みどりのしずく

初仕事【8】

「本当に、何ともないんですか? どこか調子が悪いとか、痛いとか」
 長身を持て余すように無理やり屈み込み、中腰の姿勢でフィスタが言う。
「大丈夫だってば。さっきから何度も言ってるじゃないか」
 椅子に腰掛けるラグの膝の上にちょこんと乗っかり、カヤナが答えた。何でもない会話だが、その端々にはある種の緊張感が漂う。互いの言葉の裏を探るような、どこか相手を試すような。二人とも、相手との間に薄い布を挟んで接しているようにラグには見えた。
「先生。本人が平気だって言ってんだから、もういいかげんやめてやれよ」
 目の前で幾度となく繰り返されるそんなやりとりに、やや声を荒げてルーが割り込んだ。

 カヤナが再び目を覚ました後、フィスタは怪我を押して作業を再開した。しかし、残りの魔法陣は並はずれて『規格外』だったらしい。
 結局、フィスタの腕をもってしても破ることはできなかった。あるいは、陣を破るのに必要な力が、フィスタの疲れ切った体には残っていなかったのかもしれない。まだまだ初心者のラグでも、消耗しきったフィスタには重すぎる仕事だとたやすく想像がついた。いずれにしてもフィスタが完全回復するまでは、魔法陣破りが中断したままになるのはやむを得ない状況に追い込まれていた。
 その後の会話が、先ほどから延々と続いていたカヤナとフィスタとの押し問答だ。
 カヤナの背中に未だ残る魔法陣の影響がないかどうかをしきりに尋ねるフィスタと、それを真っ向から否定するカヤナ。やりとりを横で聞いていたルーが、ついにしびれを切らしたという構図である。当事者ではないルーが爆発しているのが不思議なところだ。
 だが、ピリピリした空気に、多少遠慮しつつではあるが入り込んでいける彼を、ちょっとだけ羨ましいとも思った。ラグでは、この二人は止められなかっただろう。
 では、どうするべきなのか。
 確かにルーの言うように、カヤナに何の異常もないのであれば今すぐに魔法陣をどうにかする必要はないように思える。一方先生は、これまでの経験から、カヤナの魔法陣は持ち主、つまりカヤナに悪い影響がありそうだと判断したに違いない。
 ラグは、自分の膝の上のカヤナの背中を間近で見つめた。もう服を身につけているので、もちろん直接魔法陣を見ることはできない。
 たとえ体に何の異常もないとしても、くっきりと刻まれた呪縛の証が彼の重荷にならないはずはない、とラグは思うのだった。
 一緒に捕まったであろう仲間達のこと、自分から奪われてしまった八十年間という歳月、脆くて薄っぺらい作り笑い。ラグがかいま見たほんのわずかな時間では計り知れない痛みが、あの小さな背中に降り注いでいるはずなのだ。
 できることなら、すべてきれいに取り去ってあげたい。しかし実際、フィスタでも歯が立たないのでは少し厳しい。『天才機工師』にすらできないことを、他の誰が成し遂げられるというのだろう。
 大きなため息と共に、ラグは目を閉じた。

 エスがおろおろと見守る中、今度はフィスタとルーの議論が続く。いつの間にか、『ピリピリ』は彼らの間に移動していたようだ。
「いくらガキでも、自分の体調がいいか悪いかくらいは判断できるだろ。こいつがいいって言うなら、無理やり悪いところを見つけなくてもいいんじゃねえのか?」
 カヤナを指さしてルーが言えば、フィスタも穏やかに諭す。
「でも、現にこうして魔法陣は消えずにあるわけですからねえ。今は平気でも、あとから何か起きたりしたら、それこそ一大事になるかもしれません。できる限りのことは、やらなくてはいけないと思います」
「とは言ってもな。続きっつったって、そんなボロボロじゃ無理だろ。どうする気なんだ?」
「私の体調が万全でないのがうまくいかない原因のひとつでしょう。私の怪我が治ったらいずれまた――」
「いいんだよ!」
 しばらく黙って会話を聞いていたカヤナが、大声で二人の言葉を遮った。
「……いいんだ。ほんとうに何ともないから」
「でも、後々あなたに何かあったら」
「心配してくれてありがとう。だけど、おれなら大丈夫」
 彼以外の四人が目を丸くして見つめる中、カヤナはか細い声で呟く。
「それに、もう――おれのせいで、先生や他の人が傷ついてくのを見るのは嫌だ」
 カヤナははっきりと言った。さっきラグの腕の中で眠りについたときの無邪気な寝顔とはうって変わって、悲しそうに目を伏せたカヤナ。歳に似つかわしくない陰のある表情は、孤独で悲しい八十年の間に刻まれたものなのだろうか。
 しかし、暗い顔はほんの一瞬だけだった。ぴょこん、とラグの膝から飛び降りると、カヤナは自分の肩越しに背中をのぞき込むような仕草をした。
「だから無理しないで。こんなのは、できそうなときに取ってくれればいいんだから!」
 もう、その声は震えてはいなかった。屈託ない満面の笑みを浮かべ、カヤナはフィスタを見上げた。
「……わかりました」
 やがて、フィスタが苦笑いしながら言った。
「ただ、魔法陣のことを諦めたわけではないですよ。しばらくは様子を見なくてはいけないので、条件付きですからね」
「条件付き?」
 カヤナの笑顔に半ば押し切られたような格好になったが、やはり筋は通したいということだろうか。また何か言われるのか、と思ったのだろう、顔をしかめたカヤナにフィスタはこう答えた。
「あなたが、私たちの家族になること」
「……かぞく?」
 すぐには意味が飲み込めなかったらしく、機械的に繰り返したカヤナ。ラグは、ゆっくりと言い直す。
「さっきも言ったけど、みんなで相談したの。もしよければ、しばらくこの工房で暮らそう? あなたがいたいと思うだけ」
「えっと」
 驚きからか口を半開きにしたカヤナに、フィスタが尋ねた。
「そういうことなんですが、どうですか?」
「ほんとに、いいのか?」
「大丈夫ですわ。ちゃんと三食、私が保証しますから」
 エスが胸の前で腕を組んでみせる。
「さんしょく?」
「ええ。美味しいですわよ」
 カヤナは、また別の驚きに襲われたらしい。ルーがすかさず突っ込む。
「また飯の話かよ、エス」
「いやいや、ご飯は大事ですよ」
「ありがとう。本当に、ありがとう――」
 カヤナは言葉を詰まらせた。その語尾を優しく包むように、フィスタの声が被さった。
「カヤナ、ようこそ工房へ」

 カヤナのために開かれたささやかな歓迎会も終わり、ラグはエスとともに後かたづけに取りかかっていた。
「あとは、カヤナのお人形を作って、預かり元に返すだけですね」
 食器を洗い場に運びながら、ラグは言った。
「フィスとルーさんの腕なら、きっとほんとのカヤナさんとの見分けが付かないくらいのものを仕上げるはずですわ」
「私も、頑張って手伝わなきゃ」
「ラグさん、張り切りすぎてはダメですよ。万一、倒れたりしたら」
 エスはそこで「あ」と短くいい、言葉を切った。
「……そうそう、忘れるところでした。言葉遣いを変えたんですの?」
「あ、そうです。ルーに言われて、修行中は敬語止めてくれって」
「そうでしたか」
 エスは洗い物をする手を止めて何事かを考えていたが、しばらくすると納得したような表情でラグを見つめた。
「……私も、お願いしようかしら」
「何をです?」
「その、言葉です。敬語ではなくて、その――お友達のような感じで」
「え、でも、いいの?」
「ええ、もちろん」
 意外な申し出だった。照れながら話すエスにちょっと見とれたラグだったが、慌てて取り繕う。
「うん、わかった。それがいいのなら、できるだけそうするね」
「嬉しいです。……私のこの言葉遣いはもう染みついてしまっていますから、上手く直せないのですけれど」
 茶化すように大げさに息を吐いたあと、エスは洗い物を再開した。残りの食器を取りに行こうとエスに背を向けたラグは、思い出したことがあって再びエスの横に立った。
「私にも『心に響く』こと、あったよ。エスの言ってたこと、ちょっと分かった」
「そうですか。それは――良かったです」
 エスはにっこり笑うと「ラグさんなら、きっと素敵な機工師になれると信じています」と、淀みなく言った。

 リビングへと戻ったラグは、疲労のためか、椅子に座ったままほぼ気絶の状態で寝ているフィスタ、なぜか酔っぱらってテーブルに突っ伏しているルーを見てしばし呆然とした。
 ――どうするの、この二人。
 エスの応援を頼まないと、いや頼んだとしても、彼らを移動させるのは無理だろう。とりあえず視線をずらして二人を視界の端に追いやると、ソファーに丸くなって転がっているカヤナが目に留まった。
 せめて彼だけでも正常に寝かせてあげようとカヤナを抱き上げる。そして、カヤナを起こさないようにそっと呟いた。
「いつか一人前になったら、あなたの負担を私が取り除くから。……頑張るからね」
 カヤナはその思いを知ってか知らずか、静かに寝息を立てていた。