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7 塚守と秘密

 ある日の放課後、いつも通り塚原と別れて家へと帰った俺は、彼女に渡し忘れたノートのコピー――音楽の歌唱テストの課題曲の楽譜を鞄の底に見つけた。音楽の授業は明日の午後。他の教科ならともかく、音楽は初見で歌えといわれても困るだろう。
 まだ九時前。月も出ていて明るいし、サプライズで届けに行ってみようか。
 いつもなら、塚原に怒られるからやめようと考えるところだ。どうしてこの日に限ってそう思ったのかは分からない。いわゆる、虫の知らせのようなものだったのだろうか。

 城跡というのは坂道が多いもので、俺は自転車を漕いで登り切るのを早々と諦めた。上り坂、葉ばかりとなった桜並木を一瞥すると、また自転車を押しながら黙々歩く。
 夜の城址公園に来るのは、『祟りがあるから』と告げられたあの日――酔っぱらいに絡まれた塚原を助けたとき以来のことだった。早いものであれから二ヶ月ほどが経つ。中間テストも終わり、季節は梅雨に差しかかっていた。幸いにも、今夜は風がややあるので雲が流れ、月明かりがあるが、昼はいつ降り出してもおかしくないほどの曇天だった。
 ようやく塚が見えてくるあたりに進んだところで、嫌な寒気が俺を襲った。若干の吐き気もして、思わず口を押さえる。
「……気持ち悪ぃ」
 かと思うと、関節が固められたように動かなくなり、全身が強ばって自由が利かなくなった。
 塚原との力のシンクロは、俺にもある程度の判断力を与えていた。この強烈な威圧感は一度味わったことがある。塚原でさえ敵うか分からないという狐の頭領、褐のものだ。鎌のように光る爪、俺の喉笛を的確に狙ってきた鋭い牙は今でもくっきりと蘇る。
 しかし、褐が現れたとなれば、今日も塚守を務めているはずの塚原が一人きりで苦戦を強いられているのは間違いないだろう。一刻も早く、駆けつけてやりたいのに。
「くそっ! ……動け」
 恐ろしさを少しでも振り切ろうと、声を出してみる。
 自転車をその場に投げ出し、息苦しさをこらえてポケットに手を突っ込むと塚原にもらった『お守り』の感触があった。握りしめると、止まっていた足はようやく動き出したが、呼吸は浅いまま元には戻らなかった。身体が重いのが褐の妖力のせいなのは確かだ。だが、胸がすっかり萎縮してしまっているのは俺自身の心の問題らしい。
 塚原は『ここで一緒に朝ご飯食べてくれませんか』と、俺を必要としてくれた。俺は狐たちの恰好の的で、それを庇う塚原もまた狙いやすい的となる。それを分かっていて、なおもそう言ってくれたのだ。
 ――行かなくては。
 何ができるかできないかの問題ではなく、塚原を一人ぼっちにはしたくないだけだった。きっと、俺にも塚原が必要なのだ。桜の時期に彼女を助けてから――いや、始業式に声を掛けられてから始まった彼女とのちょっと変わった毎日が、俺の新たな『日常』になった。それはかけがえのない日々で、決して失いたくはないもの。
 細かい理屈を並べるよりも、塚原のことを思えば身体が動かせるという事実が何よりも明白に語っていた。息が止まるほど怖くたって、重い足取りだって、前に進めることには変わりない。一歩一歩だが確実に、俺は塚へと近づいていった。

 砂を擦る、ザッという音が不規則に耳に届いてくる。何ごとか、言葉を叩き付けるように言い争う声もする。
「――さない」
「――てやろうか」
「――な!」
 俺の位置からはまだ遠く、詳しい内容までは分からない。
 塚の前の例のベンチが見えるところまで来ると、遠目にも塚原と分かる細身の黒い影が視界に飛び込んできた。それは無駄のない動きで跳躍を織り交ぜながら走り、獣とやり合っている彼女の後ろ姿。塚原が立ち止まると、大狐がぴたりと貼り付いて追う。振り切るように、塚原はまた走り出す。衣替えして間もない夏服のスカートが、軽やかにひるがえった。
「舐めないでもらおうか、塚守を!」
 走りながら塚原は叫んだが、その息はやや上がっている。あの調子では、体力が消耗し尽くすのに時間はかからないだろう。
 他方、対する褐には余裕すらうかがえる。あざ笑うように褐の口元が動き、ぱっくりと割れた口唇からはみ出した牙が光る。
「ふらふらではないか。自慢の小太刀もさっぱり当たらず、痛くもかゆくもないかすり傷。何が出来るね?」
 確かに褐の美しい毛皮にも若干の出血は見られたが、見たところでは塚原の方が圧倒的に劣勢のようだった。
「お前で少々遊ぼうかと思ったが、気が変わった。……好都合よのう。娘、お客人のようだぞ」
 もとより隠れているつもりではなかったが、褐がいち早く気付き、フンと小馬鹿にするかのように俺を睥睨する。一瞬遅れて弾かれるように振り返った塚原は、俺を認めるとすぐに元の姿勢に直り、再び褐へと刀を向けた。「早く、今すぐ帰って!」と俺に叫んだかすれ気味の声は、いつもよりもさらに低い。
「何で来たの? ……いえ、そんなことはいい。早く安全なところまで逃げて!」
「ダメだ、放ってなんかおけない」
「どうして!」
「見届けたいんだ」
「そんなことのために? あなただって狙われているのに」
 言いながら、構えた刀はそのままに、塚原はじりじりと少しずつ後ろに下がる。俺がすぐには退かないと悟って、庇うために俺の前に立とうとしているのだろう。
「『そんなこと』なんかじゃないって。俺にとっては大事なことなんだ」
 その間にも塚原は後退を続け、ついに俺の真ん前、表情が読める距離にまでたどり着いていた。夕方に別れたばかりの塚原の横顔は、汗と土埃ですっかり曇ってしまっている。
 厳しい視線が少しだけ緩んだ。塚原は、小声で繰り返す。
「だい、じ」
「ああ。遍さんは俺にとって、大事なんだ。だから、あいつがいるのは公園入ってすぐに分かったけど、遍さんがどんな苦労をしてるのか見なきゃいけないと思った。ううん、知りたいって言った方がいいかも。……悔しいけど足を引っ張るかもしれないし、怪我するかもしれないってのを分かってて、来た」
「決心、固いんですね」
 俺が塚原から見える位置まで出て「うん」と大きくうなずくと、彼女は寄り添うように俺の隣に立った。至近距離で見る塚原は、俺が思っていたよりも疲労の色が濃い。俺が来るまでの時間、どれだけ動き回ったことだろう。
 塚原の左手が俺の手に触れた。
「四月に声を掛けてもらったこと、忘れません。あの始業式から、学校もこの公園も見違えるほど居心地がいい場所になっていくのが、信じられないくらいでした。褪めていた景色がどんどん鮮やかになっていきました。自ら望んだとはいえひとりぼっちで淋しかったけど、要さんが名前を呼んでくれるたびに、私は生きてるんだって思えました」
 珍しくすらすらと語る塚原は、一旦褐の方を確認して様子を見ると、早口でさらに言葉を続ける。それでも、右手の小太刀は放さない。
「私に関わったあなたが安全に暮らせるのは狐も塚もない世界だから、両方をここから消してしまおうと決めました。その機会は、どうやら今日より他にないようです。私、要さんがいる街ならどんなことをしても守りたい。大事な人を傷つけさせないために闘ってきます。……出会えて良かった」
 熱い体温が一瞬だけ俺を包む。塚原に抱きしめられたのだと気付いたときにはもう彼女は身を翻し、単身褐へと向かっていた。
「遍さん!」
 出会えて良かった。それは嬉しい言葉のはずなのにちっとも響いてこず、むしろ胸に突き刺さるような感覚に俺は思わず息を吐き出した。まるで、別れの挨拶じゃないか。
 俺の呼びかけに塚原はこちらを見ようともせず、いつものように刀を構えて褐と向かい合う。褐は、「遺言は伝えたいだろうと思ってな、待ってやったぞ」と、やはり笑った。
「考え直すなら今だ。化け物は化け物どうし仲良くしないかの?」
「誰が貴様らとなど!」
「つれないな、娘。……お前が忌み嫌う我らと同じけだものの匂い。同じ血が流れているのだぞ?」
 塚原はびくりと身体を震わせて、なぜか俺を見た。その隙を狙って褐が繰り出した牙が彼女の右腕をかすめると、布が裂ける音がして制服の肩口に大きく穴が空き、薄く血の滲んだ肌が顔を出す。塚原は、唇をきつく噛んで褐を睨み付けた。
「何を言っている」
「その取り乱し方、どうやら小僧には黙っていたようだな。そんなに見られたくないか、『化け物』よ」
「違う! 一緒にするな!」
 なぜか冷静さを欠いた塚原の刀は何もない空間を薙ぎ、ぐらついた身体は飛びかかってきた褐の尾に弾かれて転倒する。乱れた黒髪が砂にまみれて灰色を帯びた。背中から叩き付けられた彼女はそれでも素早く手をついて身体を起こしたが、右手にあったはずの得物は褐の背後へと飛ばされていた。
 あそこまで、たった数メートル。とっさに刀を取りに行こうと動いた俺を、低い声が制す。
「動くなよ、小僧。お前が私の後ろまで駆けるのと、この爪が娘を切り裂くのとではどちらが早いと思うかね?」
 褐は狐らしからぬ太い前足で、地面をえぐるように蹴ってみせた。俺から彼女までの距離はかなりある。そして、その間には褐がいるのだ。
 例の匂い袋が狐に効果があるなら、あれを褐の身体に押しつけるなりすれば何かしらのダメージを与えられるかもしれない。しかし、そのためにはどうにかして奴に近づかなくては――そこで俺の目に留まったのは遠くに転がったままの塚原の刀だった。あれを構えて突っ込むくらいなら俺にでもできる。それで褐の油断を誘うことができれば塚原が何とかしてくれるだろうに、今はその糸口すらないようだ。
 塚原は褐と、地面に投げ出された退魔の刀とを交互に見やり、反撃のチャンスを探しているようだった。彼女も俺と似たようなことを考えているのだろう。
「あっけなくてつまらぬな」
 動きが止まった戦場。褐が拍子抜けしたかのようなため息とともに膠着状態を破った。
「小僧、いいことを教えてやる。初代の塚守が誰か知っているか」
 この期に及んで、いったい何を言い出すのか。怨霊となった狐殿の墓を守っているのは、奥方とその子孫たち。そう、塚原は語ったはずだ。困惑しながらも、俺は一応その問いかけに乗る。
「狐殿の奥さんだろう?」
「ほう、一応は分かっているようだな」
「やめろ!」
 褐は満足げに頷いたが、対する塚原は尖った声をぶつけ、褐の声をかき消そうとしていた。ついさっき、大狐の隙を窺っていたのとはまるで別人のような焦燥の色が、ありありと見える。この、よく目的が見えない問答の何が、塚原を焦らせているのだろう。
 対照的に勝ち誇ったように、褐は落ち着き払って塚原を一喝し、さらに重ねて問うた。
「五月蠅いな、娘。 ……では小僧。そいつも『狐』だと言ったら、どうだ?」
「奥さんも、狐?」
 聞き返しながら、俺が思い出したのは葛の葉狐の伝説だった。そう詳しく知っているわけはないものの、希代の陰陽師、安倍晴明の異能は母狐譲りだと言われているのではなかったか。その力は、子、そして一族へと受け継がれ、伝えられていったのではなかったか。
 いや、今重要なのはそんなことではないと、俺は急いで頭を整理する。
 奥方が狐、それが本当なら、塚原も――。
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