みどりのしずく

裏・鳴らずの箱

「少しは食べた?」
「ごめんなさい」
 横たわるリムザに話しかけると、彼女はゆっくりと首を振って申し訳なさそうに俯いた。弟子入り当時はふっくらとしていたはずの頬もだいぶ削げてしまっている。
 用意した昼食はほとんど手がつけられずにベッドサイドに置かれたままだった。近ごろ、一回の食事で食べるのはせいぜい一口程度。やせ細っていくのはだいぶ前から目に見えていたが、それを見守り続ける覚悟は私にはなかった。オルゴールを修理に出すという理由があってもなくても、彼女の身体のことを考えれば、行動を起こさなくてはならない時期に来ていたのだ。
 顔を曇らせてしまった私は気を取り直して、さっき受け取ったばかりのオルゴールを出来る限りの笑顔で掲げた。見た目にはまったく以前と変わらない、黒塗りの箱。注意深くリムザの表情をうかがうが、せっかく帰ってきた宝物を見ても彼女は相変わらずうかない顔のままだ。
「直ったわよ。……私の後輩に依頼したの。いつかも話したわよね、十代で王室付きになった天才機工師がいるって。これ、彼が仕事をこなしてくれたわ。安心してね」
 今のリムザがフィスタの肩書きにどれほど反応するかは別として、『十代でリトリアージュ王室付き』と聞けば機工師に関わる人間なら驚き、同時に目を輝かせるに違いない大出世だ。ただ、肩書きは後から付いてくるもので、彼の凄さを決定づけたのは仕事の質そのもの。その点については身をもって知ってもらうのが一番、つまりはオルゴールを実際目で見て確かめてもらうのがいい。まだ機工師への夢を諦めていないのなら、リムザだってきっと心を動かされるはずだ。
「ねえ、聞いてみない?」
「……はい」
「良かった」
 私が念を押すように尋ねると、彼女は青白い顔のままながらも小さくうなずいた。こんな一歩も今は嬉しい。
 故郷の音楽を聞けば、元気になるかもしれない。当世きっての機工師の仕事を見れば、元気になるかもしれない。すべては仮定だけれどやってみないと何も始まらない。私はそう考えて、フィスタの工房を訪ねたのだから。
「そうそう、さっき、その彼におまじないを教えてもらったの。まず、それを試してからね」
 そして、もしかしたら癒しの魔法がリムザの心にも効くかもしれない。それが、新たに私が試そうと決めた三つ目の仮定だった。
 フィスタのおまじないは、魔術学院では一番最初に習う程度の初級中の初級の回復魔法だったにも関わらず、私には効き過ぎるほどに効いた。一流の機工師の手にかかれば、ただの回復魔法もそれ以上の効果を持つのだろうか。それとも、魔法とは別のところ――言外に込められた彼の優しい気持ちに、私の心が癒されたからなのだろうか。
 気持ち、というならば。
 私は、機工の腕では国一番のフィスタにはとても敵わない。しかし、リムザを思う気持ちなら私がこの国で一番、誰にも負けない。それならば、私にも彼のような魔法が使えるはずだ。
 考え込んで無言になってしまっていた私に、何も知らないリムザはかすれた声で訊く。
「おまじない、ですか?」
「うん。あなたはそのまま、力を抜いて待ってて」
 精一杯の笑顔でそれに答え、集中しようと軽く目を閉じると、リムザのかすかな息づかいのみが耳に届いた。か細いその音を聞いているだけで、胸が締め付けられるような感覚にとらわれる。この工房に来たばかりのころの輝いた表情に戻って欲しい――ただ、それだけなのに。
「光の精霊のご加護を。恵みの輝きを、我が手に」
 目をしっかりと開いて詠唱を始めると、白く輝き出す指先が視界に入った。私はその指を、未だ虚ろな瞳のリムザの額にそっと当てた。
「どうか。……どうか、リムが元気になりますように」
 魔法を介して思いが伝わりますように、という願いを乗せた小さな光の球はやがて大きな輪となり、彼女の頭、そして身体をゆっくりと包んで消えていく。それを見届けたリムザは小さく身震いをすると「少し、身体が温まりました」と淡く微笑んだ。その明るい笑顔で、私は自分の心を改めて認識していた。せっかく繋がった彼女との糸を、ここで切ってしまいたくない自分がいる。
 若干だが顔色が良くなった彼女に、私は前置きをするとゆっくりと話し始めた。
「ちょっと、話を聞いていてね。……今回フィスに頼んだのは、彼ならいい方向に導いてくれるって考えたからもあるんだけど、『私が修理をすることで、あなたが私に借りを作ったなんて思わないように』っていうのが一番の理由だった。私、リムに気を使わせるのが嫌だったのよ」
「気を使うだなんて、そんな。私の方こそ、先生にご迷惑をおかけして」
「それが、気を使うってことよ?」
 私は、思わず苦笑いした。
 貸し借り、気を使う、使わせる――この子とは、そんなもの抜きでやっていきたい。『師弟という間柄よりも踏み込みたいと願うなら』という、背中を押してくれたフィスの声や、その弟子たちの心配そうな顔が浮かんだ。私には、そのために言わなくてはいけないことがあるはずだ。リムに頑張れという前に、まずは私自身が踏ん張らなくては示しがつかない。
 私が笑っているのが不思議なのか、リムはきょとんとしてこちらを見つめている。さっきまでと明らかに表情が違うのを目の当たりにして、私も頬が緩み、同時に勇気も出てきた。
「私、初めての弟子だから必要以上に丁寧に扱いすぎてた。だから、きっとリムもやりにくいところがあったんじゃないかって思うけど、もう遠慮はしないわ。……私、リムが大好きだから、絶対に帰したくないの。あ、変な意味じゃなくて、もちろん家族としてよ? だから、ここに残って修行を続けて欲しい。元気になったら、また一緒に私と機工師を目指さないかな?」
 いつの間にか、かけがえない家族になっていたリム。一旦口を開くと、自分が考えていたよりも必死な思いがあふれ出てきて、頬には涙が伝っていた。泣き笑いというなんとも微妙な顔のままで、私はリムの答えを待った。
「本当は、分かってたんです。……家族も、先生も、私にとっては同じくらいに大事だってこと」
 やがて、リムザは起き上がろうと両手をベッドに突っ張った。身体を支えようと慌てて手を伸ばすと、彼女は「おまじないが効いてますから」と断り、自らの力で身体を起こす。
「私もほんとのこと、言います。……もちろん、家族の顔が見たい気持ちはありますけど、私、先生のことも大好きになっていたから。家に帰りたいって先生に言っちゃったら、きっと傷つくんじゃないかって思って、黙っていました」
 彼女はそれで思い悩み、少しずつ心を病んでいったのだ。私は飛びつくようにリムを抱き締める。リムは、私を小さな身体いっぱいで抱き留めると、くすぐったそうに息を吐いた。
「私には、どっちかだけを選ぶなんてできません。……でも、今いるべきところはここです。私は、先生に色々なことを教えて欲しいです。機工も、そうじゃないことも、たくさん」
 彼女なりの、弟子入り宣言だった。
 この子は、弱い子なんかじゃない。ちょっとだけ助けてあげれば、あとは自分で立ち上がって一人で山を越えていけるんだ。それを一番間近で見ることができるのは、私だけの特権だ。
「ごめんね。今まで、ずっと我慢させちゃって」
「それも、気を使ってますよ。……先生がそんなこと言っちゃ、ダメです」
 耳元で、リムがおかしそうに囁くのが聞こえた。言ったそばからこれでは、先行き不安。私も彼女のために、いや、彼女と一緒に強くならなければいけない。私は慌ててリムから離れると、涙を拭って「そうね」と頷く。
「これ、一緒に聞きましょうか」
「はい!」
 もし、鳴らなかったら――そんな不安は、今の彼女の中にはひとかけらも見えない。
 ベッドサイドに置きっぱなしになっていたオルゴールを、私は手に取った。彼女の家族と、フィスたちの心が詰まったものだ。リムは今となってはこれがなくても大丈夫かもしれないけれど、新たな始まりの記念にしよう。私はリムと二人で、その蓋をゆっくりと開けた。