みどりのしずく

鳴らずの箱【3】

 フィスタ工房への帰り道、ルーとラグはなんとなく無口で歩いていた。
 今日は依頼人のはずのリムザには会えていないが、オルゴールが彼女の中でどれほど広い場所を占めていたのか、本人に聞かなくてもテトラの様子を見れば十分だった。リムザは、そのテトラ以上に気を落としているだろう。
 別れ際、テトラは昨日のような明るさで『お願いするわね』と見送ってくれた。頑張りますと答えたものの、二人にはテトラを振り返って見る勇気はなかった。きっと、無理しているのだと分かっていたから。
「先生、参ってたな。こっちまで落ちこんじまった。……俺が修行を始めたころには、テトラ先生はすでにフィスタ工房に出入りするようになってた。あれから結構経つけど、少なくとも俺が見るときって、テトラ先生はいつでも明るくって強かったんだよ。でも、今日の先生は――その全部をひっくり返しちまったな」
「でも、分かる気がする。リムザさんがテトラ先生に相談できなかったこと」
 ラグがぽつりと呟いた。
「ん?」
「これが壊れて寂しいってテトラ先生に言うの、先生に悪いと思ったんじゃないかな。……難しいよね」
 ラグが自分の持つ包みを少しだけ揺らした。中には、依頼品のオルゴールが入っている。まるでテトラの悲しみが移ったかのように、ラグ自身までもついしょんぼりと下を向いてしまう。
 リムザだって、テトラを悲しませるために悩みを打ち明けなかったわけではないはずだ。しかし確かに、あんなにもリム、リムと一生懸命になってくれる先生がそばにいるのに、家族からもらったものに捕らわれているとは言いにくかったに違いない。そう、ラグは思ったのだ。
「ああ。気を使うのは悪いことじゃねえんだろうが。……ま、身近な人だからこそ言えねえこともあるだろうよ。誰にだって人に言いたくないことはあるもんだ」
 ラグが立ち止まった。合わせて足を止めたルーの顔を、おずおずとのぞき込む。
「それ、さっき家に帰りたいと思ったことないって言ってた……あのこと?」
「あー、あれな。大したことじゃねえんだが、話がややこしいんだ」
「やっぱり聞かない方がいいかな」
「……あまり、気が進まねえな」
「ごめん、詮索して。ちょっと気になったから」
「お前が悪ぃわけじゃねえよ。俺の中の問題だ。……ま、そのうちな」
 そうルーが自分に言い聞かせるように結論したところで、二人は我が家へと到着した。
 ルーが、『フィスタはこういう仕事が得意だ』と言ったテトラの言葉を伝えると、フィスタは「『こういう仕事』というのは、いったいどういう仕事なんでしょう」と苦笑いした。
「そんな期待をかけられているとはねえ」
「そんなって、何だよ」
「本当は、好きなだけなんですけどね。そんな仕事ばかりを選んできているだけなんですが」
「だから」
「今回もその手のことだと、テトラは思っているわけですか」
「……もういいよ」
 先生の徹底した逃げに、さすがのルーも突っ込むのをやめてしまった。ラグにも、『こういう』だとか『そんな』だとかの内容は漠然としか分からない。困り顔の弟子に気づいて、フィスタは笑いながら頭を掻いた。
「すぐに分かると思いますよ。ものを作るだけが機工師の仕事ではない、ということが」

 仕事始め。
 まずは分解してみるのかと思っていたが、フィスタは小箱をそっと自分の手のひらに載せ、蓋を開けた。オルゴールが、さっきテトラ工房で聞いたあの曲を奏で始める。
「ちょっともの悲しいけど、優しい曲でしょう?」
「ああ。いい曲だな」
「これは『芽吹きの谷』といって、イスフェダに伝わる民謡ですよ」
「先生が音楽に詳しいとは思わなかったぜ」
 たとえイスフェダの曲と聞いても、ラグはやはり、生まれ故郷の景色を思い出していた。北国の厳しい冬を耐え、早春に一斉に萌える草木の姿を心に描きながら、曲を聴く。
「では、ルー。持ってみてください」
 やがて曲が最初に戻ると、ルーにオルゴールが手渡された。彼の手の中に収まっても、黒い箱は相変わらず美しい音色を響かせている。
「これ、壊れていないんじゃないでしょうか。曲もちゃんと鳴っているし、箱に傷があるというわけでもないですし」
「鳴って欲しいときに鳴らないのでは、壊れていると言われても仕方がないですよ」
「そういや、テトラ先生も言ってたな。『リムザが開けると歌わない』って。……どういうことなんだ?」
「では、今度はラグ」
「あ、はい」
 『壊れていると言われても仕方がない』というまわりくどい表現にラグはどこか引っかかるものを感じたが、渡された箱に集中しようと慌てて頭の隅に追いやる。ラグの両手の中でも相変わらず歌い続けるオルゴール。なにが不調だというのか、さっぱり分からない。
 ルーが、ラグと同じ――さっき、テトラ工房で生じた疑問をぶつける。
「そういや、これ、動力源は何なんだ? ゼンマイとか、外からはそれらしいものは見えねえけど」
「いい質問ですね。……答えはちょっと待っていてください。それでは一度、私に返してもらえますか?」
 フィスタはいたずらっぽく微笑みながら箱を受け取ると、くるりと後ろを向いた。しばらくの間、ルーとラグに背中を見せていたが、やがて弟子二人に向き直る。なにやら、箱に細工をしていたようだ。
「ラグ。どうぞ持ってみてください」
「あれ? ……鳴りません」
 今度はどうしたことか、うんともすんとも言わない。
「ほんとだ。先生、何をしたんだよ。……壊したか?」
 横でその様子を凝視していたルーが、たまらずラグからオルゴールを取り上げて自分の手に乗せたが、やはり反応はない。
「どうしたんでしょう」
 ラグとルーが揃って師匠を見る。
「では、種明かしをしましょう」
 一部始終を微笑みながら見守っていたフィスタが、口を開いた。