけ勇気が湧いてきて、俺は何とか声を振り絞って叫んだ。
「誰だ!」
「貴様、あの娘の仲間だな?」
 今度の声は、俺の真後ろからだった。ともすれば閉じそうになる目をこじ開けて恐る恐る振り向くと、さっきまで誰もいなかったはずの空間に、一頭の狐が四肢を踏ん張って立っていた。
 狼ほどもある堂々とした体躯に、こちらを射抜くような鋭い瞳、尖った鼻先と口元からのぞく牙に、小さな鉈のごとく恐ろしく発達した爪。声の出所は、この狐のようだった。
 ものを言う狐なんて存在するはずがない――そう自分に言い聞かせながらも、俺は目の前で起きていることを否定しきれるほど向こう側の世界を知らないわけではない。決して慣れたいものではないのだが、彼女といるようになってから何度も何度も味わってきた寒気が、それを裏付けている。これが、塚原が日々闘っている敵なのだ。
 ――遍さん!
 かつてないほどの身の危険にさらされていることだけは分かったが、大狐を取り巻く威圧感に完全に押し潰され、塚原の名を呼ぼうとして口を開けてもうまく声が出せない。俺は、自分の意志とは無関係にガタガタと震える身体をぐっと両手で抱きしめ、やっとのことで一言だけを絞り出した。
「な――なんの話だ? どうして、わざわざ俺に姿を見せる」
 今まで、俺には『あちら側のモノ』を見る力はなかった。しかし、この狐の姿だけはくっきりと見える。それを問うと、狐ははん、と鼻で笑った。
「我は何も特別なことはしておらん。我が見えるというなら、それはあの娘のせいだろう。あの娘に寄りすぎて、お前は塚原に近づいているのだ。……見かけに反し、これまでの塚守の中でもかなりの剛の者。よほど血が濃いと見た」
 言いながら、大狐はじりじりと俺との距離を縮めていく。
 俺の脳裏に『シンクロ』という単語が浮かんだ。彼女のそばで過ごす日々が、俺に塚原のような力を与えているというのだろうか。だとしたらもっと塚原の役に立てる力が欲しいのに、俺にできるのは見えるものに怯えて助けを呼ぶだけ。
「同胞はなぜかお前に近寄りがたいという。それは塚原の力か、それともお前の力か? それを見極めに来たというわけさ」
 俺にそんな力があるはずはないから、狐が寄ってこなかったのは恐らくこのお守り――魔除けと、彼女は言った――のおかげだ。俺が気付かなかっただけで、きっと今までに幾度も救われてきたのだろう。手に持ったままだった塚原の匂い袋を再び強く握りしめると、少しだが体の自由が戻ってきた。
 この場をどうにかしなければ。戦えないならば、せめて逃げなくては。立ち上がろうとしてバランスを崩し、そのままベンチの後ろへと落ちた。尻もちをついた無様な格好のまま、俺は少しずつ後ずさる。今の俺の、精一杯の勇気だった。
「俺にそんな力、あるはずない!」
「我らを滅する力がないにせよ、この状況で動けるとは。……お前を放ってはおけぬな。命乞いの準備は、できているか?」
 迫ってくる大狐との間は明らかに近くなり、そしてすぐにゼロになった。大狐は俺を見下すように覆い被さり、喉笛を狙って鈍く光る牙をむき出す。
「我らに徒なすものを野放しにしてはおけぬ。悪く思うな」
 言うが早いか牙が迫り来る。思わず目を閉じたが、予想していた衝撃はいつまで待ってもなかった。

「その符、あの娘のものか。命拾いをしたな」
 すぐに、舌打ちとともに狐の声が遠ざかった。うっすらと目を開けると、恨めしげな顔つきの大狐がこちらを睨め付けている。
「……しかし、切り崩す方法はいくらでもあるのだぞ。例えばあの娘、自分が傷つくことは厭わないが、人が傷つくのは我慢ならないのだ。『お前を引き裂いてやる』、そう脅せば娘はおとなしく身を差し出すであろうな?」
「汚ねえぞ!」
「自ら弱みをさらすとは所詮子供のすることよ。……故に、お前は我らにとって切り札。その符を持っている限りはお前を害することはできんがな、一瞬でも手放してみろ? その時が、あの娘とお前の最期だ。それとも、血が騒いでお前があの娘の餌食になるかもしれぬな」
 大狐は鼻で笑う。
「……我の名は褐(かち)、狐を束ねる者。またまみえることもあるであろう。それまでその首、大切にしておけよ」
 そう言い残すと、褐は強く地面を蹴りどこかへと駆け去った。後には、砂埃にまみれた俺だけが取り残されていた。あれがいわゆる『ラスボス』の片割れ。狐殿に復讐を遂げた狐たちの親玉、そして塚原から人の温もりを奪ったモノなのだ。
 我に返って時計を見ると、今ならまだ二時限目には間に合いそうだった。褐がいなくなったせいか、体は動くようになっている。俺は、制服に付いた泥を払うと自転車に跨り、学校へと急いだ。


「何か悩み事ですか、要さん」
 放課後、公園に寄ると塚原は開口一番、俺にそう尋ねた。
「ん? 何で?」
「先生の話、ほとんど聞いていなかったんじゃないですか?」
 今日はとりあえず登校はしたものの、当然授業は手に付かず、俺は一日じゅう朝の出来事を考えながら過ごした。日本史の時間、きっと塚原は俺の様子を見ていたのだろう。
「実はさ、言うかどうか迷ってたんだけど。……大きい狐に会った。褐って名の。知ってる?」
「褐、って――要さん、ケガとかはしなかったですか? 何もされませんでしたか?」
「うん。あいつを前にしたら、金縛りにでもあったようにぜんぜん動けなかった。もう少しでやられるかと思ったけど、遍さんのお守りのおかげで退散した。ありがとう」
「良かった。……怖かったでしょう? 私、気付かなくて本当にごめんなさい」
 力の入っていた塚原の肩がふっと落ちる。彼女に責任はないし、むしろ彼女のおかげで助かったのだから気に病むことなどないのだ。
「疲れてるんだろ? 何事もなかったからさ、いいよ」
 『祟り』の恐ろしさを身をもって味わうのは二度目だが、今回は前回とは桁違いの恐怖だった。肉体的な被害は何もない。ただ、狙われているのを自覚したことと、敵を目の前にして全く無力だったことが俺には大きく堪えている。
「あいつに、褐に言われた。俺が遍さんの弱みになってるって。俺も、それにうすうす気付いてた。……今日一日、いろいろ考えてたんだ。ほんとのこと言うと、ほんのちょっとだけだけど、遍さんに迷惑かかるならもうここに来るのやめようかって思った。俺は弱いから、きっとこれから先も足手まといになるのは目に見えてる。覚悟を決めたとか言いながら、敵のボスに会っても何もできないんじゃ、何もしないのと一緒じゃないかって」
「無理は、しなくていいんですよ。要さんの優しさに甘えてきましたけど、これ以上は本当に危険です。今までありがとう。……少しの間だったけど嬉しかった」
 いっそ、役立たずと罵ったり怒ったりしてくれた方がよかった。しかし俺の難しい顔を見て、塚原は少し寂しそうに微笑んだのだ。
「……引くの、早すぎるよ」
 俺に寄りかかって泣いた塚原の肩の薄さが忘れられない。その小さい肩にたくさんのものを背負って、また独りで行こうとしている。このままでは、俺に出会う前と何も変わらないじゃないか。
「まだ、話の途中なんだ。最後まで聞いてくれよ。……遍さんと一緒が嫌だから悩んでるんじゃなくて、それでもやっぱりここに来たいと思うから困ってるんだ。お守りさえあれば遍さんに会わなくても身の危険はないけど、それでも――たとえ俺の自己満足でも、ここに来たい。もし少しでも幸せだって思ってくれたのなら、そのためだけにでも来ていいかな」
 塚原はさっきとは一転して、表情を殺しながら俺の話を聞いていた。
 あとは彼女の答えに従おうと、俺は考えていた。正直な気持ちは言葉にすることができたのだから、彼女がそれを受け入れてくれるかどうか。できることなら一人にはさせたくないし、たとえ受け入れられなくても塚原を見守ることはやめるつもりはないけれど。
 やがて、「褐は――」と、しばらく黙り込んでいた塚原はおもむろに口を開いた。
「闘ったことはないものの、私も今までに何度か遭遇したことがあります。……綺麗な毛皮に大きい体で、絶大な妖力を持つ、まさにあやかしの中のあやかし。あれが、狐たちのリーダーです。これまでの塚守も大きな傷は何度か負わせてきたものの、討ち取るには至りませんでした。私がいずれ倒すべき敵で、先祖の仇。……今の私が褐に敵うのか、正直なところ分かりません。でも、あのお守りがある限りあいつはあなたに手出しできないはず。絶対に手放さないで下さい」
 いきなり始まった褐の話に俺が面食らっていると、塚原ははっとしたように口を押さえて俯いた。しかしすぐに顔を上げると、真正面から俺の目を見る。いつもの憂いを帯びた表情ではなく、どこか熱っぽさをにじませた瞳の色で、塚原は懸命に応えようとしていた。
「褐の危険さを伝えないと、卑怯だと思いました」
「どういうこと?」
「こんなお願いは図々しいと自分でも思うんですけど、一緒にいた方が守りやすいから。私が、危険な目には絶対遭わせませんから、その……今度、ここで一緒に朝ご飯食べてくれませんか」
 俺が「喜んで」と言うと、塚原は顔を綻ばせて大きくうなずいた。それは人の避け方しか知らない彼女からの、初めての積極的な意思表示だった。

 次の日から、俺は朝食も塚の前で食べることにしたし、学校でも他の友人と接するのと同様に塚原に話しかけることにした。塚原も何か吹っ切れたのか、それに公園でと同じように答える。周りの反応は割と穏やかで、みんなが口に出していたよりも彼女が恐れられていないのが分かった。彼女に対し、決して好意的ではなかった嵩和でさえ、最初こそやや引き気味だったものの数日後には慣れたらしく、塚原のことは特別話題にしなくなった。
 相変わらず彼女は一人を好んだが、それはこの件が解決するまで仕方のないことなんだと、俺は自分に言い聞かせていた。俺のようなターゲットを増やすのは塚原にとっても大きな負担になるだろう。
 褐を討つまで、塚原は自由になれない。少しずつ良い方に転がりながらも、まだ先は見えないままだった。
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