みどりのしずく

夕焼けと朝焼け【2】

 この工房の建物は元宿屋。部屋だけは有り余っているし、建物自体も五人だけが住むのには広すぎるほどに広い。
 遠慮するアカネの手からやっと荷物を受け取ると、ラグは彼女と二人で長い廊下を歩いていた。マントとフードを脱いだアカネの足下は、歌姫という肩書きには似合わない、がっちりとした革の靴だった。しかも、ずいぶん使い込まれている風情がある。気づいたラグは、靴に目をやりながら「旅をしているんですか?」と尋ねた。
「ええ。名付け親と、本当の親とを捜そうと。……でも、どうにも手がかりが少なすぎて。まだ小さかったからか、生みの親のことも、私を助けてくれたという名付け親のことも、全く覚えていないんです。持っているのは、もらった名前と、これだけです」
 そう言って髪を掻き上げるアカネの右耳には、金の宝玉の付いたイヤリングが光っていた。しかし、金で飾られているのは右だけで、左耳には黒く光る、落ち着いた輝きの別のピアスが二つ。なんだかちぐはぐだとラグが首をひねっていると、彼女自らが説明してくれた。
「この金の宝石、手元にあるのは片方だけで。きっと、左耳の分は名付け親が持っているんだと思います。チドリが、名付け親が自分の耳からイヤリングを外すのを覚えていましたから。……外す瞬間、この石がまばゆく光って、それは美しかった、と」
 チドリ、とはアカネの姓のようだから、おそらくは育ての親のことだろう。なるほど、右耳の派手な金色と比べると、左側の二つはアカネ自身が好みそうな静かな色だ。
 『金のイヤリングを片方だけ持ったクシクス人』――そんな小さな情報しかないのに、彼女はいつ終わるともわからない旅を続けている。先は長そうだな、と不安そうな表情を浮かべたラグに、アカネは笑いかけると明るく言った。
「流れているのは、名付け親を探しているからなんです。この仕事、私には合っているんですよ。……もともと、歌は好きで。私の育ての親もやはり音楽を生業としていて、私も幼い頃から毎日を歌って過ごしていましたから」
 ラグはアカネの話に何か引っかかるものを感じ、思わず半眼になる。それを、アカネは注意深く窺っているようだった。
 彼女が、ラグの顔が曇りがちなのを心配してくれているのは十分に承知していた。何が気にかかったのかは後でじっくり考えればいい。気を遣わなくてはいけないのはこっちの方なのにとラグが慌てて相づちを打つと、アカネはそれを待って先を続けた。
「両親は、私を連れてきた人は『火事からこの子を救い出した』と言い、焦げたクシクスの軍服を着ていたと」
「尋ね人は、軍人ってことですか」
「ええ。……私が実の親とはぐれたと思われるあたりは、今はクシクス領になってしまっているんです。国境は警備が厳重でとてもじゃないけど潜り込めませんから、クシクスに行くのは後回しにして、まずは北に向かおうと思ってるんです。皆さん戦で危ないっておっしゃるんですけどね。その途中、この街に立ち寄って」
 言われてみればそうだ。
 当時、戦争状態にあったソラルセンとクシクス。侵攻されていたソラルセン国内にいるクシクス人なら、軍人である可能性は高い。そして、軍人ならきっと戦地、つまり今は北にいるはずだとアカネは言っているのだ。アカネは歌手だから、軍の慰問ということであれば行った先々で受け入れられやすくなるかもしれない。名付け親捜しもしやすいだろう。
 北の出身として、ラグがアカネに教えたいことはたくさんあった。今日はもう遅い。詳しいことは明日以降話せばいいが、さっきはろくに自己紹介もできなかったから、とりあえず名乗っておこう。ラグはそう思い、口を開いた。
「あの、私、ライグ=ストロンドといいます。アカネさんがこれから行こうとしている、北の出身です」
「あら、本当?」
「はい。ここに来たのはつい最近のことで。クシクスとの戦争で親を亡くして、それまでは孤児院暮らしをしていました。……私にも命の恩人と言える人がいるので、なんとなくお気持ち、わかるような気がして」
「大変だったんでしょうね。ここにたどり着くまで」
「それなりにはいろいろとありましたけど。でも、工房に来てからは昔のことを考える時間も短くなりました」
 アカネがすっかり好きになっていたラグは、あえて自分のことを語る。みんなとの幸せな生活が日常となり、悲しいことを思い出す時間は確実に減ってきていた。その点では、今日は久々に『あのとき』のことをいろいろと考えすぎて、心を酷使してしまっているのかもしれなかった。
 ある意味、今が――見習いとしての日々が忙しいことで癒されている、とも言える。それは、前に歩いているからであって、決して過去を無かったことにしているわけではない。
「わかる。フィスタさんも、アルノルートさんも、いい方だものね。本当に、助かったわ」
 アカネは今回のことにずいぶん恩義を感じているらしく、改めて感謝の意を表した。
 話しながら歩くと、広い工房内の移動もあっという間だった。ラグの部屋の隣が、彼女のしばしのねぐらとなる。ちなみに、ラグの部屋の反対側の隣はルーの部屋だ。
 アカネに鍵を手渡し、荷物を返すと、ラグは胸を叩いて告げた。
「北のことが知りたかったら、ここにいらっしゃる間に何でも聞いてください。私は隣にいます。何か変なことがあったらすぐに教えてくださいね」
「ありがとう、ライグさん。……では、お休みなさい」

 アカネがドアを閉めるまで見届け、振り返ったラグの目の前に、金色の大きな人影が立ちはだかる。見まごうことなく、それは兄弟子の姿だった。柄に似合わずしゅんとして、ルーは所在なさげに頭を掻いている。
「悪い。荷物持つの手伝おうと思って、追いかけてきたんだけどよ。その、何だ」
 聞いてたのと問おうとしたものの、彼の様子を見れば一目瞭然。その悲しげな顔があまりに申し訳なさそうで尋ねるはずの言葉は消え失せ、ラグは思わず笑顔を作ると逆に兄弟子を励ました。
「そんな顔、似合わないよ」
「なんか、声が掛けづらくてさ。……お前の昔のこととか、盗み聞きするつもりはなかったんだ」
 それでも、ルーは伏し目がちにぽつりと呟く。
「それに、今までそうと知らずに、いろいろ気に触ること言ってたかもしれねえとか考えるとよ」
「別に、内緒にするようなことでもないし。気にしてないから」
「でも、今まで言わなかったのは、知られたくなかったからじゃねえのか?」
「ううん、違うよ」
 隠そうとは思っていなかった。昔は、話しているうちについ出てきてしまう弱い自分を他人に見せるのが嫌だったけれど、この工房でならそんな部分もさらけ出していける、そう確信したラグは、いつかはみんなに話そうと考えていた。それが、少し早まっただけだ。
 ラグがそんな意味のことを言うと、ルーは安心したように「そっか」と息を吐いた。彼こそ、自分のことを語りたがらない。それで、立ち聞きしてしまったことを余計に気にかけているのだろうか。
「にしても、東の次は、北だろ? なかなか平和にならないな」
「知ってるんだ、戦争のこと」
「一応な。もちろん、お前やアカネさんみたいに、どす黒い部分は分からないけどさ」
 知識として知っている、といった返事だった。
 リトリアージュに流れる空気が穏やかなことは、ラグが初めてこの国に足を踏み入れたそのときにはっきりと感じたものだった。リトリアージュは代々、王が長命で在位が長いため、内政も外政も非常に安定するのだと言われる。考えてみれば、少なくともルーが生まれてからこの国が戦争を経験したことはないはずで、戦場がいったいどんなものなのかを彼が理解しているはずがないのだ。
 東の次は、北。
 そのルーの言葉に、ラグは再び何かを感じた。それは、先ほどアカネとの会話で引っかかった何かと同様のわだかまりだった。いったい、このモヤモヤしたものは何なのだろう。ラグは違和感の正体を掴むまで身じろぎもせず立ち尽くしていた。やがて捕まえた些細な齟齬――果たして、食い違いといえるものなのかどうかさえも微妙だが――に、やはり突っ立ったまま考え込む。
 ラグの故郷は、アカネの故郷が侵攻された後に東からの攻撃を受けた。そして、アカネはラグよりもいくつか年上に見える。もしそうであれば、親と離ればなれになった年頃はラグもアカネも同じくらいのはずだ。
 ラグが親を失った記憶は、しっかりと脳裏に焼き付けられて残っている。ではなぜ、同じ年頃だったはずのアカネには、その記憶がないのだろう。ラグの頭にぼんやりと浮かんだ疑問は、それだった。
「どうした?」
 ルーに声を掛けられ、ラグは彼の顔を見上げた。月のない夜の空のような深い青の瞳が、不思議そうにこちらを見つめている。そこで、ラグは二つ目の疑問を思い出した。
「今考えてたのとは別なんだけど。ルー、さっきはどうしてゴーグルを――」
 言葉を切ったのは、ルーが人差し指を自分の唇に押し当てていたのが見えたからだった。ルーはごく小さな声で「それは先生の部屋で」と言うと、付いて来い、という仕草をし、先に立って歩き出した。
 囁くような声は普段のルーの印象とはまったく違う。ラグはちょっとだけ驚き、そしてなぜか赤面してしまったが、すぐに彼の後を追った。照れを振り払おうと、話題を変えてみる。
「それにしても、アカネさんってすごくきれいな人だね」
「お前とそんなに変わらないんじゃねえの?」
 素っ気なく恐れ多いことを言うルーの口調は、いつも通りに戻っていた。嘘やお世辞には聞こえないけれど、アカネと自分とが同じ線上に見えるのが本気なんだとしたら審美眼がよほど鈍いか、ものすごく大ざっぱかのどちらかだ。
「全然違うよ」
「ま、キレイなのに越したことはねえだろうけど、それはそれだな。……この国じゃあ、長生きしたもん勝ちってとこもあるからな」
 ルーの、妙に的を射たような言葉に、ラグは何か言い当てられたようでそれきり黙り込んだ。