みどりのしずく

初仕事【7】

 倒れたフィスタは、そのまま眠り続けていた。
 仕方がないので、とりあえずはラグとルーとが腕の怪我に回復魔法を施し、エスが薬と包帯で処置をした。始めは直視できなかった傷も、治療のかいあってかなり塞がった。しかし、話しかけても揺すっても一向に目を覚ます気配はない。ルーが言うとおり『気絶』というのが正しいのだろう。
「で、どうする? 俺は、こんな魔法陣を何とかできる自信ねえぞ」
 ベッドの上の少年を横目で見ながら、ルーが呟いた。ラグも、エスも同じ気持ちで顔を見合わせた。フィスタ以外の誰にも、どうにもできないことは火を見るより明らかだった。
 結局、フィスタが目を覚ますまで作業は一時中断。
「さすがに、お疲れでしたのね」
「先生、痩せてるくせになんでこんなに重いんだ。無駄に背が高いとこういうときに困る」
「素直に心配しなよ、ルー」
 さすがに表情を曇らせたエスと、悪態をつくルーとがフィスタを二人がかりで自室へと運ぶために出て行った。ドアが閉じられると、その場には静かな寝息を立てている少年と、見張りのラグだけが残された。

 少年の寝顔を見ていると、さっきの荒れようが嘘のようだ。
 目を覚ましたら、なんと言葉をかけようか。『目が覚めたの?』とか、それとも『落ち着いて』とでも言ったほうがいいのか。さっきのように暴れ出したりしたら、自分では手が付けられないだろう。そうなったら、どうしようか。
 そんなことを考えているうちに、つい声が出てしまったらしい。
「起きてるよ。……お前の声がうるさいせいだ」
 幼い声にはっとしてベッドの上を見ると、体を起こした少年とちょうど目が合った。
「あ、ええと」
「目が覚めちゃったよ」
 頭の中で練習したことは、全然役に立たなかった。戸惑うラグを置き去りに、少年はそう言うとベッドから跳ね起き、部屋の入り口へ向かって駆けだす。
「あっ、待って!」
 ラグは咄嗟に少年に被さるように飛び付くと、逃げようとする彼を背後から抱え込んだまま床の上に転がった。
「離せ!」
「んっ」
 少年の鋭い爪がラグの背中を撫でたかと思うと、生温いものが背中を伝う。
 ――痛い!
 フィスタの酷い怪我を思うと一瞬目の前が暗くなったが、腕の力は緩めない。
 ――ここで頑張らなきゃ、私はきっと一生後悔する。
 最初のうちは小さな体からは想像できないほど強い力で抵抗した彼だったが、負けじと押さえつけるラグに手加減したのか、無理に暴れたりはしなくなった。だからと言って、ラグには彼をどう扱っていいのかは分からない。さっきまでフィスタがしていたように少年をぎゅっと抱きしめると、彼の体がわずかに強ばった。
 温かかった。そして、昨夜触れたときには感じなかった心臓の鼓動が、ラグの体にしっかりと伝わってくる。
 ――先生と私たちの仕事はまだ終わってない。この子の心にも温もりを取り戻さなきゃ、終わらないんだ。
 せっかく止まった涙が再び湧き出し、まだいくつかの魔法陣の残る少年の背中に、雫が落ちた。エスが言ったことが、分かった気がした。私にとってはきっと、この体温が『心に響く何か』だ。
「なんで泣くんだよ!」
 少年が叫んだ。責める声には、未だに棘が残っている。
 彼に信頼されたかった。それだけを思い、ラグは努めて平静を装ってゆっくりと答えた。
「温かいな、って。……もう人形じゃないんだ、良かったって安心したら、つい涙が出て。ごめんなさい」
「俺を人形にしたのはあんたら人間だ! そんなやつらに助けてもらおうなんて、思ってない。勝手に動けなくしたり、元に戻したり。人間なんか、大嫌いだ!」
 少年は畳みかけるように言った。
「人間は、好きになれない?」
「あいつら、村を襲ったから。おれ以外の仲間も何人か捕まった。他の仲間はいったいどうなったのか、わからないし。……許せない」
 村を襲うくらい大がかりな組織が関わっていたとすれば。他の亜人たちも、おそらくは彼と同じように見せ物として売られてしまったのではないだろうか。少年の表情から察するに、どうもラグと同じ事を考えているようだ。
 その仕打ちを謝る術を、ラグは持っていなかった。傷つけられた心を癒すのには、いったいどうすればいいだろう。
 心を閉ざし、小さな体で精一杯周りを拒絶する。それは、遙か昔の自分自身の姿と重なる。私が絶望からはい上がることができたきっかけは、何だっただろうか。
 自分の過去は、あまり語りたくなかった。あの頃のことを思い出すと、必ず左肩が痛み出すからだ。怪我はもう完治しているから、痛いとすれば自分の心の問題のはずなのだ。
 ――でも、こんな小さな痛みなんて、この子に比べたら全然大したことない。
「私も小さい頃、人間なんて嫌いだって思ったこと、あるよ」
「……どうして?」
「私、孤児なの。……家族の命を奪ったのは人間だったし、私も死にかけた」
 自分を落ち着かせるためにひとつ深呼吸をして、背中越しに彼の反応を見る。少年は、さっきフィスタが話しかけていたときよりも落ち着いて聞いてくれているように見えた。
「でも、放っておかれたら死を待つだけだった私を、助けてくれた人もいた。おかげで、私は夢を見つけられたの。ここまで生きて来られたのも、やっぱり人間のおかげ。当たり前のことかもしれないけど、悪い人だけじゃないって、分かって欲しい」
「でも」
「さっきあなたとお話してた先生はちょっと頑張りすぎて、疲れて寝込んじゃってる。そういういい人だって、いるよ」
「悪人は、自分たちのことをいい人だなんて言わないよね。……わかってたんだ、ほんとうは。でも、認めちゃダメだって思った」
 少年は弱々しく息を吐いた。いつの間にか、少年の体の緊張は解けていた。ラグの左肩はやはり痛み出していたが、気にならなかったし、気にしている心の余裕もなかった。
 しばらく考え込んだ後、少年はためらいがちに口を開いた。
「今はいったい、何年?」
 ラグが日付を告げると、彼はがっくりと全身の力を抜いた。
「おれが捕まってから八十年も経ってる。さっきから、ずっと思ってたんだ。ここには、おれの知らないものがありすぎる、って――」
 暴れたり騒いだりはしない。ただ、落ち着いた口調でまるで諦めたかのように話す姿は、やけに大人びている。
 最後、わずかに震えた声に、ラグはそっと少年の顔を覗き込む。視線に気付いて少年が慌てて作った表情は、今にも泣き出しそうな崩れた笑顔だった。ラグが思わず少年を強く抱きしめると、彼は自ら、華奢な腕をラグの首へと回してきた。
「あったかい。やわらかい。……うれしい」
 おずおずと差し出された少年の腕を、ラグは柔らかく握り返す。
「一緒に暮らそう? あなたさえ良ければ、心まであったかくなるまで一緒にいようよ」
「一緒にいたいに決まってる!」
 少年はラグの言葉をかき消すように、そして絞り出すかのように叫んだ。堰を切ったように溢れだした感情は、悲鳴のような叫び声から、やがてすすり泣きへと変わっていった。
「八十年も、ずっと独りでいたんだよ! 誰かに側にいて欲しいに決まってるじゃないか! ……独りがいいはず、ないじゃないか――」
 ラグは少年を優しく抱きとめ、泣きじゃくる彼の背中を静かに撫で続けた。

 やっとのことで泣きやんだ彼は、ラグに抱きついたままで初めて名乗った。
「おれ、カヤナっていいます」
「私は、ライグっていいます。よろしくね」
「よろしく。気持ちはすぐには整理できないと思うけど、でも――努力、するよ」
 カヤナは、初めて笑顔らしい笑顔を見せてくれた。
「あれ? そういえば一度寝てからはあまり暴れなかったね。手加減してくれた?」
「おれ、男だもん。女の子には乱暴なことできないよ。……背中、痛くない? 大丈夫?」
 ラグの問いに、カヤナは上目遣いで見上げると照れくさそうに答えた。荒んだ棘は影を潜め、無垢な表情に戻っている。魔法陣で封印されていたときには見ることができなかった明るいオレンジ色の瞳が、すっきりと晴れ渡り、輝いている。
「こんなの、平気。気にしないで」
 カヤナはほんとにごめんねと謝ると、疲れ切った表情で囁いた。
「ねえ、このまま寝てもいいかな? なんだか、すごく気持ちいいんだ――」

「おや、ラグ。……いったい、何があったんですか?」
「ええと。仲良くなっちゃった、みたいです」
 ルーとエス。そしてやっと気がついたらしく、二人の肩を借りて起きてきたフィスタが戻ってきて目にしたのは、ラグの腕の中で気持ちよさそうに寝息を立てているカヤナの姿だった。