みどりのしずく

初仕事【6】

 師匠の魔法を目の当たりにしたラグは、驚きを隠せなかった。フィスタは、魔法陣を詠唱なしで解除し始めたのである。
 通常、魔法を発動するには、力の種類を問わず『詠唱』という段階を踏む。簡単に説明するなら、放出する力を蓄え、魔力をコントロールするのに必要な精神力を高めるため、準備としてなにがしかの言葉を紡ぐことだ。また、唱える内容の大枠だけが決まっていて、細部は人それぞれ、長い時間をかける人もいれば短い人もいる。
 爆発的な魔力を魔法発動時の一瞬のうちに呼び起こすのは至難の業だ。だから詠唱、つまり魔法を発動させようと考えてから実際に魔力を放出するまでが短ければ短いほど、魔法に秀でているとされる。
 しかし、まったく言葉を用いずに魔法を使う人間をラグは初めて見た。フィスタは優秀な機工師であるとともに、技術と魔力を兼ね備えた天才魔導師でもあるのだった。
 解呪は、順調に進んでいた。
 フィスタの手のひらから白い光が不規則なリズムで発せられる。光が強まり、結界の中がまばゆい輝きで満たされるたびに、少年の背中に描かれたいくつもの魔法陣は少しずつではあるが確実に薄くなり、そして消えていった。
 反対に、フィスタの体には傷が増えていく。魔法陣と解呪の力とが相殺し合うたびに、ルーの言うとおり、行き場を失った魔力が小さな爆発を起こしているのだ。そして、その都度フィスタがわずかに表情を歪めた。その爆風も熱も結界の外へは漏れ出してはいないが、痛くないはずがない。
 ラグをはじめ、三人はそんな師匠の奮闘ぶりを身じろぎもせずじっと見つめていた。
「……普通の解呪なら俺だってできるんだ」
 ルーが悔しそうにぽつりと零した。
 ルーとラグは自分たちも結界の中で手伝いたいとフィスタに申し入れたのだが、『あなたたちを危険な目に合わせるわけにはいきません』と、あっさり却下されたのだ。
「何が、今回は『規格外』ですからねえ、だ。頼りにならねえって言やいいだろ」
 ラグはそんなルーをなだめ、唇を噛みしめながら答える。
「ルー、落ち着いてよ。先生は、私たちのこと心配してくれて」
 こんな時に優等生ぶった返事しかできない自分がもどかしい、とラグは思う。本当はラグも、手伝えるものなら手伝いたい。しかし、『今の自分では歯が立たない』ということを昨晩身をもって知ったのが、かえって気持ちを落ち着かせるのに役立っていた。
「……分かってる。悪ぃ」
 彼は、下を向いて拳をきつく握った。
 昼から始めた作業は、陽が傾きだした頃にようやく一段落ついたようだった。
「これで、あらかた解けたはずなんですがねぇ」
 フィスタはそう言って手を休め、何度か深呼吸する。結界の外から、エスがすかさず言った。
「フィスタ、少し休んだ方がいいですわ。今、何か温かい飲み物を持ってきますから」
「ああ、休みません」
「でも」
「すいませんが、少しでも早く終わらせたいので一気にやります」
「顔色があまり良くないですわよ」
「大丈夫ですよ」
 二人とも頑固だ。どう頑張っても優しげな表情を精一杯きつくしながら、フィスタもエスも譲らない。似たもの同士――確実に同じ血が流れてるんだろうな、と思いつつ、ラグはエスに加勢した。
「先生、怪我はいいんですか? ……その、治した方がいいと思いますけど」
「ありがとう、ラグ。でも、そう痛くないですから」
「嘘だろ。やせ我慢じゃねえのか?」
 二人とは対照的に、ルーが鋭い目をさらに厳しくする。先ほどからの様子を見ていれば明らかにルーの言うことが正しいはずなのだが、フィスタの答えは同じだった。
「心配しなくてもいいですよ。……おや、目が覚めましたね。気分はどうですか? 痛いところは?」
 やわらかい口調で、フィスタがにこやかに問う。抱き上げられた少年が、小さなうめき声を上げたのだ。
「……先生」
「や、やりましたのね」
 しかし、弟子二人とエスが歓声を上げようとしたその時、少年は誰もが予想しなかった一言を発した。
「汚い手で触るな」
 そして、少年はまだ自由に動かない体を必死に操って抵抗し始めた。
 事情を飲み込めない結界の外を置き去りに、フィスタは逃げようとする少年の腕を掴んで引き寄せた。少年が、かすれた声で怒鳴った。
「離せよ!」
「……離しませんよ。絶対離しません」
 そう言った先生の顔は、昨日見せた表情――彼は亜人の男の子です、とラグたちに告げた時の怒りを思い出させた。ラグは、鋭い視線に射抜かれるような気がして、かばうように自分の両肩を抱えた。
 フィスタは、めちゃくちゃに暴れる少年をずっと抱き締め続けていた。子供といえどもしっかりと備わっている亜人特有の鋭い爪と牙は、フィスタの体を傷つけた。腕に加え、その背中は服の布地が破れ、うっすらとではあるが確実に赤く染まり始めている。
「私は機工師です。機工師って、分かりますか? ……封印されていたあなたを自由にするために、預かってきたんです」
「そんなこと言って、おれをまた売り飛ばすつもりなんだろ!」
「私たちには、あなたを傷つけるつもりはありません」
 暗い声で、少年が叫ぶ。
「嘘だ! また見せ物にするって言うなら――死んだ方がマシだ!」
 売り飛ばす。
 フィスタ以外の三人は物騒な言葉に息を呑む。一方のフィスタは少年を収めた腕にさらに力を込めると、目を閉じた。二人のやりとりを聞き、フィスタが話さなかった裏の事情と怒りの理由を、三人はやっと――断片的にだが――知ることができた。
 亜人の少年はよからぬ人間たちに騙されて捕らえられ、この街へ見せ物として売られてきた。恐らくフィスタはどこかで彼を見かけ、何か理由を付けて持ち返ってきたのだ。
 そして、少年そっくりの人形を作って持ち主に返し、本物の方は魔法を解いて自由の身に――というのが、きっと今回の仕事。おおむね、そんなところだろう。
 人間を無理やり商売道具にしてしまうなんて、馬鹿げている。ひどすぎる。
「……先生」
 ラグはぼろぼろと涙を零しながら、やっと声を絞り出してそれだけを言った。しかし、後の言葉が続けられない。結界の中のできごとを、自分はただ見ているしかできないのが辛かった。エスが、やはり泣きながらそっとラグを抱き寄せたが、その手は震えていた。
「大丈夫、大丈夫ですから」
 エスのか細い声が、ラグの耳元で小さく響いた。
 少年はラグの声に一瞬だけ結界の外を見たが、フィスタの腕から抜け出そうと再びもがきだした。フィスタはいつもと変わらず、泣き続けるラグを優しく制する。
「ラグ、心配いりませんよ。……困りましたね。泣かないでください」
「そんなこと言ってる場合かよ! 先生、腕がボロボロじゃねえか。早く治さねえと」
 ルーが呻く。一目で分かるほどの傷と、火傷――でたらめな魔法陣を破った反動をまともに受けたフィスタの腕は、ひどい怪我を負っている。しかも、フィスタは解呪に備えて張った結界を解こうとしないため、ラグたちは近寄ることができない。その結界を維持するのにも、魔力と体力が奪われつつあるはずだ。
 にも関わらず、フィスタはそんなそぶりなど少しも見せずに少年を諭し続けていた。
「……おれを売ったヤツらだって、最初は優しいフリをしてた。でも、ちょっと油断した隙に」
「世の中は、そんな奴らばかりじゃないんです」
「いやだ! 騙されるもんか!」
「私たちを信じてください」

 結局、やりとりは平行線を辿ったままだった。
 フィスタは少年が疲れきって眠ってしまうまで説得を続けると、やがて結界を解いた。
「まだすべてを破ったわけではないんです。ただ、みなさんの言うとおり、少し休まないと魔力が続かないですね」
 確かに、少年の背にはまだ魔法陣が残されている。でも、今の先生は一歩踏み出すのにも一苦労、といった雰囲気だ。すぐに仕事を再開するのは無理だろう、とラグは思った。
 少年はフィスタに抱かれたままラグの部屋のベッドへと運ばれ、ラグたち四人は、そこで彼が目覚めるのを待つことになった。

「あいたたた」
 ラグの部屋では、先ほどまでとは一変して、情けない声を上げているフィスタ。
 傷を診たエスが、曇った笑みを浮かべた。どうやら、そうは見えないがかなり怒っているらしい。
「薬だけで手当てするにはひどすぎますわ。やせ我慢もここまできたら大したものです。……でも、回復させるとなると大変ですわよ。特に、腕の方は」
「ほんとだぜ。意地張るからだ。……俺一人の力じゃ治せねえぞ」
 ルーに『ボロボロ』と表現されていた怪我。
 逃げたくない、強くなりたいという一心で、ラグは傷だらけの腕を目を逸らさずに観察した。傷の程度はひどいが、なんとかなるかもしれない。回復系の魔法なら、孤児院にいたころ少し習ったことがあった。
「私も手伝う。今、頑張らないと――初仕事なのに、役に立てないのはイヤだから」
 ルーが、驚いてラグを見る。
「できるのか?」
「うん」
「あー。治してくれるのはありがたいんですが、その前に皆さんに聞きたいことがあります。……いたたた」
 フィスタが、呪文の詠唱に入ろうとしたルーとラグを止めた。
「彼を、うちに引き取ろうと思います。彼には嫌われたみたいですけれど、この子のこれからの生活も、心の傷も、すべて引き受けることになりますが、構いませんか?」
 今回はそこまでが仕事なのだと、ラグにも分かってきていた。答えは、考えるまでもない。
「構いません」
「何を今さら」
「決まりですわね、フィス。……準備するご飯がちょっと増えるくらい、何でもなくてよ」
「エス、そこが問題じゃないと思うぜ」
 エスが少し胸を張ってみせたのが可愛らしくて、ラグとルーは顔を見合わせて笑った。
 エスを見るルーの表情は柔らかく、温かい。相変わらず分かりやすい。
「ありがとうございます」
 三人三様の答えを満足げに聞き、フィスタは弱々しいながらも笑顔で頷いてゆっくり瞳を閉じる。
 直後、フィスタの上体がぐらりと傾いたかと思うと、そのまま椅子から転落した。ルーが素早く抱き留め、床に激突することだけはなんとか回避する。
「だ、大丈夫ですの?」
「ルー、先生は?」
 エスとラグが蒼白になって見つめる中、助け起こしたルーが顔をしかめた。
「あー、こりゃダメだ。完全に気を失ってるよ」