みどりのしずく

鳴らずの箱【4】

「とりあえず、開けてみますからね」
 そう言って、フィスタはオルゴールの上下を逆さにして作業台の上に置いた。工具を手に取るやいなや、相変わらず見事な手さばきで素早く丁寧に底板を外す。すると、外した下から何事もなかったように再び底板が顔を出した。
「あれ?」
「なんだ?」
「……これがオルゴールの部品が取り付けられている板」
 フィスタはそう言ってオルゴールを持ち上げると箱の底――新たに現れた方の底板を指で示した。ラグとルーがのぞき込むのを確認してからオルゴールを逆さのままそっと置き、次いで取り外されたばかりの板を持ち上げる。
「そして、これが今取り外した方。こちらにはオルゴールの部品は取り付けられていないんです。単に、箱の底に蓋をするだけの役目しかしていないわけですね。……こんな風に、二重底になっているんです」
 外された板を箱の底にあてがうと、ぴたりと嵌る。要するに、オルゴールの箱には一枚余分に不必要な底板が取り付けられているのだった。
「その板は、何のために付けられているんですか?」
「さあ、何故でしょうか? ……では、さらに分解してみましょう」

 笑顔で話をはぐらかし、フィスタは作業を続ける。板の四隅のネジを抜き、オルゴールの上下を再び正位置に戻してから箱だけをゆっくりと持ち上げると、作業台の上には、オルゴールのシリンダーやコームなどの細々とした部品が取り付けられた板が残った。
「こちらの方が本来の意味での箱の『底』の役目をしているんです」とフィスタ。
 結果、台の上にはオルゴール箱の外側、オルゴールの機械部分がくっついたままの底板、外側に付けられていた底板の三つの部品が並ぶ。
「二重底だと、どうしてオルゴールが鳴ったり鳴らなかったりするんだ?」
 ルーが顔をしかめる。ラグもつられて眉根を寄せた。分解したのはいいが、謎はさっぱり解けていない。
 今現在示されているヒントは、『あの子が開けると歌わない』『壊れていると言われても仕方がない』という、テトラの回りくどい言葉。そして、二重底のオルゴールに先生が何ごとか細工をしたら鳴らなくなった、という事実のみ。

 二人が黙って立ちつくしているのを見かねたのか、フィスタが口を開いた。
「では、情報を一つあげましょう。さっき、私がどういう仕掛けをしたのだと思いますか?」
「あの短い時間でできるようなこと、ですよね?」
「そうなりますね」
「っつーことは、箱そのものとかオルゴール本体に何かするって時間はなかったから」
「ということは?」
「出来ることといったら、その板をどうにかすることくらいか」
「冴えてますねえ、ルー」
「っつーと、底を取ったり付けたり……?」
 ルーの言葉に、フィスタはにやりと笑った。その表情を見るに、どうやらここまでの推測は外れてはいないらしい。鍵は底板にあるのだ。
 そう整理してしまうと少ない知識を振り絞って考えるよりも、現物を見てみた方が答えに近づけそうな気がして、ラグは申し出た。
「……先生。この外した板、見ていいですか」
「どうぞ」
 もちろん答えを知っているフィスタは、微笑みながら外したばかりの底板を手渡す。
「ありがとうございます」

 薄っぺらい板のはずなのに、依頼品を取り落とさないよう気を使ったせいかずしりとした重みを感じた。オルゴール本体と同様、両面とも黒く塗装されたそれを裏、表と裏返しながら観察する。横からルーも身を乗り出してきた。
「何の変哲もない――よなあ」
「うん」
 いくら見ても仕掛けなど分からない。半ば謎解きをあきらめたラグは、遠い国の機工師の素晴らしい作品に気を取られ始めていた。塗りの下からうっすらと浮き出る木目の凹凸を指でなぞる。オルゴールに取り付けている状態では見えない箱の内側になる部分にまで、ツヤを出すための加工がしっかりと施されている。
「それにしても綺麗」
「俺も見てえ」
「あ、どうぞ」
 ついに試合放棄し、ラグは板をルーに譲った。ルーも本題からはずれ、板をたびたびひっくり返しながらその手触りや塗装の繊細さを確かめる。
「ほんと、こんなのができるようになりた――」
 言いかけたルーが、ふと固まる。
「どうしたの?」
「なんか俺、嫌な予感がする」
 ルーは眉間に皺を寄せ、板の表面を触ったり押したりしながら凝視していた。しばらく何かを探るようにそれを撫でていたが、やがて「先生、ゴーグル貸してくれ」と呟いた。
 フィスタが作業用エプロンのポケットから出したゴーグルを、ルーがすぐに装着する。ラグは詳しくは忘れてしまったが『ゴーグル』とは通称で、実際は何とかかんとか検出用グラス、とかいうものだと大分前にフィスタから習った記憶がある。こんな重要な場面で器具を何に使うのかはもちろん、名前すら思い出せないとは――ラグは自分自身の不甲斐なさに落胆した。その横で、ルーが素っ頓狂な声を上げる。
「ああ、そうか!」
「何?」
「こりゃ、見えないはずだ。……お前も覗いてみろよ。『嫌な予感』の意味が分かるぜ」
 言われるままにルーからゴーグルを受け取る。ラグに向けてかざされた底板をレンズ越しに覗くと、今まで見えなかった円形の図がぼうっと浮かび上がってきた。忘れもしない初仕事で見たもの。それは、カヤナの人生を縛り付け、さんざん三人を振り回した魔の図形によく似ていた。
「……嫌な予感、だね」
 ルーはどうやらカヤナのときの騒動を思い出してそう表現したらしい。うんざり、といった顔でため息を吐いた。
「また魔法陣かよ」
「良くできました。この塗料は普通にしていると見えないんですが、このゴーグルを通すとこんな風に可視の状態になります。ルー、かなり前の講義の内容でしたがよく気づきましたね。デザインを壊さないようにという、最大限の気配りなんですよ。大々的に陣を描いてしまうと、このような工芸品には馴染みませんからね」
 フィスタは笑顔を崩さず、ネタをばらし始めた。ラグもルーも、カヤナの一件で魔法陣に対して悪いイメージが刷り込まれてしまっている。それに気づいたのか、フィスタは慌てて付け加えた。
「大丈夫、今度はあんな趣味の悪いものじゃなくて一般的に良く使われる陣ですよ。覚えておくと役立つでしょう。さて、本題に戻りますね。……魔法陣を描いた塗料が落ちてしまってもすぐに直せるように、こんな風に二重底にしてあるんです。これだけ取り外して陣を書き直せばいいわけですから、楽でしょう?」
「オルゴールの部品が付いた板をわざわざ外すのは面倒だもんな」
「そういえば、さっきちょっと重いような気がした。あれは、この陣に魔力を吸われてる感覚だったんですね。……あの時何で気づかなかったんだろう」
 さっきというのはフィスタからこの底板を受け取ったときである。ラグは確かに、薄さのわりには重い、と思ったのだが、魔法陣には結びつかなかった。
「この魔法陣は術者の魔力を得て効力を発揮します。このオルゴールを持つ人の力を動力にしてドラムが回り、音が鳴るんです。私やルー、ラグは陣を発動させるのに十分な魔力を持っていますから、何の支障もなく鳴りましたよね?」
「じゃあ、魔法を使えない人がこれを持ったらどうなるんですか?」
「試せば分かることですが、魔力の弱い人が持ったときには音が小さくなりますよ。その辺に置いておくときにまで鳴り出したりしたら困りますから、力を感知しなければ動かないように作られているんです。魔法陣はこういうこともできるんです。便利でしょう」
 弟子たちが頷くと、フィスタは「ところで、人間の魔力が落ちるときというのはどんなときか分かりますか?」と、逆に質問を返した。
「体調が悪かったりすると、魔法も使えなくなったりするよな」
「うん。精神的に辛いときも、あまりうまく発動できないみたいです。落ち込んでたりとか」
 ラグの言葉に、ルーが目を見開いた。
「あ。今、リムザがそうだってことなのか?」
「お世辞にも、万全とは言えないようでした。あなたたちも見ましたよね」
 ラグは思い返してみた。師匠のテトラの顔がああも曇るほどの状況なのだ。あの様子では、せっかくリトリアージュに来たというのにリムザはまだ何も得られていないだろう。それどころか、このままの状態が続けば修行の続行も難しくなってくる。しかし祖国に帰るにも、今の彼女にはそのための十分な気力も体力も備わってはいないのではだろうか。
「つまり、オルゴールが壊れたからリムザが気落ちしたのではなくて、リムザの精神的な落ち込みのせいでオルゴールが鳴らなくなったのです。今のリムザには、このオルゴールを鳴らすために必要な力すら残っていないのでしょう。あとは悪循環です」
 見知らぬ土地での心の拠り所が壊れてしまい、本来は懐かしい故郷の思い出のはずのオルゴールを見るたびにますます沈み込む。まるで冷たい底なしの沼にはまったかのようだ。
「機工は幸せのためにあるんです。このオルゴールでリムザが不幸になってはいけない。思い出の品だということですし、リムザのためにもどうにかしてあげたいですね」
「壊れているわけではないんですよね? じゃあ、どうしたらいいんでしょう?」
「でも、テトラ先生は『どうしてリムザが開けたときには音がしないのかを突き止めて、直してほしい』って言ってたよな。やっぱり直す必要はあるってことか?」
「そうですねえ。そもそも壊れていないんですから本来は修理の必要はないんです。……私はこれを直すことではなく、彼女を元気にしてあげることが本当の依頼内容ではないかと思っています。リムザが回復すれば、オルゴールは鳴るわけですから。もちろんテトラはリムザの手前そんなことは言いませんでしたから、こう考えるのは私の単なるお節介なんですけどね。さて、そのためにはどうしたらいいでしょうねえ」
 フィスタはそんなことを話しながらオルゴールの底板を元のように取り付けると、作業用の白い手袋を外す。そして心持ち顎を引いて、弟子二人の顔を見比べながらいたずらっぽく言った。
「これを持って、明日はテトラの工房を訪ねてみようと思います。一緒に来ますよね?」
 こういう顔をするときの先生は何か企んでいる。ルーはこれまでの工房暮らしから、それを身をもって知っていた。
「先生、何考えてるんだ?」
「円満解決の方法ですよ」
 師匠はそう答えると、オルゴールを撫でながら目を細めた。