みどりのしずく

初仕事【1】

「ここ、だよね」
 煉瓦造りの建物の古びたドアの前。手元のメモは雨でかすれ気味になってしまったものの、記された住所は間違いなくここだと読みとれる。
 生まれて初めての長旅、加えて天気は雨具が役に立たないほどの土砂降り。朝のうち見えていた青空は、目的地に近づくにつれて黒い雲に食べられていった。
 雨の日は、古傷が少し痛む。ラグ――ライグ=ストロンドは、無意識に左手を抱えていた。疲れ切った身体を奮い立たせてもう一度荷物を持ち上げ、ラグは大きく深呼吸すると静かにノブに手を伸ばした。
「こんにちは、すいません」
 中に入り、ドアを後ろ手に閉めると、バタンと重い音がして雨音がすうっと遠のいた。
「どなたか、いらっしゃいませんか?」
 静まりかえった広い部屋の中に、挨拶に応える者はない。ただ、ずぶ濡れになってしまった髪の毛や服から落ちる水滴の音だけが響く。
 机や椅子など普通の家具とともに、作業用の大きな台や工具が設置されている。ラグは物を動かさないように気を付けて薄暗い店内を一回りしてみたが、やはり人の気配はない。
「……お留守、かな」
 今日から世話になることは連絡済みのはずだが。
 それならば、鍵が開いてたとはいえ人のいない店内にいるのはまずいだろう。
 ――ともかく一度、外に出よう。
 ラグは、今入ってきたドアの方にくるりと方向転換した。
「わっ」
 思わず声を上げたのは、振り返った目の前に何かがあったからだ。視界を遮ったのは人間のようだった。背の高い女性が、ラグを不思議そうに見ながら首を傾げていた。
「あら、お客さまでしたの? お出迎えが遅くなって申し訳ありません。……可愛いお客さま、フィスタに何かご用かしら?」
 先生――フィスタ先生の名を挙げるということは、この工房の関係者なのだろう。
「お店の方ですよね。良かった」
 ラグがそう言うと、女性は微笑んで頷いた。息を呑むほどの美しさ、しかもとても優雅な仕草だった。彼女の動きに合わせ、銀色の長い髪がさらりと音を立てて控えめに輝く。
「あの、私、ライグ=ストロンドといいます。今日からお世話になることになっていたのですが」
 すると女性は目を細め、何度も頷いた。
「ああ……。フィスタのお弟子さんよね?」
 そして、ラグに椅子を勧めると「ちょっと待っていてね」と言い残し、部屋の奥のほうへと消えた。

 ラグが初めて見る『機工師』の仕事場は、珍しいものばかりだった。壁には作りつけの本棚が並び、ぎっしりと本が詰まっていた。作業台の上には作りかけの人形や工具の類、そして、開きっぱなしの魔法書が乗っている。ラグが手に取ったこともない、いかにも難解そうな分厚い本だった。
 魔法についての記述なら、少しは読める自信がある。
 ――どんなこと、書いてあるんだろう。
 本のページを捲ろうと、机に近づいてそろそろと手を伸ばす――。

 突如誰かの腕が伸びてきて、ラグの右手を捉えた。
「痛っ」
「おい。お前、誰だ」
 手首を締め付けられる感覚と太い声に、そっと振り向いた。腕を掴まれたまま少し顔を上げると、明るい金色に輝く髪が目に入る。そして、深い紺青の瞳から注がれる鋭い視線。
「お、お店の人ですか?」
「ああ」
 青年はとても不機嫌そうに答えた。
「あの――私、今日から住み込みで弟子入り――」
「本当か?」
「は、はいっ」
「あ、そう」
 すると、青年はあっさりとラグの腕を解放してくれた。掴まれていた部分にはうっすらと指の跡が残っていた。
 彼は頭に巻いていた布を外すと、濡れた髪を掻き上げながら言った。
「悪かったな。弟子二号だったか」
「に、二号?」
「あ、俺は弟子一号ね。アルノルート、ルーとでも呼んで」
 ぱたぱた、としたたり落ちる滴。彼もラグ同様、突然の雨に襲われたのだろう。
「あ、あの、私、ライグと申します」
「先生も留守番役も見えなくて、見知らぬ奴がいたんで泥棒かと思った」
 そう言う彼の不機嫌の塊は、さきほどよりいくぶん小さくなったようだ。
「はあ……すいません」
 ――なんで私が謝ってるんだろう。
 先輩がいるとは聞いてはいたが、出会いとしてはあまりいい形ではない。しかし、元はと言えば自分が勝手にうろうろしていたのが悪かった――のだろうか。単に彼が喧嘩っ早いだけのようにも思えて、なにか納得いかない。
 気を取り直して、ラグはルーに確認した。
「先生はお留守なんですね?」
「あー、きっと買い出しだろ。ま、そのうち帰ってくるだろうからその辺でくつろいで待ってな」
 ルーはそう言って、椅子に座るよう促す。よく見ると、怒っていなくてもかなりの角度でつり上がった目である。視線が鋭いのは怒りの表れではなく、生来のものなのかもしれない。でも、怖い顔には違いない――ラグはそんな言葉を飲み込む。
「じゃ、お言葉に甘えて。……失礼します」
 とは言ったものの、ずぶ濡れの服で座るのは憚られる。訝しげなルーを前に、ラグが立ちっぱなしでおろおろしていると、部屋の奥からさっきの女性が現れた。
「あ、エス」
 エスと呼ばれた女性は、お茶の用意が載ったワゴンを押してきた。笑顔で青年に応える様子は、やはりとびきり美しい。
「お帰りなさい、ルーさん」
 とたんに弟子二号は笑顔になった。蒼い瞳が優しく光り、意外に端整な顔立ちが引き立って好青年風だ。
 ――この人、態度が露骨すぎる。
 エスと接する様子は、ラグの手を締め上げた時とは雲泥の差で、少し腹が立つ。
 エスは、ラグとルーにワゴンのハンドルに引っ掛けてあったタオルを差し出した。
「お二人とも、そんなに濡れて、冷えてしまったのではないの? ……はい、ルーさんも」
「悪ぃ」
「ありがとうございます」
「私、ここのお手伝いをしているエスと申します。すぐに、お茶を淹れますからね」
 お茶を飲んで一息つくと、ルーが思い出したように言った。
「エス、先生は?」
「お仕事のようですよ。何か、依頼があったとかで」
 自身で聞いたわりに、ルーは興味なさそうに「ふーん」とだけ答えた。ラグが後を受ける。
「いつ頃戻られますか?」
「ううん。……だいぶ前に出ていったから、そろそろかしら」
 そう言いながら、エスはティーセットを片付ける。
「あの、お戻りになるまでここで待たせてもらってもいいですか?」
「どうせ、今日からなんだろ、住み込みっていう約束は。構わねえんじゃねえの?」
 エスに聞いたつもりだったが、それより早く不機嫌青年が答えた。
「あなたのお部屋の準備もできていますし、ゆっくり休んでくださいね。身体も、乾かさないと」
「あ、ありがとうございます!」
 この豪雨の中、今から宿に帰って出直す、という気力はもう残っていない。ラグにとっては本当にありがたい話だった。
「フィス、こんなひどい雨なのによくお出かけする気になりましたね」
「仕事だけが目当てじゃなくて、多分どっかに寄り道してんだろ。あの美人のお姉さまの店とかさ」
 ルーはそう言って、にやにやと含み笑いを浮かべた。エスが微笑みながら「そうかもしれませんね」と相槌を打つ。
「お姉さま?」
 ラグにはさっぱり話が掴めない。
 ちょうどそのとき、ざあっという雨の音がひときわ大きく聞こえてきた。店の入り口のドアが開いたのだ。