みどりのしずく

鳴らずの箱【5】

 翌日、ラグは眩しさで目が覚めた。薄目を開けてベッドから手探りでカーテンを引くと、絵に描いたような快晴のもと、刺すような日差しが部屋に飛び込んできた。
 今日は、テトラ工房に行く日。リムザの心もこれくらい晴れたらいいのに、と思う。孤児の自分だから、大切な人に会いたくても会えないという寂しさも、家族のようになろうと頑張っている新しい保護者、テトラにその心細さを言えずにため込んでしまう歯がゆさも、ラグは分かっているつもりだった。
 暖かい愛情を惜しみなく与えてくれる人は何人いたって困らない。何かのきっかけで、リムザが気持ちを切り替えられれば。故郷にもリトリアージュにも家族がいると思えるようになれば、二人とも幸せになれるはずなのだ。
「お姉ちゃん、起きてる? エスお姉さんが、朝ご飯の準備手伝ってって!」
 カヤナの弾んだ声がドアの外から響いて、ラグは我に返った。
 封印が解かれたばかりの頃は沈んだ表情が多かったカヤナも、工房で過ごすようになって明るさを取り戻している。辛い経験がそうさせるのか多少大人びてはいるものの、今ではこの家に欠かせないムードメーカー。
 『きっかけ』をくれるのはいつも、頼れる師匠フィスタなのだ。何を企んでいるのかは分からないが、彼の仕事が上手くいかなかった試しはない。カヤナが安らぎを得られたように、リムザとテトラにもいい結果を運んでくれると信じていれば――。
「おはよう、起きてるよ。今行く!」

 テトラ工房では、相変わらず切なそうな様子のテトラがフィスタ工房の師弟三人組を出迎えてくれた。彼女は開口一番、「これ以上引きこもってしまうようなら、何とかしてご実家に帰そうと思うの」と弱々しく告げた。覇気のない瞳で窓から『魔の山』の方角をぼんやりと望む横顔は、頬が痩けている。
「思い詰めてますね」
「いちばん大事なのは、あの子の身体のことだもの。無理はさせられないわ」
「私は、そういうあなたも心配なんですよ」
 ラグは自分が入る余地もない機工師たちのやりとりに、二人の絆を肌で感じていた。テトラは昨日よりもやや顔色が悪く見えるものの、表情はなんとなく明るい。昨日のように強がりはせず、テトラはしおらしくフィスタに頼っていて――そこでラグはテトラの変化のわけをなんとなく察した。
「大丈夫。なんとかしてみますよ。……はい、これをどうぞ」
 フィスタはにっこりと笑い、小さな包みをテトラに差し出した。テトラは柔らかい布で幾重にもくるまれた依頼品を丁寧に取り出すと、不思議そうに眺めている。
「見た目は、前と全く変わらないみたいだけど」
「はい、それはもちろん。彼女にバレてはいけないのでしょう? ……弱っているリムザさんでも充分鳴らせるように、底板を外して魔法陣を書き換えました。相当に弱い魔力でも反応するはずですよ」
 テトラは頷くとオルゴールを手のひらに乗せた。ブゥン、と幽かに起動音が耳に入ったかと思うと、リムザの故郷の歌が流れ出す。耳元に箱を寄せて曲を最後まで味わい、彼女は「音がするってことは、私はあの子ほど弱ってないのかもね」と憂いた。
「早く、リムにも聞かせてあげたい。……フィスに頼んで良かったわ。今の私じゃこんなにきれいに仕上げられなかったと思う」
「心の状態は指先に出ますからね。困ったときはお互い様ですよ。彼女が元気になった頃に元に戻しますから、またこっそり持ってきてください。それでいいでしょう?」
「そうね。……ありがとう」
「いえ、どういたしまして。ところで、魔法陣の取り扱いについて、いくつか注意が――」

「あのくらいのことなら俺やラグにだってできるのに、なんでわざわざウチの先生に頼んだんだ?」
 ラグが隣を盗み見ると、ルーが訝しげに師匠の背中を見つめていた。
 フィスタはルーとラグの手を借りずにすべての作業を終えていて、どのように修理をしたのかは今の今まで弟子二人にすら内緒だった。どうやら、フィスタが難題をあまりに簡単に解決してしまったことに拍子抜けしているらしい。
 幸いにも大人二人は見習いたちをはすっかり置き去りにして高度な技術論を展開させており、ルーのぼやきは師匠までは届いていない。昨日からの疑問が繰り越して不満そうなルーをなだめようと、ラグは彼の服の袖を引っ張った。
「ルー、顔に出てる」
「わざと出してんだ」
「出過ぎだよ。……きっと、テトラ先生がフィスタ先生に頼みたかったからだよ」
 この手の話題には疎いラグでも、この二人を前にするとなんとなく感じることがある。うちの先生がどう思っているかは読めないけれど、テトラは少なからずフィスタに好意を寄せているとラグは見ていた。こんな深刻な状況でなければ、お似合いの二人だと憧れていたことだろう。
「だから何でだよ」
「たぶん。……直感なんだけど」
 不思議そうに眉を寄せたルーに苦笑しながら耳打ちすると、彼は頭を掻きながら決まり悪そうに二、三度首を縦に振った。
「あの二人ってそうなのかよ? ……それなら、まあ、納得した」
「先生たちに直接確かめたりしないでね」
「いくら俺だってそこまで野暮なことは――多分、しない」
「野暮だって分かってるなら止めときなよ」
 この様子だと、後からまた改めて釘を刺しておいた方がいいかもしれない。ラグが思うに、この兄弟子は自分のことはもちろん、人のことについてもラグ以上に鈍い。

 不熱心な弟子がそんな話をしている間に、フィスタとテトラの話は一区切り着いたようだった。
「さて、と。分かっているとは思いますが私にできるのはここまでですよ。それは、あなたの手で渡してきてください」
 きっぱりと、フィスタはテトラに告げた。言葉だけを聞くと突き放しているかのように思えるものの、彼はいつも通りの柔和な表情を湛えたままなので厳しさは全く感じない。まるで生徒に対する先生のような、小さな子供に物を教えるような丸さで、フィスタは噛んで含めるように彼女に言い聞かせる。
「弟子を取るのは初めてでしょうから、気になるのは分かります。でも、これから末永く彼女と付き合うつもりであれば、変な遠慮はしない方がいいですよ」
「遠慮なんて――」
「らしくないですね、テトラ。師弟という間柄よりも踏み込みたいと願うなら、いつものように正直に、リムザさんにお話ししたらどうです。本当は『家に帰そう』ではなくて、一緒にいて欲しいのでしょう?」
「……でもそれは、私のわがままじゃないのかしら」
「どう考えるかはお客さま次第。残念ながら、人間関係の修復や創造は私の専門外ですから、あなたとリムザさんが二人で決めるんです。ここから先は、ただの機工師が口を挟めることではありません」
 フィスタは顔をやや伏せ、低い声で応えた。赤い瞳はまっすぐにフィスタを捉え、真摯に訴えかける。
「フィスは、私とリムとの距離を縮めるためにこの仕事を受けたの? 最初からそのつもりだったんでしょう?」
「私はそこまでお節介ではありませんよ」
「よく言うわ」
「頼まれたことをこなしただけです」
 笑顔というのは最強のポーカーフェイスかもしれない。とぼけてにこにこ笑い続けるフィスタにしばし目を注ぐと、テトラもぷっと吹き出した。
「じゃあ、そういうことでいいわ。私、勝手に感謝させてもらうから。……あなた達はどうするつもり? 待ってる?」
「いえ、依頼品は無事に受け渡しましたから私たちは帰りますよ。あとは水入らずでどうぞ。……そうだ、これはほんの餞別です」
 フィスタは思い出したように右手をテトラに向けてかざすと、人差し指を軽く振った。その指先からほの白いかすかな光がテトラに降って、ラグはその動作が師匠お得意の『詠唱なし』で発せられた回復魔法だと気付く。目を見開いたテトラに、フィスタは「行ってらっしゃい」と大きく手を振った。
「元気にならないわけにはいかないじゃない。……じゃあ、行くわ」
 身体の疲れを癒す呪文だから、本来は精神的に参っているテトラに対してそれほど効果はないはず。しかし、しっかりと暖かさの込められた魔法を受けたからか、別の理由からか、テトラはラグが知る中でいちばん魅力的な表情で微笑む。
 そのまま迷わずに背中を向けて、彼女はリムザの部屋への階段をゆっくりと踏み出し始めた。

「突然ごめんなさいね。リムとこの間のお礼に伺ったのだけど」
 それから数日後、テトラがリムザを連れて再びフィスタ工房を訪れた。二人は大小の包みを持って狙ったようにお茶の時間に現れ、まずはいい香りが立ち上る大きい包みをエスに手渡した。
「これ、二人で焼いたの。良かったら」
「あら、素敵。嬉しいですわ。では私はお茶の準備でも――カヤナ、手伝っていただける?」
「了解! 早く食べたいから、お手伝いするよ」
 箱の中身は手作りのお菓子らしい。エスがカヤナと共に部屋を出ると、テトラは「気を遣ってもらっちゃったみたいね」と申し訳なさそうに口にした。フィスタがすぐにフォローを入れる。
「仕事の話のときはいつも外してもらってますから気にしなくてもいいですよ。お土産のおかげで自然に人払いができましたし。……リムザさん、お元気そうで何よりです。安心しました」
「お世話になりました」
 リムザは二つに分けて結わえた髪が床を払うのではないかと思うほど深々と頭を下げた。しばらくそのまま固まっていたが、やがてゆっくりと顔を上げてはにかんだ。同性のラグの目をも奪うかわいらしさ。血色も良く、最近まで寝込んでいたとは思えない。
「先生たちのおかげで、見ての通り元気になりました。心からお礼を申し上げます。……このオルゴールを鳴るようにしてくださったのはフィスタ先生だと聞いて、ぜひ直接お礼がしたいと私がわがままを言ったんです」
「それはありがとうございます。気持ち、確かに受け取りましたよ」

 ひととおりの挨拶が済むと、テトラはリムザの背中を叩いて何かを促した。それを受けて、リムザは小さい方の包みをフィスタに差し出す。この前テトラ工房から預かってきた、あのオルゴールとちょうど同じくらいの大きさ。あのサイズはもしかして――とラグとルーが顔を見合わせる中、案の定黒いオルゴールが顔をのぞかせる。
「どうしました? また調子が悪くなってしまったんですか?」
「……リム、お願いがあるんでしょう?」
「はい。何度もお手数をおかけして申し訳ないんですけど、これを元に戻してください」
 オルゴールを改良したことは、リムザには内緒のはずだ。違和感を感じながらも様子を見ようとラグが黙っていると、隣に立っていた兄弟子が一歩前に出た。じっとしていられなかったのだろう。やはりというか何というか、制止しようとしたラグの腕を振り切り、ルーはテトラに抗議する。
「せんせ、喋ったな。……秘密じゃなかったのかよ」
「迷惑かけたのに、ごめんなさいね」
 ルーの突っ込みを受けて、テトラはちょっとだけ舌を出してばつが悪そうに肩をすくめた。それを見たリムザがいくぶん上気した顔で、一生懸命に師を庇う。
「どうして直ったんですかって、私が無理に聞いたんです。先生や皆さんが私のためにこっそり立ち回って下さってたのに、台無しにしてしまいました。ごめんなさい」
「リム。いいのよ、あなたが謝ることじゃない」
「いえ、先生。……私が元気になったことを皆さんにお見せするには、これがいちばんいい方法だと思ったんです。私にはテトラ先生がついてますから、もうオルゴールに頼らなくても大丈夫だってことをお伝えしたかったんです。ここでなら、私は暮らしていけます。……先生は私をあんなに想ってくれて、一生懸命看病してくれて――そんな幸せなことに気づくのに、ずいぶん時間が掛かってしまいました。悔しいです」
 堰を切ったように蕩々と話し続け、リムザはそこでやっと一息ついた。フィスタはリムザの言葉が切れたのを見計らうと、二人の顔を見比べて「うまくいったみたいですね」と顔を綻ばせた。
 いい結果を予想していたとはいえ、憔悴しきっていた彼女たちが打って変わってきらきらした表情を浮かべているのを見ると、こちらまでつられて晴れやかな気持ちになってしまう。フィスタ先生曰く『円満解決』――リムザの自信に満ちた声に、ラグは胸をなで下ろした。
「テトラの言う通りです。謝ることではないですよ、リムザさん。こちらも仕事をしたかいがありました。……これはまたお預かりして、できあがったら連絡を入れましょう」
「よろしくお願いします。……私も、きっと先生たちのような素敵な機工師になります。これからも、ご指導よろしくお願いします」
 リムザは再び深々と頭を垂れた。
 おそらく様子をうかがっていたのだろう。ちょうどそこへ、カヤナが押すお茶の乗ったワゴンが猛スピードで乱入して、工房はいつもよりにぎやかなティータイムを迎えたのだった。

 エスが切り分けてくれた手作りケーキがあらかた無くなったころ、テトラ師弟が帰るというのでラグは見送ろうと一緒にフィスタ工房を出た。ラグは外に出たところでテトラを呼び止める。
「あの、テトラ先生。ちょっといいですか」
「ええ。……リム、先に行っててくれる?」
「そこの角で待ってますね」
 軽く会釈して離れていくリムザを見届けると、テトラは首をかしげた。
「どうしたの、ラグ」
「『こういう仕事が得意だ』の意味、よく分かりました。それだけなんですけど、お伝えしたくて」
「でしょう? ……私はリムともっと近づきたかったし、リムも私の手を待っててくれてた。きっと、二人とも誰かに背中を押してもらいたかったのね。おかげで、リムを抱きしめられたわ。……そんなこと、照れくさくてフィスには言えないけど」
「言わなくても分かってくれてますよ、きっと」
「さあ、どうかしら。……なんと言っても、これが効いたわ」
 テトラは先日のフィスタのように人差し指を軽く振ってみせた。幽かだけれど心強い光、それを受けた彼女の穏やかな表情はラグの目に焼き付いている。頼まれた仕事以上の何かをお客さまに与える――それが師匠のやり方なのだと、ラグは改めて悟った。
「私も、先生方みたいな機工師を目指します。……引き留めてしまってすみませんでした。お二人とも、お身体に気を付けて」
 テトラはありがとう、と笑うとリムザの待つ角まで駆けていった。その飛び跳ねるような後ろ姿に、ラグもこっそり人差し指を振っていた。