みどりのしずく

夕焼けと朝焼け【3】

「二人とも、お疲れ様でした」
 ラグとルーがフィスタの自室に入ると、ベッドに掛けるように言われた。フィスタの部屋は、宿屋時代には主人と女将が暮らしていたといい、ラグの部屋よりも若干広い。
 腰を下ろし、まず口を開いたのはルーだった。「やっぱ、あの石には何かあるぜ」と眉間にしわを寄せながら報告すると、フィスタが苦笑いした。
「ルーのことですから、アカネさんが気の毒になって連れ帰ってきただけだと思っていましたよ。……そうでしたか。気になることがあったから、ご招待したわけですね?」
 わずかに皮肉を込め、フィスタは大げさに感心してみせた。恐らくルーは、工房にアカネを入れてから『何か』に気づいたのだろう。居心地悪そうに、いや、とか、それは、とか呟いている。あたふたするルーも面白いけれど、先が気になったラグは助け船を出した。
「何かって、いったい何?」
「ああ」
 ルーは作業用の前掛けのポケットからゴーグルを出すと、天井からの明かりに透かした。
「これで覗いてみたら、右耳の石だけがぼんやり光ってた。あの宝玉に魔力が宿ってるんだと思う。詳しくは分からないけど」
「アカネさんに害をなすようなものに見えましたか」
「俺の判断では、今すぐには問題にならないものだと思う。あれは、攻撃的な魔力じゃねえよ」
「すると、もうすでに彼女に干渉してしまった後か、これから何かが起きるのか。あるいは、何事もなく過ぎるか。……直接、現物を調べればもっといいのでしょうけど、今の材料で私たちで判断できるのはここまでですね」
 機工の国と言われるだけあって、リトリアージュでは魔力が込められたアクセサリーなどその辺の店で普通に売られている。アカネの名付け親がそういったものを買い求めて身につけていた可能性だってあるのだから、いちいち気にしていては身が持たない。しかしラグは、自分がさらなる判断材料を持っていたことを思い出していた。控えめに手を挙げて、ほかの二人の顔を見比べる。
「あの、いいですか。……さっきアカネさんと話したときに、名付け親がイヤリングを外したとき、この石が光ったと聞きました。何か関連があると思います」
 フィスタが、眼鏡の奥で目を見開いたような気がした。それも一瞬で、次には普段のように微笑みを湛えながら問いかける。
「では、ラグに聞きましょう。それはなぜだと考えますか?」
 これは試験だ、とラグは直感した。これまでの勉強の成果を、何食わぬ顔で先生は見たがっている。ラグは軽く目を閉じて、修行で身につけた知識を整理していく。
 物体が発光するのは、そこに何か大きな力が生じたときだ。たとえば雷。金属を打ち合わせて飛び散る火花もそうだろう。
 人間が一番手軽に光を出せるのは、魔法の発動。イヤリングを外すときに光が見えたのなら、アカネの名付け親は金の石に触れながら何らかの力を発したのか、あるいは吸収したのかのどちらかのはずだ。そして、ルーが金の石に今なお籠もる魔力を見たというならば答えは一つに絞られる。
「間違いなく、名付け親さんが魔法を掛けて、アカネさんに託したのだと思います」
 フィスタは表情を崩さず、首を大きく縦に振った。しかし、師匠の言う『なぜ』はその理由まで求めているはずだから、これだけでは回答としては不足だ。
 ラグはそこで、胸につかえていたものを思い出した。そう。気にかかった点は、もう一つあったではないか。
「ごく個人的な経験から考えたことがあります」
 前置きをして、ラグは先ほどのアカネとの会話の中身を伝えた。ラグ自身の両親の思い出は今もくっきりと残っているのに、アカネにはどうやら名付け親と出会う前の記憶が無いようであること。言いながら古傷の痛みに気づき、まずいな、と思ったが、フィスタに認めてもらいたいという思いが先行して、話が止められない。
「忘れようとしても忘れられないことってありますよね。なのにアカネさんは覚えていないと。おかしいな、と思いました。衝撃の大きさに、心が受け入れるのを拒否してるのか、思い出すことに耐えられずに胸の奥に沈めてしまっているのか。それとも、他に何か理由があるのか」
「家族を失った記憶を、金の石のせいで思い出せずにいると?」
「……それはわからないですけど、関係がないとは言い、切れ、ない――」
 聞き返してきたフィスタに答えるラグの声は、震えていた。

  ――もう追ってこないで。
  ――私たちは何も悪いことはしてないのに。
  ――ただ幸せになるためだけに、生きていたのに――。

 アカネが訪れてから何度も開閉を繰り返していたラグの心の蓋はついに閉まりきらなくなり、中身が漏れ出してラグ自身を苛み始めていた。久々に父と母のことを思い返しているうちに、それはどんどん鮮明に蘇り、胸を押しつぶそうとする。
『……どうしてうごかないの、わたしのてもあしも! せめて、やすませてあげたいのに。ほうむってあげたいのに! これじゃ、それさえもできない! おとうさん、おかあさん――』
 記憶の中では、幼い自分が痛みと無力感に襲われながら無言で涙を流していた。両親にかばわれてなお、ラグ自身もひどい怪我を負い身動きがとれなかった。それどころか、喉を焼いたのか声すら満足に出すこともできない。
 父と母から温度が失われていく感覚をはっきりと思い出しながら、ラグの意識はすうっと遠のいていった。

 ぐらりと傾いだ体を抱き留めてくれたのは、どうやら隣に腰掛けていたルーらしかった。
「ラグ! おい!」
「う……」
 慌てて呼びかけるルーの声に、気を失いかけていたラグは呻くように短い声を上げた――ように思う。何が起きているのかはラグにはよく分からなかった。昔のことがぐるぐると頭を巡り、目の前が真っ暗になっていた。
 ルーが気色ばんで師匠に抗議している。
「……先生、無理させすぎ。もうやめてやれよ。今日、こいついろいろ頑張ったからさ」
「ええ。……今日はお開きにしましょう」
 フィスタの手がラグに触れる。その手のひらから淡い光が放たれ、ラグの全身を包み込むように広がっていくと、ラグの頬には温かく血がめぐり始めた。
 ラグが薄く目を開けると、フィスタの魔法が疲労を溶かしていくさまをルーが見ているところだった。いつにも増して凶悪な目つきだな、と思ったところで目蓋の限界が来て、また目を閉じる。
 二人のやりとりが聞こえてくる。自分を抱きかかえてくれているのはルーのはずなのだが、その声もだいぶ遠い。
「先生には予想が付いてただろ? アカネさんもこいつも同じ傷を抱えていると知った時点で、きっとラグも昔の傷を思い出しちまうってこと」
「ええ」
「試したのか、こいつの強さを。だとしたら、気持ちは分かるけど荒療治すぎる」
「そうですか?」
「先生の悪巧みは大抵上手くいくけどさ。……それにしても無防備なやつ」
「ラグはね。……この工房のみんなになら弱い自分を見せてもいいのだそうです。うらやましいですか」
「別にうらやましかねえよ。不用心すぎるんじゃねえの」
「ルーの周りは、何かしら腹に持っている人ばかりですからね」
「ラグは、恐くはねえのかな。信じてもらえなかったらとか、裏切られたらとか、考えねえのか。壁がなさすぎんだろ。ここまで無防備に他人と渡り合うやつ、はじめて見たぜ」
「……そろそろ、魔法も行き渡ったのではないですか」
 やがて、フィスタに促され、ラグはベッドに横たえられた。
「無理しすぎだ。とりあえず休め」
 誰かが小声で言うと、子供を褒めるようにラグの頭を撫でてくれた。ラグはぼんやりした頭で遠い記憶を思い起こしながら、「お父さん」と呟いた。
 そこで、再びラグの意識は途切れた。

 ラグが目を開けると、自分の顔を男二人が覗き込んでいるところだった。慌てて飛び起き、何が起きたのか確認する。
「わ、私、いったいどうしたんですか」
「先生にいじめられて倒れた」
 ルーの身も蓋もない説明に、思わず「ああ」という声が漏れた。恐る恐るフィスタを見ると、当の師匠本人はいつもの微笑で、それでも少しだけ反省をにじませてラグに謝る。
「すみません、ラグ。私が犯人です。……思い出しましたか? 酷なことをしてしまいましたね」
「いえ、先生。取り乱してしまってごめんなさい」
「でも、これだけは」
 師匠が何かを教えてくれようとしていることに、ラグは気づく。
 普段は甲高くも聞こえるフィスタの声が、別人のように落ち着いた低音へと変わっていた。これは、彼が何が大事なことを告げるときの癖なのだ。
「定めに流されるか泳ぎ切るかはあなた方次第です。私は二人に、運命――未来を従える力を持って欲しいと願います。私はそのためなら何をも厭いませんから。……今日はもう、部屋に帰ってゆっくり休んで下さい。続きは明日以降です」
 フィスタは熱っぽく言い切って目を閉じ、嘆息した。
「……それ、俺に言ってるのか。それとも、ラグに?」
「二人に、ですよ」
「逃げるなってことか。ねじ伏せるのは己の力だと――向かってくるものとぶつかり、自分のものにしろってことか」
 フィスタは、掴み所のない笑顔を浮かべているだけだった。

 フィスタの部屋を出て自室の前に戻るまで、ルーはまだふらつくラグの体を支えてくれた。ちょうどラグが自分の部屋のドアに手を掛けたとき、無言だったルーはラグを呼び止めた。
「お前さ」
「ん、なに?」
「先生はああ言ったけど、時が来るまで沈めっぱなしだっていいこともあると思うぜ」
「ありがとう」
 ラグは感謝を込めてそう言うと、「じゃ、お休みなさい」と言い残してドアを閉めた。
 ――大丈夫。沈めずに乗り越える強さも、身につけていかないといけないから。