みどりのしずく
初仕事【2】
「帰りましたよ。……いやー、まったくすごい雨ですねえ」
やや甲高い男の声が、工房の中に響き渡った。ラグがぎょっとして振り返ると、玄関先には重そうな荷物を背負ったひょろ長い人影があった。
「服を着たまま泳いだって、こんなにはなりませんよ」
「あらあら。フィスも、ずいぶん濡れてしまったのね?」
これで、雨に打たれた人は三人目である。エスが、タオルを渡しに人影に近づいた。
「あー、ありがとうございます。おや、ルーも似たようなものですね」
「お帰り、先生。ほんと、俺も先生もひでえナリだな」
このやたらとのどかな人が、店主――フィスタ先生、らしい。
――あれ? この顔、どこかで見たような?
ラグは、思わずフィスタの顔を凝視した。
「弟子二号が来てるぜ。……って、どうしたんだお前?」
「どうしたんです、ルー? 人の顔を見て笑うなんて、失礼ですよ」
新弟子の紹介をうち切り、ラグの顔を見て吹き出したルーをフィスタがたしなめる。
「こいつ、反応があまりに俺に似てるから、つい」
その言葉に、フィスタとエスもラグの顔を見る。ラグはと言えば、フィスタの顔を見たまま固まっていた。
フィスタとエス、二人はうり二つだった。声と髪型、服装のおかげで辛うじて見分けがつく。同じ顔が二つ並んでいるのを眺め、ラグは心の中でこっそり確認する。
――今入ってきたのが先生で、タオルを持ってる方がエスだったような、気がするけど。だんだん自信が無くなってきたよ。
エスが心配そうに、黙ったままのラグに尋ねた。
「どうかされまして?」
「いえ、あの――お二人、どっちがどっちだか」
「先生とエスが同じ顔してるから、驚いてるってさ」
「あら、そういうことでしたの?」
目を丸くしたエスが、きょとんとして言う。まるで今初めて知った、という口振りである。
「だって、兄妹ですものね」
「き、兄妹?」
兄妹でこんなに似ることはあるのだろうかと、ラグは考え込む。男女の双子は通常あまり似ないはず。だとすれば、実は先生が女の人であるとか、エスが男の人であるとか。
――ありえない。
ラグがあれこれ悩んでいると、ルーが代弁してくれた。
「似すぎてるよな。……あまり深く考えない方がいいぞ」
「あ、はい。そうですね」
「エスは、もう少し似ているのだと自覚した方がいいかもしれませんよ。……さて、ストロンドさん」
先生はラグとエスの様子を見比べて苦笑したのち、ラグへと向き直った。
まだ立ち直りきっていなかったラグの自己紹介――今日三度目だ――は、最も気の抜けたものとなった。
「は――はい。ライグ=ストロンド、『ラグ』で結構です。みんなそう呼びますから」
「私が、店主のフィスタ=リューズです。今日から、あなたの先生になります。どうぞよろしく、ラグ。……できる限り、力になりますからね」
フィスタはそう言って微笑んだ。この上なく優しく、柔らかな表情はラグの心を捉えて離さなかった。さきほどエスに微笑まれたときにも見とれてしまったが、こちらもまた人を惹きつける雰囲気が色濃くにじみ出ていた。
それにしてもこの美人兄妹はやっぱり似すぎている、とラグは改めて見比べる。
「先生、逆だよ逆。よろしくするのはこっち――ラグだろ。俺たちはよろしくされる側」
ルーが呆れたようにラグを指さした。弟子一号は割としっかり者――というよりは、美人兄妹へのツッコミ担当の感がある。何となく、逆にフィスタからは天然な香りが漂っている。
「まあ、細かいことはいいんですよ。……ルー。ラグの荷物、お部屋に運んであげてくれませんか」
「はいはい。……じゃ、ついてきな」
ラグに宛われた部屋は一階の奥とのことだった。建物は思っていたよりもかなり広いらしく、工房となっていた部屋を出ると、不自然にドアがたくさん並んだ廊下が現れた。
「部屋がいっぱいあるんですね」
「この建物、むかしは宿屋だったらしいぜ。支給された金で改装したそうだ」
「あ、それでですか」
だとすれば、玄関先の工房として使っている部屋は、もともと宿屋のロビーか食堂か何かだったのだろう。道理でゆったりとした造りのはずだ。
「この国は機工師に甘いからな。王家の援助だろう」
投げやりな口調に驚いてルーを見ると、不機嫌が復活している。何がきっかけになっているのか、ラグにはよく分からなかった。
「はあ」
「ま、俺もお前もそのおかげでここにいられるんだろうけどよ」
「ルーさんも、いずれ独立するんですか?」
「……俺のことは、『ルー』でいい」
なぜか明らかに機嫌を損ねた様子で、ルーはそれっきり黙ってしまった。難しいひとだなあ、とラグはため息を吐いた。
しばらく無言で歩いた後、一階の一番奥の部屋の前まで来て、ルーはやっと口を開いた。
「お前の部屋はここだ。隣が俺の部屋だから、何かあったら呼びな」
「あ、はいっ。案内、どうもありがとうございます」
「ああ。……悪ぃな、今日はどうも不機嫌で」
さきほどの刺々しさは消えていて、ラグはほっとした。
「さっきの話だけど。本当は、いつかは自分の店を持ちてえよ。……それまでは俺もお前も修行の身だ。お前よりは多少年上だろうが、呼び捨てで構わねえからな」
ルーはドアの前に荷物を置き、初めてラグに向かって笑いかけた。
「あ――ありがとうございます、ルーさん。……じゃなくて、ルー」
「ああ」
はにかんだように表情を崩しただけだったが、エスやフィスタに見劣りしない美しさに不意を付かれ、ラグはなんとなく照れた。一方のルーはそんなことにはまったく気付いていないようで、「とっとと着替えろ。歓迎会だぞ」と言うと、工房の方へと戻っていった。