みどりのしずく

鳴らずの箱【1】

「フィス!」

 フィスタ工房、午後のティータイム。ゆるりと流れる時間に波紋を落とすように、玄関の扉の向こうから女性の声が響き渡った。同時に席を立ったエスとラグよりもやや早く、カヤナが弾むように跳び上がったかと思うと扉まで駆ける。
「一着だよ!」
「カヤナ、早いな」
「まあね!」
 カヤナは出遅れたルーに自慢気に言うと、いらっしゃーい、と力いっぱい重い扉を開けた。
「フィスタ工房でーす」
「フィスは、いる?」
 目の覚めるような鮮烈な赤に、女性にしては少し低めの声。そこに立っていたのは――いや、勝手知ったるといった雰囲気で象牙色のマントを靡かせて工房に入ってきたのは、真紅の髪に真紅の瞳、赤く彩られた唇の若い女性。そして、その後に女の子が一人続き、軽く頭を下げると部屋へと入ってきた。
 お客さまのお迎えをカヤナ一人に任せるわけにはいかないと慌てて駈け寄ったラグだったが、どうやらその心配は無用らしい。
「えっと、先生なら奥に。お呼びします」
「そう、ありがとう。……ちょっと来ないうちにずいぶん人が増えたようだけど、あなたが新しいお弟子さん?」
 赤い女性に気圧され、「はい、そうですが」とラグは曖昧に答える。
「私はフィス、いえフィスタさんとは商売敵なの。いつも仕事を取られて、困っているのよ」
「はあ」
 そんなことを言われても。
 助けを求めてもう一人のお客――ラグと同じくらいの年頃の少女だ――を見るが、こちらは表情を変えず静かに佇んでいるだけ。途方に暮れたラグが、『困るのは私の方です』というセリフを何とか飲み込むのに成功したとき、女性の深刻そうな語り口に似合わない押し殺した笑い声が背後から聞こえた。ラグが驚いて振り向くと、声の主は身体をくの字に折り曲げて肩を震わせているルーだった。
 そのうちに、ついにテトラ自らも吹き出した。ルーが唖然とするラグの肩を大きく揺さぶり、エスまでもが苦笑する。
「あははは、ごめんね。冗談よお」
「せんせ。ラグが怯えてっから、なんとか言ってあげて下さいよ。固まってるじゃないすか」
「もう……ちゃんと説明してあげてください、テトラさん」
 状況が分からないのは、どうやら二人だけ。見回すと、まだ扉の辺りに立ったままのカヤナと目が合った。彼は不満げに口を尖らせたまま、行きと同じように駆け足でラグの傍らへと戻ってきた。ラグの足に後ろから抱きつき、「おねーさん達、誰なのさ?」と咎めるように問う。
「あら」
 こういう時、子供は強い。テトラは眉根を寄せると微笑を浮かべ、ごめんなさいねと詫びた。
 そういえば、『お姉さん』という言葉には聞き覚えがあった。『あの美人のお姉さまの店とかさ』、確かルーがいつか、そんなことを言っていたような気がする。もしかしたら、彼女が?
「テトラ=グラネフです。機工師としてはフィスより少し先輩、まあ仕事仲間というか友人。決して商売敵ではないわ。安心してね。……それから、この子は私のところに住み込みで修行中のリムザ=ランドレカ」
「リムザ、です」
 小鳥がさえずるような美しい声、けれど、とても小さな声。少女が初めて口を開いた。こちらは師匠のような派手さはないけれど、ほぼ黒に見える深い鈍色の瞳が目を引く。落ち着いた雰囲気をまとってはいるが、二つに分けて結わえた栗色の髪が歳相応にかわいらしく揺れていた。
「歳も近いようだし、仲良くしてくれると助かるわ。ええと」
 ラグが慌てて自己紹介すると、カヤナも元気よく「カヤナです!」とテトラを見上げた。テトラに頭を撫でてもらい、機嫌は早くも直ったらしい。
「二人とも、よろしくね。……今日はちょっと込み入った話があってお邪魔したの。悪いけど、フィスタのところに連れて行ってもらえるかしら?」
「お仕事のことですわね。こちらです」
 カヤナを抱えて身動きできないラグの代わりにエスが二人を連れて部屋を出ていくと、ルーは心なしか目を輝かせて感慨深げに言った。
「二人並ぶとほんと、噂通りの美人師弟だなあ」
「噂?」
「ああ。テトラ工房の近所では、みんなそう言ってる」
 赤いという印象がぴったりの、華やかで人目を引く美人。エスが『静』なら、テトラは『動』の面を持った美しさだ。リムザも可憐で、ルーの正直な感想にはラグも同意する。
 ラグの意見をさらに言うならば、兄弟子に限ってはフィスタ工房も美形師弟という言葉で括っても支障はない。その上、今なら漏れなく美形助手の妹までも付いてくる。お客さまが少ないために世間には知られずにいるのが、テトラ工房との違いだろう。身内を誉めすぎるのはあまり良くないが、それにしてももったいないことだ。
 ――口を開いちゃうと、イメージが崩れちゃうけどね。先生はちょっと天然系だし、ルーはちょっと乱暴だし。
「うーわきーものー」
「あ、ああ? 何でそうなるんだよ」
「べーつにぃ。思っただけ」
 カヤナがニヤリと薄笑いを浮かべ、ルーを見た。あからさまに焦っているルーが面白く、ラグも少々悪のりしてルーをからかってみる。
「リムザさんも、かわいいしね」
「お前までか。……勘弁してくれ」
「この前、『お姉さま』ってルーとエスが言ってたのが、テトラ先生のこと?」
「そうそう」
 少々気の毒になり話題を変えると、ルーは渡りに船とばかり逃げ道へと食いついてきた。
「あの二人、昔から仲が良かったらしくて。フィスタ先生が駆け出しの頃にすごく世話になった恩人だって聞いたことあるぜ。何かよく知らねえけどさ」
 ひとしきり盛り上がった後、カヤナが不満げにぼした。
「あ、でも。……小さいお姉さん、全然笑ってくれなかったね。ちょっとつまんなーい」
 それが今回の『仕事』に大きく関わってこようとは、弟子一号と二号はまだ知る由もなかった。

 フィスタは美人師弟を玄関先で見送ったのち、エスとカヤナに他の部屋で遊んでいるよう指示を出した。
「……ということで、仕事の依頼がきましたよ」
 三人だけになり、急に広くなった仕事場でフィスタは唐突に切り出す。
「どういうことなんだよ。だいたい、なんでわざわざウチなんだ? テトラせんせだって、機工師だろ?」
 ルーがすかさず聞き返す。一呼吸遅れて、ラグも気付いた。
「ああ。……そうですよね」
 依頼の内容は分からないが、テトラだって弟子を取ることが許されるほどの腕を持つ機工師。他人に頼まなくとも、大抵のことは自分の工房で何とかできるはずなのだ。
「待ってください、順番に説明しますから。……まず、テトラについて少し説明しましょうか。ラグは初めて会ったでしょうからね」
「はい」
 フィスタの弁によると、テトラはフィスタよりも二年ほど早く工房を開いた先輩機工師。もっとも、付き合いはそれよりもかなり前に遡り、見習い時代からの友人なのだという。その頃のことを思い出したのか、フィスタは珍しく言葉を詰まらせた。
「私が開業したての頃には、自分のところに来た依頼をうちに回してくれたり、いろいろと相談に乗ってくれたりと、かなり助けてもらいましたね」
 今でこそ天才だ、凄腕だと言われる――商才はないらしく、お客はさっぱり来ないが――先生にも、下積みの時代があったのだ。苦しい事があったからこそ、今の先生があるのかもしれない。ラグがしんみりと思いに耽っていると、フィスタは気持ちを切り替えるように明るい声で話を再開した。
「えー、テトラについてはこんなところです。でも今回の依頼主は、一緒に来たお弟子さんのリムザ。彼女の持ち物の修理が、仕事です」
「だから、それをなんでテトラせんせが直さないのかってことだよ」
「それはですね。……聞きたいですか?」
「あーもう、じれったいなあ」
「……やっぱり、教えません。本人から聞いた方がいいでしょう」
 まるで子供同士のようなやりとりにラグは思わず吹き出した。
「実は、依頼品をまだ預かっていないんです。明日にでも、テトラのところに取りに行ってきてもらえますか? ……他の工房を見学してくるのは、ラグにも勉強になるでしょうしね」
「はいはい。そんなことだろうと思ったよ。……仕方ねえ、ラグ。明日はお使いだな」
 結局、依頼品が何なのかは教えてもらえなかった。