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9 未来と荒魂

 褐がいなくなった塚の前には、塚原と俺だけが残された。奴にとどめをさしたであろう刀は、俺が目を閉じていた間にすっかり清められている。塚原はそれをスカートの下に隠してある鞘に修め、改めて宣言した。
「……やりました、ね」
「お疲れ。ほんとに、お疲れ」
 ねぎらいの声に、彼女はその場にへたり込んだ。崩れ落ちたと言ってもいいほどの勢いに慌ててさらに呼びかける。
「だ、大丈夫か?」
「気が抜けました」
 彼女は座ったまま、大真面目にそう呟いた。あまりに律儀な塚原らしい返答で、俺は思わず苦笑していた。
「抜いたっていいだろ。遍さん、勝ったんだから」
「勝った、んですね。……あっけないものなんですね。先祖たちがずっとずっと苦しめられてきた褐が、なんだか小さく見えました」
 塚原は褐の不在を確かめるように辺りを見回すと、言葉を句切って言い、頷いた。彼女にとって、こんなに安らいだ時間は生まれて初めてなのではないだろうか。
 しかし、決着が付いたというのに晴れ晴れしたとは言い難い表情。生まれつき塚守の使命を帯びていた彼女だから、褐が消え、その目的が無くなってしまうことに戸惑いがあるのかもしれない。
 そう思った矢先、塚原は突如両手で顔を覆った。
「どうした? 具合悪い?」
「いえ。……思い出して」
 大部分が隠されてしまった表情はいつもとそう変わらないが、照れに照れているらしい塚原はまるで呻くようにそれだけを言った。彼女の様子を見れば何を思い出していたのかは一目瞭然で、おおかた、彼女自身のセリフか俺が告げたことかのどちらかなのだろう。
 そう言う俺も、なんだか頬が熱い。背中を曲げようとしたら褐がつけた傷が痛みを訴えたが、構わずにまだ座り込んでいる塚原の隣に腰を下ろす。
 俺と目が合うと、塚原はわずかに微笑んだ。何を言おうとしたか察したのか、それをやや細めた瞳で制す。
「……もう少しだけ、待ってください。やることが残っています」
「やること?」
 一転、彼女は厳しい表情ですっくと立ち上がり、塚を見つめた。

「要さん――要さんと私が、静かに過ごす日々のために、もう一つ。次は、狐殿」

 塚原の憂い顔はそういうことだったのだ。俺は、頭をがつんと殴られたような思いに唇を噛んだ。『もう一人のラスボス』の存在をすっかり失念していた。確かに狐は狩ったが、それだけで終わりではなかった。
 塚原が胸を張って戦いを挑もうとする姿に、俺も立ち上がる。
 少し眉を下げ、塚原は「要さん」と俺の名を呼んだ。その彼女の右手を、俺は自分の手にできるだけ柔らかく重ねる。粉っぽい感触は嫌というほど浴びただろう砂埃。意外にも太くしっかりした造りの節々は刀を使うからだ。
 桜の時期から大分経って、今はもう、目を背けることなく彼女に向かうことができるようになった。
 満身創痍の彼女の身体は、それでも月明かりに美しく浮かび上がっていた。地面に打ち付けてうっすらと血が滲んでいた顔は汚れ、血がすっかり固まってこびりついた唇が痛々しい。袖が無くなった制服、褐の牙の跡がくっきりと刻まれた右腕。足下は裸足で、きれいな形の爪の間には砂が詰まっていた。そんなぼろぼろの塚原が、たまらなく愛おしく思える。例え化け狐の血が混じっていたとしても、学校で誰が何と言おうとも、目の前の彼女は俺の大事な人になっていた。
 塚原が、何をしたというのだ。ただ、偶然因縁ある血筋に生を受けてしまっただけじゃないか。それを誰にも言えずに――いや、言わずに、ここまでひとりきりで耐えてきたんだ。これ以上、孤独のままにさせてたまるものか。
「今日で終わりにしよう。……ふたりでさ」
 俺の言葉に、塚原は頷いた。
「それがどれだけ励みになったか、早く要さんとお話をしたいです。ちょっと昔の私は明日を見ることさえしていなかったのに、不思議ですね。……お願い。もう少しだけ、付き合ってくださいね」
 握り返された手はそのまま軽く数回振られると、彼女のほうから名残惜しそうにほどかれた。その手をもうこれ以上汚させたくはないと切実に思う。

 やがて、言葉を切った塚原から息を深く吸う音が聞こえた。すぐに、吸った分だけの大きな声が彼女から押し出される。
「いるのでしょう! 狐殿!」
「……わしを呼ぶのは、塚原か」
 若干の沈黙ののち、吹きすぎていく生温い風に乗って声が届いた。初めて聞く狐殿の声は、陰鬱さを含んだ湿度の高い音だった。まだ姿を見せない彼に対しても、塚原は堂々と受け答えをする。
「いかにも、現・塚守、塚原遍」
 夜の公園に凛として響く声が、静まりかえっている辺りの空気を奮わせ、葉桜の季節に彼女に救われたときのことを俺に思い出させる。この声にも魔を祓う力があるのだと聞かされたのはそれからすぐだったか。
 しかし、当然ながら狐殿がそれだけで退くはずもない。
「そのような大音声でなくとも、充分に聞こえておる。……久々にこうして人間と口をきくのだ。少しばかり相手をしてくれたところで罰は当たらぬぞ」
「断る」
「気の強い娘だな。……さすが、我が末裔」
 馬鹿にしたような響きに、塚原の顔がほんのわずかにだが不快感に歪んだ。一瞬だけ眉間に皺を寄せると「一緒にするな」と冷たく言い放つ。
「姿も見せずに、卑怯だとは思わないのか」
「これは失礼」
 笑いを含んだ声を残し、狐殿は気配を消す。

 塚原は狐殿のことを話すとき『荒ぶる霊』という表現を使うことがあったが、会話を聞いて判断する限りでは、彼は実に冷静で理知的な人間に思える。絶望に満ちたような底のない暗さの声にはぞっとさせられるものの、みさかいなく人を襲うという乱暴な相手ではないようだ。
 俺はほんの一時、褐とは違い、こいつとは話し合えば争いは避けられるのではないかという考えに囚われそうになった。しかし、理性がある化け物がどれほど恐ろしいかは、それこそ褐ですでに思い知っている。
 不意に襲った、胃が縮むような感覚に顔をしかめる。今の俺はやせ我慢や空元気、そして少しの意地で立っているようなものだから、正直な反応といえるだろう。目まぐるしく流れていく夜に、感情はともかく体の方がついていけていないのだ。
 そのおかげで、俺は自分が客観的に自身を分析できているのに気付いた。大丈夫。俺もまだ余裕があるんだと言い聞かせる。夜目を凝らし、周囲を見回すが、狐殿の姿はない。
 ふと塚原を見ると、鋭い視線は一点、狐殿塚(きつねどののつか)へと注がれている。さっきかすかに笑みさえ浮かべていた彼女が、もとの塚原――暗い瞳で狐狩りをしていたころに戻ってしまったのではないかと思えてしまうほどの迫力を秘めた表情。
 しかし今は、その目は未来を見ている。彼女を孤独にした異能は、明日を引き寄せるための武器となり、希望となっているのだ。

「……来た」
 彼女のことを思って少しテンションが上がっていた俺とは対照的に、つぶやいた塚原の声は実に落ち着いていた。言葉通り、土が盛られた塚を一歩一歩踏みしめてこちらへ歩んでくるヒトの足音が聞こえる。
「塚の結界が緩んだのは、お前たちの仕業か」
 暗がりの中、徐々に近づいてくる声だけを頼りに、俺と塚原は塚を凝視する。やがて浮かび上がるかのように青白い街灯の光が届く範囲に現れた誰かは、いつか日本史の教科書で見たような和装に身を包んだ男性。時代がかった装束を除けば、ごく普通の初老の男だった。声から想像できる範囲を大幅には外れていない外見に、俺は何となくほっとする。
「見ておったぞ。このような小娘に遅れをとるとは、彼の大狐も老いぼれたものよ。……今度はお前が、わざわざ私に討たれに来たか? 封の無き今、私が女一人を狩るには、月の光でも明るすぎるほどなのだぞ」
 彼は、こちらの返事も待たずに続けて尋ねてきた。
 褐が消えたことは承知しているらしい。最後の一言は冗談交じりかと思ったが、狐殿の右手は、背負った弓と矢にさり気なく触れている。彼はいたって真面目に『塚原を狩る』のだと言ったようだった。
 あの弓矢で狐を狩っていたのだろうか。もしや、彼にとっては、子孫である塚原――自らと、その妻であった狐の血が混じっているにも関わらず――までもが狩りの対象、狐なのだろうか。そう考えて、俺は思わず身震いした。一見物静かそうで紳士的な男性の中に、狂気のかけらがちらりと見えたような気がしたのだ。
 塚原は、怖じ気づくことなく「けじめをつけに来た」と静かに応える。狐殿の侮蔑の眼差しが塚原を射た。どこか張りつめている塚原に対し、冷ややかな笑いを浮かべる狐殿には余裕がある。
「男のために、か。澄ました顔で殊勝なことを。それにしても似ておるな、我が仇敵の雌狐に。その面(つら)には昔、さんざん騙されたぞ。……まさかやり返せる日が来るとは思わなんだ」
「違う、男のためなんかじゃない! 俺は、ただのきっかけだ」
 知らず、声が出ていた。それを聞きつけた狐殿が、皮肉気な笑みのままで俺に向き直る。細めた瞳は紛れもなく人間のそれなのに、目が合った俺は、何故か褐とにらみ合ったときよりも嫌な感じを受けた。
 さっきの感触が再び降りてきて横目で見ると、塚原が隣で俺の手を握っていた。厳しい表情は崩さぬままだが、指はあくまで優しく触れている。
 いつだろう、俺に謝ってばかりだった塚原が顔を上げたのは。挫けそうになっても、何度も立ち上がっては道を切り開いて突き進み始めたのは。
 その先にあるのは、二人のただ一つの望み――高校生らしい日常を取り戻すことだ。
 未だに怖くて声が震えてしまうような弱い俺を、彼女は必要としてくれている。その思いがあるのなら、俺もまだ立ち向かっていける。
「遍さんは、あんたのせいで決められた道筋を、自分自身で変えたいと思ったから戦ってるんだ! ……それなのに当のあんたは、まだ自分の奥さんがどうとか言ってるのかよ! ここに、今も生きて、苦しんでる子がいるってのに!」
「小僧。……狐というのは実に上手く化ける。女にも、妻にも、母にもな。幸せなのは、騙されているのに気付かぬうちだけだ。そこな塚原の娘も、我が妻のように裏切るぞ?」
 狐殿は相変わらずの態度で言い返してきた。

 元はといえば、彼の狐狩りが全ての元凶。
 しかし、彼の子は初代の塚守、つまり狐殿の奥方の子でもあるのだ。狐殿に嫁ぎ、愛してしまったばかりに仲間の狐たちの不信を招き、結局は血を分けた子を失うこととなった奥方は塚原となり、彼を押さえ込む側に回った。『倒す』のではなく、『封じ手』に。塚に縛り付けることになったとしても、消滅させることはしなかった。そこには彼女の想いが現れているのではないのか。それは、たとえ間接的に我が子の命を奪い、怨霊に成り果てたとはいえ、やはり自分が愛していた男に向かって剣を振るうことができなかったからではないのだろうか。
 なのに狐殿は、そのすべてが裏切りだというのだろうか。

「あんたはどうして、自分の奥さんを信じられなかったんだ? 狐だろうがそうでなかろうが、好きだったんだろう? ……俺はあんたとは違うんだ。遍さんを信じ抜く。遍さんが裏切るはずない!」
「……気に入らぬな!」
 突然、荒々しく変わった狐殿の声。
「――っ」
 俺が目を見開く余裕すらもなく肩に焼けるような痛みが走り、繋いでいた手から塚原の温もりがするりと遠ざかる。痛いよりは、熱い――あまりに強い衝撃に声も出ず、俺は仰向けに倒れ込み、腰を地面にしたたかに打ちつけた。その振動が肩と、引きつる背中の傷に響く。
「耳障りだ。黙れ」
「要さんっ!」
 塚原が駆け寄って俺の身体を支える。頭の角度が変わり、俺の視界に入ってきたのは、右肩に突き立った矢だった。狐殿に撃たれたのだ。
「ごめんなさい、抜きますよ!」
 塚原は自分が痛みに耐えるような顔をしながら、俺の肩から生えた矢に手をかけると手早く引き抜いた。俺は激痛に叫びそうになるのを堪え、出血を止めようと矢傷のあたりを押さえつける。鼓動に合わせて流れ出る血でその手は温かく濡れ、やがてすうっと冷たくなっていく。
 すぐ横で布の擦れる音がしたかと思うと、塚原は抜き取った制服のタイで俺の肩の傷を手際よく止血していく。そういえば初めて彼女と会話らしい会話をしたときも、怪我の手当てをしてもらったのだと思い出した。
「痛いですか?」
「うん、でも我慢できる程度」
「嘘つきですね」
 塚原はやや眉を曇らせたが、俺が意外にも元気そうで安心したのか、すぐに普通の顔つきへと戻る。
「血止めはしたから、じきに止まると思います。あとは私に任せて、ゆっくり休んでいてください」
 彼女は俺の前――俺を庇うような位置に立つと、狐殿と対峙した。見上げる俺の視界に入る塚原の腕は、金狐の被毛で覆われている。決着をつけるため、また姿を変えていたのだ。おそらくは、狐殿が最も嫌う獣に。
「ずいぶんと大きな雌狐だな。狩り甲斐がある――」
「要さんが羨ましいのでしょう?」
「何?」
「あなたは今に至っても、初代を信じられないのでしょう。初代はあなたのために――自分の思いのために子孫を巻き込んでまで、あなたを塚の中に封じて護ろうとしたというのに」
 噛み合わない会話に、狐殿が初めて動揺を見せた。彼は怪訝そうな表情で聞き返すが、塚原はそれが無かったかのように続ける。
「その身勝手のせいで私たち塚原はずいぶん苦しんできたけれど、その気持ち、今の私には少しだけ分かる。あなたには分からないの? ……私はもう、あなたを恨んではいない――かわいそうな人だとは思うけれど。でも、あなたは私に繋がる人を害した。私は初代のように優しくはないんだ。……要さんを傷つけたあなたを、絶対に許さない!」
 語調はいくぶん荒くなってはいるが、顔を見る限り、塚原はいたってクールだ。反対に、狐殿はわずかにだがペースを乱しているように見えた。一瞬でも狐殿が揺らいだのだとしたら、塚原の攻撃は成功かもしれない。
 彼はしばらく考え事をしていたかと思うと、眉間に皺を寄せたままニヤリと笑った。
「……今更そのようなことを考えたところで、どうにもならん。私の矢は、ただ狐たちを射るだけに飛ぶものぞ」
 そう言うと、狐殿は俺を貫いたのと同じ弓に矢をつがえ、塚原へと向けた。
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