みどりのしずく

鳴らずの箱【2】

「あら? どうしたの?」
 工房の玄関で弟子一号と二号を迎えたテトラは、嬉しそうにそう言った。
「フィスタ先生が、テトラ先生のところを見学して来いって。あと、俺らもあまりちゃんと聞いてないんだけど、修理の依頼品? ……リムザさんから、それを預かってくるようにって。お使いです」
「今、お邪魔じゃないですか?」
「ちょうど、一息入れたかったところ。ええっと、立ち話も失礼よね。どうぞ、入って」
 導かれるままに、工房内へと歩みを進める。
「どう? ウチは。フィスのところと比べたら狭いけど、これでも結構快適なのよ」
 テトラはささやかに我が家を自慢した。建物は民家を改造したものらしく、フィスタ工房よりもこぢんまりとした作りだった。どうやら一階が仕事場、二階が居住空間らしい。
 待っていて、と言い置いて赤い後ろ姿は一旦二階へと消えたが、やがてすぐに浮かない顔で工房へと降りてきた。
「ごめんなさいね、せっかく来てもらったんだけど。リム、具合が悪いって部屋で寝ているの」
「それじゃ仕方ないですよ。ほんとは依頼人の話も聞きたいとこだけど、あとからでもいいし」
 ルーはそう答え、ラグに「今日はとりあえず、モノだけ預かって帰りゃ、本人に会えなくても別にいいよな」と同意を求める。
 確かに、現実的には依頼品さえあれば仕事に取りかかることはできる。しかし、『どこが壊れているようだ』『いつ頃から調子が悪い』など、修理の足がかりを得るためには持ち主の話を聞くのがいちばん有効なのだ。ルーの「日を改めてまた来りゃいいさ」という言葉に頷きながら、ラグは昨日のリムザを思い出してみる。口数も少なく暗い表情で、絶好調という様子ではなかった。
「なにか、病気とか……なんですか? 昨日も、体調が悪そうでしたよね」
「あ、うん。……まあね」
 テトラは顔を曇らせたまま言葉を濁したかと思うと、切り替えるように明るい表情で笑う。
「やっぱり、お願いする仕事を説明する前に、リムのことを話さなくちゃいけないわね。……私ができる限りの話なら、お聞かせするわ。お茶、淹れるから座って待っててちょうだいね」

 テトラは、お茶を運んでくるといったん部屋の奥に引っ込み、布でくるまれた小さな包みを大切そうに抱えて再び現れた。テーブルの上に載せたそれを、テトラが丁寧にほどく。やがて中から取り出されたのは、テトラの両手にちょうど収まる大きさの黒い箱。
「これが、依頼品。いったい何だと思う?」
「宝石箱ですか」
「ちが……。そうね、あの子にとってはそうかもしれない。見てみる?」
 なにか言いかけたテトラは言葉を止めて、箱をルーに手渡した。
「開けていいっすか、これ」
「どうぞ」
 頷くテトラを確認して、ルーはそっと蓋を開けた。
「あ」
 同時に、箱は優しいメロディーを奏で始めた。聞き慣れない音の流れはどこかの民族音楽のようで、初めてにもかかわらず懐かしい響きがした。澄んだ音色は身体に染み渡り、目を閉じると生まれ育ったふるさとの思い出が呼び起こされてくる。
「きれいな音。……オルゴールだったんですね。リムザさんがお家から持ってきたんですか?」
 やがて曲が終わり、ラグはテトラを見つめた。
「そうよ。丁寧な仕事の、とってもいい品。リムザはリトリアージュの子じゃないんだけど、ほかの国にもこんな腕ききの機工師がいるのね」
 ラグは、箱を品定めするルーの手元をのぞき込む。彼の手にはちょっと小さそうだが、いったん仕事モードに入るとそんな気配などいっさい感じさせないのだから頭が下がる、とラグは思う。
 深みのある漆黒の塗りはつややかで、よく磨かれ一点の曇りもない。表面には色とりどりの玉(ぎょく)がはめ込まれ、きらきらと輝いていた。その光はあくまで上品で、黒塗りの本体の美しさを引き立てている。さらに一般に売られているものと違うのは、動力源、つまりオルゴールのドラムを回すためのハンドルやネジが見当たらないところだろう。
 ――じゃあ、今はどうして動いたんだろう?
 オルゴールをくるくると手の中で転がしながら、ルーは小声で呟いた。
「なあ、先生。ちゃんと音も鳴るし、どこも壊れてねえ――と、思うんですけど」
 箱の外側、底板の部分になにやら文様が描かれている。魔法陣だ――カヤナの一件を思い出して、ラグは何となく緊張する。
「実はね。これ、あの子が開けると歌わないのよ」
 大きなため息とともにテトラが告げた一言に、ルーとラグは顔を見合わせた。
「じゃあ、やっぱり壊れてるんですよね」
「そういうことになるかもしれない。……どうしてリムが開けたときには音がしないのかを突き止めて、直してほしいの。フィスは、昔からこういう仕事が大得意だからね。きっと、私よりもうまく解決してくれるって思う」
 テトラは照れもせず、まっすぐに後輩を誉めた。

「さて、と。何から話したらいいのかしらね。……リムはが私のところに来たのは、ラグよりも少し遅れて。たぶん、同期って言っていいくらいの時期ね。彼女の出身は、イスフェダ」
「すると、東の山を越えてか」
「そう。あの、魔の山を越えて」
 テトラはやや目を細めて、窓の外をちらりと気にした。ここからはその『魔の山』は見えないけれど、ルーも神妙な顔で同じ窓を向いているところを見ると、地元では常識と言える部類のことなのだろう――そう、ラグは納得した。
「あ、ラグはこのあたりの地理に詳しくねえもんな。この国、リトリアージュと隣のイスフェダ王国との間には、ものすごく険しい山脈があるんだ。寒い時期には厚い雪、それが溶けると深い霧に覆われて、山越えは夏でも命がけ――だから、『魔の山』ってみんな言う」
 ルーが説明を加えてくれる。テトラやルーの驚きの理由は、その道のりの厳しさにあったのだ。それは、一度リトリアージュに来てしまえば故郷へと帰ることすら難しいということも意味し、同時にリムザの決意の固さが汲み取れた。
「じゃあ、さっきの曲はイスフェダの歌なんですね。きれいなメロディーでした」
「そうみたい。何ていう歌なのかまではわからないけど、きっとリムの故郷の民謡なんでしょうね。もちろん、イスフェダにも機工師はいるのよ。こういう仕事ができる職人がね。それでも、リムはどうしても、本場のリトリアージュで勉強したいって言って一人でここに来たの」
 短く揃えた紅い髪を大きな動作で掻き上げながら、テトラはルーの手にあるオルゴールを見つめた。
「あなたも、ずいぶん遠くから来ているってフィスに聞いたわ。ルーも、親元から離れて立派にやってる。みんな偉いわ。……あら、ごめんなさい。ちょっと脱線したわね」
 テトラはラグを見、軽く笑った。ラグはあわてて、いえ、と首を振る。
 この国の出身でもなく、イスフェダにも行ったことのないラグは、件の山道の厳しさも知らない。故郷に、帰りを待っている肉親がいるわけでもない。しかし故郷へは帰らない――帰れない、リムザのその覚悟は感覚的には分かる。
「ここのところのリムの支えは、家族が持たせてくれたこの箱だったの。時間さえあれば箱を眺めて、手に乗せて、音色を聴いてたわ。ところがその音はだんだんかすれていって、やがて鳴らなくなってしまった」
 一人になったとき、寂しいとき、箱を開けてオルゴールを聞くと、遠い国にいる家族が応援してくれる。明日からの力になる。そのはずだったのに――。
「いったいどんな気持ちだったろうな。その、家を出たときとか、これが壊れちまったときとか。俺、家が恋しいとか、そんなこと思ったことねえから、悪いんだけど――正直言ってよくわからねえんだ」
「本当の気持ちは、きっとリムにしか分からないのよ。ルーが気にすることじゃない」
「俺、家に帰りたくねえってのには偽りないし、恥ずかしいとも思ってねえんだよ。でも、客の心が分からないってのは、仕事の大きな障害だろ」
 テトラの励ましを聞き流したらしいルーは、言うだけ言って肩を落としていた。
「……いくら頑張ったって、リムはまだたった十五歳の女の子なのよ。なのにあの子、完全に音がしなくなるまで私に相談すらしてくれなかった。師匠としては、ちょっと寂しいかな」
 それまでうつむいていたテトラが不意に顔を上げた。何気なくその動きを目で追っていた見習い二人は、凛としていた瞳をゆがませた彼女の表情に息を呑んだ。まるで、今まさに激痛に襲われているかのような、どこか怪我でもしているのではないかと思うほど、苦しげな息づかい。昨日、颯爽と工房に現れたテトラと本当に同じ人物なのだろうかと、訝ってしまうほどに。
「あなたたちからも、フィスに伝えて。これが鳴るようになれば、きっとあの子も元気になると思う」
 きっと元気になるのはリムザだけじゃないはず。ラグは、昨日テトラが見せてくれた笑顔を思い出していた。