みどりのしずく

初仕事【5】

「ラグ! さっさと起きやがれ」
 次の日の朝、ラグは乱暴なノックの音で目覚めた。ドアの外からは、まるで借金の取り立てのような兄弟子の怒鳴り声が響いている。モーニングコールとしては最悪だ、とぼうっとした頭で考えた。
 意識がもうろうとしながらも眠い目をうっすら開くと、隣に横たわる人形少年の顔が視界に飛び込んできた。昨晩のことを思い返し、ラグは飛び起きた。
「そうだ。頑張るんだったっけ」

 自室の鍵を開けた途端に、ルーが部屋へとなだれ込んできた。
「うわっ」
「おはようございます」
 攻撃をかわしたラグは、とりあえず声を掛ける。どうやら、ドアノブをガチャガチャいじりながらかなりの体重を預けていたらしく、急に開いたドアに支えを失ったらしい。ルーは、相変わらず不機嫌そうに言った。
「……お――おはよう。開けろとは言ったけど、そんなに突然開けるなよ」
「ごめんなさい。……何のご用でしょう?」
「朝飯の前に、先生とちょっと亜人を見とこうと思ったんだよ。お前が持って行ったってエスが言うから」
「あ! そうです、ちょっと待ってください」
 工房に依頼品が無くては、仕事ができないだろう。ラグは慌ててベッドへ戻ると少年を抱き上げ、ルーに渡した。ルーは彼を軽々と肩に担ぐと、あまり申し訳なくはなさそうに謝った。
「悪ぃな、早くに起こしちまってよ」
「いえ、私もすぐ工房に出ますから結構です。……放って置けなくて。連れて来ちゃってすいませんでした」
「あのな」
「え?」
 聞き返すと、彼はくすぐったそうな表情で天井を見上げた。
「敬語は鳥肌が立つっつーか――丁寧に話されるの、昔から苦手でよ。修行中は対等に、頼むぜ」
「わかりまし――わかった。ごめん」
「うっし。じゃ、また後で。……お前、優しいんだな」
 ルーは頷くと亜人の子をそっと抱え直して、部屋を出て行った。
「……ううん、まだまだだよ」
 ルーには聞こえないところで、ラグは呟いた。

 ルー、エスが見守る中、早速、昨日ラグが徹夜で調べた結果を一つ一つフィスタに見てもらう。『答え合わせ』の時間だ。
 昨日と同様に、作業台には少年が乗っかっている。昨日と違うのは、今日は背中がよく見えるようにうつ伏せに寝かされているところだ。その背中と魔法書とラグのまとめたものとを見比べていたフィスタが、顔を上げてラグに微笑んだ。
「ほとんど、これでいいと思いますよ」
「良かった」
「二、三、間違ってはいましたけどね。……よくできました。あとは、解くだけです」
 フィスタの言葉を聞き、エスがラグと目を合わせてにっこりと微笑んだ。ラグは昨夜の励ましを思い出し、エスの手が触れた肩をぽんぽんと軽く叩いてみせる。
 そんな中、ルーがげんなりとした表情で少年の背中を見ながら言った。
「『規格外』、かなりあるぜ。体力持つのかよ、先生」
「全部を無事にクリアできるかは、保証できかねますが。頑張りますよ」
 初心者のラグには『体力は持つのか』という言葉が何を意味するのか、分からない。魔法陣を解くのにはそんなにエネルギーを使うの、とルーに訊こうと思ったが、フィスタが先に切り出したため質問しそびれてしまった。
「さて、では早速やりましょうか」
 決心したようにそう言って、フィスタは床の上の椅子や工具を片付け、四つん這いで何やら作業をし始めた。床に文字を書き、円を重ね――どうやら、結界を張るようだ。
「何か、お手伝いできることはありますか?」
「いえ。あんまりお願いしてばかりでは、私の仕事がなくなってしまいますよ」
 フィスタが笑いながら言い、ルーも苦笑いして、何か言いたげなラグに声を掛ける。
「放っておけ、とさ。……さ、先生に任せて、俺たちは茶でも飲んで待とうぜ」

 師匠がせっせと準備を進める横で、エスと弟子二人はただただ待っていた。
「先生が働いてるのに、弟子がくつろいでいていいのかな」
「あれは先生にしか出来ねえから、残念だがここで待ってるしかねえよ」
「……どうして結界を?」
「漏れる力を外に出さないためさ」
 ラグは、よく意味が分からず首を傾げた。
「フィスは説明しなかったんですの? 肝心なところが伝わってないんですのね。……ごめんなさい、私もよく分からないです、ルーさん」
 助け船かと思ったエスも、同様に尋ねる。金の髪を掻き上げ、ルーが渋々、という感じで解説し始めた。
「ええとな。魔法陣を解くってことは、簡単に――ま、かなり乱暴に言うと、魔力に魔力をぶつけて陣を壊すってことだ。ぶつけて弾けた力は術者、つまり陣を解こうとした者とか、その周辺に跳ね返る」
 そこで言葉を切り、今正に結界を張りつつあるフィスタをちらりと見やる。
「要するに、周りへのとばっちりを最小限にするために結界を作って、危ない魔力を中に閉じこめるわけ」
「じゃあ、結界の中が危ないよ!」
 行き場を失った力の矛先は、結界の中の先生と、あの少年に向くのではないだろうか。そう訊くと、ルーは椅子の背もたれに寄りかかり、天井を見ながら言った。
「先生はそういう人だからな。しかも、一度結界が張られると、解くことができるのは張った本人か、それより強い力を持った奴だけだぜ。俺らにはどうにもできない」
「そんな。……じゃ、体力がどうとか言ってたのは」
「あんなデタラメな魔法陣を解くんじゃ、先生への負担が大きいだろうと思ってさ。ちょっと気がかりだ」
 ルーの心配――『規格外』『体力』云々と言っていたのは、そういう理由だったのだ。結界についてルーが語ったことは、そのまま魔法陣についても当てはまる。普通の魔法陣ならば、フィスタくらいの腕があれば訳なく解いてしまうだろう。しかし真っ当でない相手なら、使う労力も、有害な魔力も相当だと想像することはたやすい。
「ルー。新人を怖がらせてどうするんですか。そんなに心配しなくても、多分大丈夫ですよ」
 フィスタが立ち上がる。
「いつものことですしねえ。……こっちの準備はできましたが、どうしますか? もう、始めますか?」