みどりのしずく
初仕事【4】
「明日は、ラグと一緒に魔法陣の方を中心に考えましょう。人形づくりの細々した準備はルーに任せます。……二人とも、今日はもうお休みなさい」
フィスタは、そう言うと小さな欠伸をした。
作業はとても一日で終わるものではなかった。ラグは魔法陣の解除方法を考えるために、一日中魔法書と亜人の子の背中とを睨み付けていた。同時進行でルーとフィスタが人形製作のための採寸、それが終わると設計や不足している部品の仕入れの打ち合わせ。結構な厚さになったお使いの一覧――なにせ、材料は人一人分の分量だ――をまとめると、ルーがそれぞれの店に調達に出かけた。
その間に、エスが少年を着替えさせる。エスはフィスタに頼まれて、少年の服を買いに行っていたのだそうだ。もともとの重々しい衣装から子供らしい軽装に衣替えした少年は、心なしか生き生きとして見えた。
にわかに活気づいた工房を目の当たりにして、ラグは言いようのない充実感を味わっていた。
その日の深夜。
ラグは自室で机に向かっていたが、魔法書に何枚かの栞を挟み、そっと閉じた。
見習いであるラグの見立てなので信憑性は薄れるが、魔力を封じる他にも生命力を蝕むもの、発声を禁じるためのものなど、数々の魔法陣。明日、目星をつけたいくつかの陣と、彼の背中に書かれたものが同じかどうかフィスタに確かめてもらわなくてはならない。
それにしても、奨学生の選考を切り抜けたとはいえ、やはり独学に近い。自分の知識と魔法書との違い、知らない呪文や陣形に混乱しながら、たったこれだけを調べるのに一体どれくらい時間をかけたのか。きっとフィスタなら、いや弟子のルーでさえもこんな調べ物の一つや二つ、さっさと済ませてしまうに違いない。
考えれば考えるほど、楽しみだった明日からの仕事が肩に重くのし掛かってくる。ラグは大きくため息を吐いた。
ため息の理由は他にもあった。ラグの中で、つい先日まで一緒に暮らしていた孤児院の子供達と、亜人の少年の顔が重なった。彼にこれほどたくさんの陣を掛ける必要がどこにあるというのだろう。
どんな理由があったとしても子供をこんな目に遭わせたままにはしておけない。生きている証のほとんどを取り上げられた少年は、ただ眠り続けているだけ。
――なんて心ない、どす黒い魔法。
何かに集中していないと、思い出してしまう。目頭が熱くなるのをなんとか抑え、仕事に一区切りつけたらこの時間だったのだ。
「……そうだ」
――あの子、まだ作業台に乗ったままかもしれない。先生やルーが気を利かせてくれていればいいんだけど――。
ラグは慌てて部屋を出ると、工房に向かった。
「あれ、エス」
作業台の脇にはエスが立っていた。真っ暗だと思った工房の中は、その周りのみが仄かに明るい。ラグが明かりを付けようと辺りを見回すと、エスが「あ、私が」と手元のランプを明るくする。照らし出された台の上には、思った通り少年が横たわったままだ。
エスは、ゆっくりと自分の頬に手を当てると尋ねた。
「どうされたのですか?」
作業台の上を気にしながら、ラグは答える。
「その子、ベッドで寝かせてあげたいなって。作業台じゃ、ひどすぎると思ったから」
「……実は、私もいっしょです」
エスがちょっとだけ舌を出した。少年には、肩まできっちりと毛布が掛けられてあった。エスが持ってきたものらしい。
「フィスもルーさんも、仕事となると他のことが見えなくなってしまいますもの。それで、私が様子を見に」
「そうみたい、ですね」
二人の仕事ぶりは、突っ走るだけ突っ走って疲れたら眠り、起きたら仕事。その繰り返し―――そんな雰囲気だった。いわゆる『雑用』を受け持ってくれるエスの後援がなければ大変なことになるだろう。そう言う意味では、実質この工房を動かしているのは彼女かもしれない。
「エスは、聞いたの? この子のこと」
彼が人形ではないことを、という内容をぼかして質問してみると、エスは「ええ」と言って肩を落とした。
「誰かが自由を奪ったようだ、と聞きました。……お気の毒なことですわね」
エスも、それ以上のことは聞いていないとのことだった。細かな事情を知っているのは、フィスタ先生だけのようだ。
「私、今晩はこの子と一緒に寝ていいですか?せっかく毛布を持ってきてくれたみたいなんだけど……」
「いいえ。きっと、彼も喜びます。ぜひそうして差し上げて?」
ラグは、少年を抱き上げた。
両手にかかる確かな重み。肌の弾力。鮮やかな色の髪。しかし、それらには命の息吹は感じられない。もし、私たちが魔法陣を解くことができなければ、彼はずっと物言わぬまま――このままだ。そのプレッシャーが、ラグの心を締め付ける。
「……この子、ちゃんと起きてくれるかな」
「不安ですの?」
「魔法はほとんど独学だからよく分からないし、初めてのお仕事だし。私、自信がないんです」
エスは作業台を手近にあった布で拭きながら聞いていたが、やがてその手を止めた。
「どうしても、この子を助けたいと思ってるんです。でも、考えれば考えるほど……新入りの私が足を引っ張って、仕事が上手くいかなかったらどうしようって、すごく怖い」
機工師の仕事が厳しいものであるというのは、十分分かっていたつもりだった。魔法や機械の修行はもちろんのこと、時には仕事の結果が依頼者の人生すら左右するということも厳しさのひとつだと知っていた。でも、いざとなると目の前の出来事に怯えている自分がいる。
しばらくして、エスが口を開いた。
「フィスのお仕事は、訳ありのものが多いんですの。揉め事が絡んでいたり、難しい依頼だったり。……あまり詳しく話さないところを見ると、今回もきっと事情があるんですわ。でも、『助けたい』という気持ちはフィスもラグさんも同じはずです」
「……そういえば先生、すごく怒ってた」
ラグは、昨日の師匠の様子を思い出していた。
あのときはただ戸惑ってしまっただけだったが、突然浮かんだ怒りの表情と、強く噛みしめられた歯には一体どんな気持ちが込められていたのだろう。
エスは目を閉じて頷くと、ラグに言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「フィスは優しいから、心に響く何かがあれば、利益も後のことも考えないで受けてきてしまうんですの。……他の機工師がやりたがらないようなことばかり。でも、上手く運ばなかったことはありませんから」
繰り返してみる。
「……心に響く」
スッと、白銀の影が近づいたかと思うと、肩に心地よい重みを感じた。エスの柔らかい手が、励ますようにラグの肩を叩いたのだった。
「まだどうするつもりなのかは分かりませんけれど、フィスタならこの子にとって最善の道を選んでくれますわ。だから、頑張ってください。……フィスを信じて」
彼女は同じように、少年の頭にも優しく触れた。
「大丈夫ですから、ね。ラグさん、自分も信じてあげて」
エスはランプの明かりを絞ると「あしたもお忙しいのでしょう? 早くお休みなさい」と言って工房を出ていった。
一人になったラグは、しばし工房に佇んでいた。
『上手く運ばなかったことはありませんから』という言葉から、エスの兄に対する信頼の厚さが伝わってきた。ラグが知らないたくさんの出来事を、兄妹二人は切り抜けてきたのだろう。
遠い昔、優しいということは人の痛みも自分のことのように感じてしまうということでもあると、誰かから聞いたことがあった。それを乗り越えるから、優しい人は強いんだ、とも。それは、ラグにはまだない強さ――今、いちばん欲しい力だ。
「……この子を助けたら、私も少しは強くなれるかな?」
エスの後ろ姿を見送ったラグは、やがて少年を抱いて部屋に戻った。
ベッドにそっと少年を寝かせ、ラグもその隣に滑り込んで横を向く。間近で見る彼は、ごく普通の少年のようにあどけない寝顔をしていた。ラグは、泣きそうになるのをぐっと堪える。
「……信じよう。信じて、頑張ろう」
――みんなで、ぜったいにあなたを助けてあげる。
エスが触れた肩が、ほんのり温もっているような気がした。不思議と、さっきまでの心細さはどこかへ消えてしまっていた。