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10 幕引きと眠り

 弓を引き絞る狐殿に対し、塚原は身構えただけだった。
 空気を裂く音と、俺が彼女を押し倒したのと、どちらが早かっただろうか。
 どさっという音と砂埃とともに、俺と塚原は地面に倒れ込んだ。それでも矢の疾さに到底かなうわけなどなく、塚原の左肩には新たな傷が増え、赤い色が滲んでいた。
「どうして避けないんだよ!」
「ごめんなさい。……どれほど痛いものか、一度受けてみようと思って」
 俺の下で塚原はかすかに笑うと、すぐに立ち上がった。
 見据えた先には、次の矢をつがえる狐殿の姿があった。闇の中に浮かぶ姿は、日本史の資料集にあるような絵巻物から抜け出してきたかのようだ。この凛々しい男が瞳に狂気を宿しているなどとは、誰も思わないだろう。
 塚原が、狐殿へと話しかける。
「あなたの痛みはこんなものなの」
「何だと?」
 狐殿の手が止まったように見えた。本人は気付いているのかいないのか、狐殿は先ほどから塚原のペースに明らかに乗せられているが、それが本気なのか演技なのかは俺には判断できない。
「こんな矢じゃ、私は仕留められない――」
 言い終えるころには、塚原はすでに飛び出していた。相変わらずのスピードで跳び、狐殿の間合いへと踏み出す塚原。狐殿の矢がそれを追うように放たれていく。中の一、二本が確実に塚原を捉えていたが、塚原は苦痛を漏らすこともなく、矢が突き立ったままでなおも前進していった。
「おのれ!」
 狐殿が舌打ちでもしそうな声色で叫んだ。その間に、彼女はついに狐殿に手が届く距離まで近づく。
 次に俺の目に入ったのは、矢をつがえようと手に取った狐殿が、頬をゆがめて吹っ飛んで行く様子だった。彼が手にしていた弓は地面を滑っていく。一瞬のうちに、塚原は金に輝く右手で狐殿の首元を押さえつけ、組み伏せていた。
 と、その隙を狙い、狐殿が矢を塚原の左肩に突き刺す。塚原に殴り倒される前に握っていた、最後の一本だ。
「雌狐め、油断したな!」
「遍さん!」
 狐殿と俺の声が交錯する。塚原は一度大きく左肩を震わせたが、うめき声一つ漏らすことなく、その左の拳を狐殿の腹に食い込ませた。それきり二人は動かず、夜の公園はまるで時間が止まったようだった。
 そろそろと二人に近づいた俺に、塚原に語りかける、狐殿の囁くような声が聞こえた。その息は苦しげで、時々ヒュウヒュウと空気の漏れる音が混じる。俺は恐る恐る塚原の手元を確認して、彼女の繰り出した一撃が確実に狐殿の喉にダメージを与えたこと、そしてどうやら形勢がこれまでとは逆転したらしいことを知った。
「……なぜ、一息にやってしまわぬ?」
「手加減したのね?」
 相変わらず右手を狐殿の首に添えたまま、塚原は逆に問いかけた。塚原の脇腹と左の腿、左肩には狐殿が放った矢が刺さったままで、俺は思わず目を背ける。
「狩りの名手がどうしてこんな無様な外し方を? 全部、急所を外れてる。傷も要さんに比べたら浅い」
 痛みからか、別の感情の高ぶりからか、彼女の言葉は震えていた。
 あれだけの距離で、俺の肩を間違いなく射抜いた狐殿が、塚原の急所をすべて外したというのか。腕を狂わせるような理由といえばついさっきの会話くらいしか思いつかないが、この冷徹な男に本当に迷いが生じるのだろうか。我ながらあまりにありきたりだと思いながらも、俺は聞かずにはいられなかった。
「それが本当なら、奥さんや子供のことでも、思い出したのか」
「馬鹿め」
 案の定、狐殿はそう言って鼻で笑った。
「そんなことで手元が狂うなど」
 言葉には皮肉気な色が感じられる。しかし、夜空を仰ぐ狐殿の表情は静かで、漲っていた殺気や狂気はすっかり消えていた。真実はどうあれ、彼からはこれ以上のことを引き出すのはきっと無理なのだろうと俺は思った。
 塚原も納得がいかないようだったが、狐殿に真面目に答える気がないと分かったのか、仕切り直すかのように冷静に語りかける。
「いくらあなたに力があっても、これだけの傷では回復に時間がかかるでしょう? 首が飛びかけているのだから。……このまま、これまでのように封じてしまうこともできる」
「迷う必要はあるまい? ……ここで私が破れても、塚原は、いずれ自滅するだろうよ。互いを疑い合い、苦しみ抜いた末に、な。それを、想像するのも、悪くない」
 息の音をさせながら、狐殿はとぎれとぎれに何とか答えた。言葉に混じるノイズは前よりも増している。今や、この場の勝者は完全に塚原――塚原自体にはあまり変化がないのに比べ、狐殿がまるで憑き物でも落ちたかのように穏やかになったというのが正しいだろうか。
 狐殿の考えは正しくない――それは、『塚原』ではない俺にだってわかる。この数百年を顧みれば、相手が化け物混じりであり、闘う運命にある身だと知ってもなお塚原と共にあろうとする人間が絶えずいたからこそ、今の『塚原』があるのだから。
 狐殿は一体何が言いたいのか。俺がぼんやりと考えかけていたことを、塚原が明確にしてくれた。
「それは、私と要さんのこと? それとも、あなた自身のこと?」
「さて」
 追求を、狐殿は軽く受け流した。塚原がやや語気を強める。
「逃げるの」
「狐の望む言葉を自ら言うほど愚かではないぞ。……おや、獣が涙を流すか」
「あなたのことを思って泣いているわけじゃない」
 狐殿の言葉に、俺は逸らしていた視線を彼女に戻す。塚原は悲しげな顔をするでもなく、怒るでもなく、ただ涙を流していた。
 初代、塚原、狩られた狐たち、自分自身。狐殿に苦しめられてきた『遍くもの』の代わりに泣いているのだろうか。俺が知っている塚原の優しさの一端からすれば、もしかしたら言葉とは裏腹に、彼女は目の前の敵をも哀れんでいるかもしれなかった。
 塚原は濡れた頬も気にせずに自らの身を前に乗り出した。狐殿の首に押し当てた手に、じわりじわりと力が込められる。
「……何か言いたいことは?」
「死ぬまで獣であれば幸せだったろうに」
 それが、狐殿の終わりの言葉となった。言い終えると、狐殿は笑みを浮かべたまま、喉を差し出すように首を逸らした。
 塚原が俺に向かってちらりと目くばせしてみせたので、褐のときのことを思い出し、俺は目を閉じて待った。
 次に目を開けたときには狐殿の姿も塚原に突き立っていた矢も消え失せていた。ただ、主を失った『狐殿塚』の前で涙を流し続ける塚原の金の毛並みだけが、静かに輝いていた。


「……俺には分からなかった」
 二人きりになった公園のベンチで、塚原にそう漏らした。
 俺は確かに、狐殿からある種の諦めのようなものを感じ取ったはずだった。しかし、狐殿の口から語られたのは塚原家の滅亡を願う言葉と、塚原――『塚原遍』に対し、獣であれば良かったのにという呪い。
「結局、狐殿は祟りたかったのか、それとも遍さんを生かしたかったのか」
「私にも分かりませんよ」
 塚原は落ち着き払った表情――少し前までは絶対に他人には見せなかっただろう穏やかさに満ちている――で微笑んだ。俯いて考え込むと、やがて何かを思いついたように顔を上げる。
「最期の一言は私に向けてではなくて、初代に向けた言葉だったと思います。もしかしたら、誰かが初代のもとへ導いてくれるのを、ずっと待っていたのかも」
「死に場所を探してた?」
「そうでなければ、狐殿と初代の絆を思い起こさせてくれる誰かを。……それが初代の狙いだった、のかもしれないですよね」
 塚原が浅く頷く。
 狐殿は、その存在の最期に奥方――塚原が『初代』と呼ぶ狐の化身へ寄せた心を取り戻し、死を選んだ。それは一方で、夫に死を与えることができなかった初代が望んだことだった。
 それではまるで『塚原』は二人のための道具に過ぎなかったように感じられてしまう。『塚原』は初代と狐殿が一緒になるためだけに、長い長い間、数百年にも渡って闘わされてきただけなのかもしれない。狐殿のために奥方が仕掛けた壮大な罠が、今やっと断ち切られた――そういうことだったのだろうか。
 ぞっとした。
 外から見ていただけの俺が言うのは憚られるから黙っていようとは思ったが、溜め置けなかったわだかまりがつい口をついて出てしまった。
「何だか、すっきりしないな」
「私たちも狐殿も、そして初代も、復讐なんてもうとうの昔にどうでもよくなっていたんでしょうか」
 塚原も同感なのか、ちょっとだけ寂しそうにため息を吐く。そして、ぽつりぽつりと自分の考えを話し始めた。
「初代の思惑は置いておくとしても、です。……狐殿が本気で撃ったのは、たぶん、要さんへの一発だけだった。要さんが塚原のせいでひどい目に遭っているというのに態度を変えないのを見て、狐殿も何かしら考えて、隙ができた。結果として、意識したかどうかは分かりませんが、私には手加減したのだと、そう考えるのが自然なんです。……今話したことを思いついたのも根拠なんてなくて、何となく、ですが」
 不意に言葉が途切れた。おや、と思って見れば、塚原は頬をほんのり赤く染めて遠慮がちにこちらの様子を窺っていた。
「私が自信を持って言えることは――私が奮い立つことができたのは、あなたがいてくれたから。それだけです」
「いや、俺、そんな大層なことは」
 ある意味不意打ちを食らった俺は大いに焦り、わざとらしいアクションでしどろもどろになりながら否定する。
 思えば俺だって、先ほどまでの闘いの中で、もっと照れくさい台詞を大量に吐いていたはずだ。それが、今になって面と向かって言われるといやにくすぐったい。彼女と俺とでは、腹の据わり具合が違うのだろうか。
「いいえ。……要さんと出会えたから、終わらせることができた。本当に、ありがとう」
 塚原は深々と頭を下げたかと思うと、そのまま俺の肩へと体を預けてきた。痛まない左腕で、俺はそっと塚原を支える。温もりがとてもいとおしい。
 塚原が、「あ」と声を上げた。
「要さんの傷、早く、お医者さんに――」
 俺よりもそっちの方がと言い返す前に、彼女の体から力が抜けた。ベンチからずり落ちそうになる塚原を慌てて抱きとめると、ゆっくりとした呼吸が耳に入る。
 疲労からか安堵からかは分からないが、塚原はまるで気を失うように眠りに落ちていた。それは、ごく普通の、しかしとても幸せそうな寝顔に見えた。
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