みどりのしずく

夕焼けと朝焼け【1】

「ただいま帰りました!」
 夕方から出かけていたルーは、夜遅くに戻ってきたときには一人ではなかった。兄弟子の後ろに、焦げ茶色のマントとフードを羽織った小さな人影が控えている。
 頭に被っていたバンダナをほどきながら、ルーは叫んだ。
「ラグ、先生いるか? 酒場ですごいゲストを捕まえてきたぞ!」
 街の中央、最も人間が集まる場所に、酒場『新月亭』はある。酒場とはいっても昼には食堂として営業しているから、住人はもちろん旅人の交流の場として一日中賑やかだ。ルーは週に数回そこで働いているらしく、機工師の仕事や講義がない日は朝から居ないこともたびたびあった。昨日も夜遅くに帰ってきたようにラグは記憶していたが、また今日も出かけていたのか。
「先生を呼んできます。どうぞ、こちらでお待ち下さい」
 ゲストと聞いて、ラグは二人を迎え出ると応接用のスペースへと導いた。頭からすっぽりとフードを被った人影は、横に立ってみるとラグとそう変わらない背丈。顔ははっきりと見ることはできないが、恐らく女性だろう。しかもルーの口振り、すごいゲスト、という言葉からすると、有名人に違いない。
 いや、やめよう。
 フィスタのいないこの場で余計な詮索は禁物だ。お客にソファを勧めると、ラグは「ルーはこっち」と兄弟子の手を引っ張る。
「……何だよ」
「酒場の雑用、まだ続けてたの?」
「雑用?」
「先生に『ルーはお休みの日、どこで働いてるんですか』って聞いたら、『酒場のツケが返せなくて、労働奉仕しているんですよ』って」
「そりゃあ、大嘘だ」
「え、そうなの?」
 ルーは、きょとんとしたラグの顔を見て苦笑した。
「先生の柔らかーい笑顔を見ちまうと、まさか自分が騙されてるとは思わねえんだよな。……機工のこと以外での先生の言い分は信じないほうが得策だぞ。俺も、何度大変な目にあったことか」
 驚くラグに対して、内容は愚痴だが、そんなに大変そうでもない様子でルーは嘆く。
 工房の人間の中でからかったときの反応が最も面白いのは彼だから、フィスタもいじりがいのあるルーばかりを故意に構っているのだろう。少なくとも、ラグがフィスタに『騙された』のはこれが初めてだし、考えてみればこんな些細なことは騙された数には入らないような気がする。
 ルーは肩をすくめるとラグを見やり、いかにも気の毒そうに言った。
「ま、それは信じる方も信じる方だな。俺なら見破れる。だてに付き合いは長くねえし」
「そうなんだ。私、てっきりお給仕とか、掃除とかさせられてると思ってた。……じゃあ、いったい何をしに新月亭に行ってるの?」
「小遣い稼ぎと、社会勉強。あとガクシをやってるよ、一応だけどな。そのうち機会があったら見に来りゃいいさ」
 『ガクシ』が『楽士』のことだと理解してさらに目を見張ったラグに、ルーは「お茶頼む。俺は先生呼んでくるから」と言い残して工房の奥へと消えた。

 フィスタを前に初めてフードを取った客は、ルーと同じくらいの年齢の女性だった。
 彼女はラグが用意したお茶にも手も付けず、ただじっとフィスタが来るのを待っていたのだった。何かに怯えているか、それとも隠れているか。身体を小さく縮めて息をひそめているような――ラグは彼女からそんな印象を受けていた。
「新月亭の歌姫。噂は聞いてるだろ?」
 ルーはそう女性を紹介した。フィスタが相変わらずの微笑を絶やさぬまま、彼女に握手を求める。
「ルーの保護者で機工師、フィスタ=リューズです。アルノルートがお世話になっています。……ようこそ、工房へ」
 フィスタと同様に、マントの中からすっと手を出した歌姫。その薄化粧に彩られた唇から「はじめまして」という言葉が紡がれただけで、その声の美しさにラグは驚天した。
 街で話題の歌姫のことは、世情に疎いラグの耳にさえも入ってきていた。『耳にした者はみな涙せずにはいられない奇跡の歌声』やら、『複数の王が、自国の専属歌手にしようと争奪戦を繰り広げている』やら、尾ひれどころか翼や角まで生えているんじゃなかろうかという大げさな評判――それを、ラグはを半信半疑で聞き流していた。しかし、こうして一言、生の声を聞いたのみで、おそらくその噂が限りなく真実に近いものだったことを悟った。歌を生業にする人というのは、みな生まれながらの美声の持ち主なのだろうか。
 握手が済むと、フィスタとお客はテーブルを挟んでそれぞれソファへと腰を下ろした。見習い二人は師匠のソファの後ろに立ち、話を聞く。隣に壁のように立つルーは、なぜかいつもはしていないはずの眼鏡を掛けていた。どこかで見覚えがあると思ったら、例の『ゴーグル』、つまり『微量魔力及び魔法陣可視検出用グラス』だ。どうして今そんなものをとは考えたが、お客の前で私語をするのも憚られて、ラグは黙り込む。
 座った歌姫はようやくお茶を一口含むと微笑し、名乗った。
「いえ、アルノルートさんにお世話になっているのはこちらの方です。……失礼しました、自己紹介がまだですね。私はアカネ=チドリ。ご存じかもしれませんが流しで歌い手をしておりまして、今は新月亭にご厄介になっています」
 このあたりでは聞いたことがない名前だとラグが考え込んでいると、フィスタがその心を読んだかのように尋ねた。
「東方のご出身ですか。名前もそうですし、言葉も少し東の訛りがあるようですね?」
 アカネは首を横にゆるく振る。金というには少し暗め、琥珀色の長い髪がさらさらと軽い音を立てた。彼女の美声を聞いているうちに、ルーへの疑問などどこかに吹っ飛んでしまっていた。
「いいえ。良く聞かれますが、違うんです。私は、ソラルセンの生まれです」
「おや。ではまた、なぜ、わざわざ東の名を?」
「どうも、名付け親がそちらの出身だったようなんです。……ほんの小さいころに名前と共に今の親に預けられまして、名付け親の男の人とはそれきりです。今となっては、彼の素性もよくわかりません。育ての親が言うには、訪ねてきたときは二人とも顔が煤で汚れていたから、戦災で焼け出されたのだろうと」
 きっと、その『名付け親』もアカネの生みの親ではないと、彼女自身は確信しているのだろう。
 戦渦に巻き込まれて家族と離ればなれになってしまった彼女。ラグは戦災孤児だから少し事情が違うけれど、それまで別世界の存在だと考えていたアカネが似た痛みの経験を持つ人間と知り、距離がぐっと近くなった気がする。勝手な思い込みと言えばそれまでだが、ラグはそれでやっとアカネに話しかけることが出来た。
「敵国の名前、辛い思いをしたんじゃないですか。名前を隠したり、変えたりはしなかったんですか」
「家族や名付け親を捜すために、いちばん有力な手がかりですから。どうしても変えられませんでした」
 ラグが尋ねると、彼女はふわりと笑った。その言葉から、笑顔の裏で、アカネは未だに自分に繋がる者と自分自身を探し求めているのだとラグは悟った。

 自分なりに勉強したことを総動員させて、話を反芻する。ここ数十年の、この大陸周辺の歴史を振り返らなければ、今の会話は理解できないからだ。
 ソラルセンは広大な国土を持ち、人口も多く、この辺りで最も力のある国の一つ。ここリトリアージュの東隣の国だ。そしてアカネの名は、ソラルセンの更に東隣に位置する軍事国家、クシクスで使われる言語の響きだと、フィスタは言った。つまりは、ソラルセン国内での戦闘で家族とはぐれたアカネを、クシクスの人間が保護し、育ての親となった人物に託したということになる。
 つい最近まで、ソラルセンとクシクスの間は戦争状態が続いていた。そのため、休戦した今もなおソラルセンには東の影響を過剰に排除しようという流れがある。敵の言葉の名を持ったアカネには、きっといろいろと苦労があっただろう。
 実は、そういうラグだってクシクスについては詳しくない。なぜなら、ソラルセンを攻めあぐねたクシクスはその後、矛先をラグの故郷に向けたからだ。敵の文化などもってのほか。そんな空気の中、ラグは東の国について多くを教えられることなく育った。そして、その戦いの中で家族を亡くし――。
 東からの脅威は、自分だけではなく、未だたくさんの人々にやりきれない思いを植え付け続けている。

「ラグ、『アカネ』は、夕焼け空の色なんですよ。赤と黄色の中間、でも決して橙ではない、何ともいえない優しい色」
 フィスタの穏やかな声が、ラグを思考の沼から引き上げた。そっと顔を上げると、彼は視線をアカネではなくラグの方へと投げかけている。ラグはそれで、彼が二番弟子の戦争の記憶を思い、心配してくれているのだと気づいた。大丈夫と言う代わりに頷くと、フィスタはにっこりと唇を左右に引いた。
 師匠は機工師という仕事柄、他国の専門書もたくさん読むので、外国語の読み書きもある程度は理解できるのだという。天才というのは、いろいろなことに秀でていて、その上さらに努力も重ねている人のことを言うんだろうな、とラグはフィスタを見ていて思う。
「いいお名前ですね」
「ありがとうございます」
 アカネはフィスタに軽く頭を下げると、礼を述べた。親から貰った名を今日まで大事に守ってきたアカネ。誉められるのは、さぞ嬉しいだろう。
「先生、自己紹介が済んだところで相談なんだけどさ」
 ルーは、一同を見回すと仕切り直すかのように姿勢を正し、切り出した。いつの間にかゴーグルは外されて、紺青の鋭い瞳が露わになっている。
「……アカネさんをうちに泊めてあげることって、できるか?」
 そういえば、どうして彼女が工房に来たのかをまだ聞いていなかった。ラグはてっきり、機工の仕事の依頼だとばかり思いこんでいたが、その予想は大いに外れた。フィスタも、怪訝そうに首を傾げて聞き返す。
「でも、新月亭でお部屋を準備されているのではないですか?」
 アカネは先ほど、新月亭のご厄介に、と言っていたから、酒場の方で彼女を招待したという格好だろう。新月亭は酒場とは別の棟に宿屋も持っているから、当然アカネのための部屋は準備してあるはずだ。それを、なぜルーを頼ってこの工房へ身を寄せたいという話になったのか。
 すると、当のルーが声をひそめて話し出す。
「熱烈なファンがいるらしくて、宿屋の部屋まで押しかけられるんだってよ」
「休んでいると、部屋の外で気配がするんです。中まで踏み込んでくるようなことはこれまではなかったのですけれど、誰かが廊下に来ているようで。朝になってドアを開けると、靴の跡がたくさん残っていたりして、気味が悪くて。……宿屋の方に聞いても、怪しい人は見なかったって言われました」
「こっそり忍び込んでる奴がいるんだと思う。……どうもさ、新月亭のマスターとか宿屋の女将さんは、ほんとに何も知らないっぽいんだけど」
「この街で歌うのも、あと数日と決めています。それまで、一日でもいいので泊めていただけないでしょうか」
 交互に話すルーとアカネを眺めながら、ラグは考え込んだ。
 部屋にまで押しかけるなんて、熱心なファンか、それとも強盗の類か。新月亭はこの街の中でも大きな部類の宿屋で、警備だってしっかり行われているはずだ。それをかいくぐって侵入する人間とは、一体何者なのだろう。
 いずれにしても――例えば純粋にアカネの歌が好きな人間がしてしまったことで、そこに悪意がなかったとしても――本人がこんなに怯えているのだ。逃げるのが最良とは言わないまでも、それでアカネが良しとするのならば、姿が分からない敵からは関わりを絶ってしまった方がいいのかもしれない。
 フィスタは眉を寄せ、頷きながら聞いていたが、やがてパンと両手を合わせてアカネを見た。
「わかりました。……そういうことなら、構いませんよ。幸い、部屋はたくさんありますから。きっと、エスが喜びます。料理の作り甲斐があると言ってね」
 お客が来ると張り切るのは、エスの習性と言っても過言ではない。ラグには、腕まくりをして台所に向かうエスの姿が容易に想像できた。
 アカネの顔から曇りが抜け、ぱっと明るい表情が広がる。それもつかの間、彼女は立ち上がって深々と頭を下げた。
「助かります。ほんとうに、ありがとうございます」
「そんな、やめてくださいよ。ほら、歌姫が泊まった工房なんて、ウチの自慢になるじゃないですか。困ったときはお互い様です。……では、ラグ。早速、アカネさんを――そうですね、あなたの隣の部屋にお通しして。案内、よろしくお願いしますよ」
 フィスタの目配せに、ラグは勢いよく立つとアカネの荷物を手に取った。そう、雑用だって見習いの立派な仕事なのだ。