みどりのしずく

夕焼けと朝焼け【4】

 昨夜は特に何事もなく過ぎた。
 アカネを泊めて明けた朝、ルーと彼女は宿屋を引き払う手続きのために『新月亭』に出かけていった。ラグはフィスタが「気をつけて」と二人を送り出すのを見た後、エスが作りすぎた朝食をカヤナと一緒に片付け、やっと朝の喧噪も一段落付いたところで、工房のドアをノックする音が響いた。
「あ、私が出ます!」
 一番近い位置に立っていたラグは、慌てて玄関へと駆け寄った。こんなに早くから、お客さんだろうか。ラグは少々疑問に思いながらも、ドアに手を掛ける。
「おはようございます、フィスタ工房です」
「どうも」
 向こうから顔を出したのは、フィスタと同じくらいの年頃の青年だった。ルーよりもさらに鋭い切っ先に見える金の瞳に、意志の強そうな雰囲気のある固く結ばれた口元。そして、帽子に隠されてはいるものの、少しだけこぼれ出ている漆黒の髪。
 思わず足がすくんでしまい、ラグは立ちつくした。
 あまり世界に詳しくないラグでさえ、黒い髪が東の国の人々の特徴だということは知りすぎるほどに知っていた。小さい頃、敵だと教え込まれてきたクシクス人の姿に他ならないからだ。
 昨日の今日でクシクス人と会うなんて、できすぎている。何かがおかしい。しかし、たとえばアカネを付け狙っているのが彼だとして、こうして真っ正面から来るだろうか。深夜、こっそり部屋の前まで来るような輩が?
「女が、来ただろう。酒場で歌を歌っていた女。ここに、いるんだろう」
 間違いなく、アカネを探しに来たのだ。
 考えのまとまらないラグに青年はそう凄むと、ドアを押し開け、工房へと一歩足を踏み入れた。無駄な動きがない身のこなしは、まるで軍人のようだ。その腰には、長めの鞘に収められた細身の剣。そして、それを思うがままに振るうための無駄のない筋肉。剣も肉体も鍛えられ、使い込まれていると一目で分かる。
 ラグの背中で、ぱたぱたと足音が聞こえる。おそらくはエスかカヤナかが、フィスタを呼びに行ったのだろう。あと少し持ちこたえれば、先生が来てくれる。
 ――怖い。けれど、目の前にいるのはただのクシクス人だ。
 ――ここは戦場じゃない。彼は、私に危害を加えようとしているわけではない。そして、私は――。
「わ――私はライグ。機工師見習いです」
「きこうし? 何だ、それは」
「この国では、魔術と工学を修めた者をそう呼びます。ここは機工の店。人捜しは請け負っていません。……機工のお仕事の依頼であれば私がお聞きします。そうでないのなら、師匠が来るまでお待ち下さい」
 ――そう、しっかりしなくちゃ。私は機工師なんだ。
 一度名乗ったら、自分でも驚くほどに気分が落ち着いた。端くれとはいえ、機工師としての誇りか意地のようなものが、ラグの中には芽生え始めているようだった。
 青年はいくぶん表情を緩め、少しだけ口角を上げた。
「悪いが、こっちの言葉はよく分からず、看板が読めなかった。建物が大きいので、宿かと思ったんだ」
 確かにあまり上手ではない西の言葉。たどたどしさが前面に出ているが、それでも意志を伝えようと苦労している姿には誠実さも感じられる。クシクス人だという先入観や、第一印象が悪かったことを引っ張らなければ、意外にまともだ。
 ラグが少々反省していると、ちょうどそこでフィスタが駆けつけてきた。彼は何気ない身のこなしでラグと青年の間に自身の身体を割り込ませ、相手を見下ろす。優しい声が、ラグの頭上から降ってきた。
「……一人にしてすみませんでしたね、ラグ」
「いえ、私は何も――」
 庇ってもらってようやく緊張が解けたラグは、改めて青年を盗み見た。上背ではフィスタの方がやや勝るが、体力勝負になればおそらく一瞬で負けてしまうだろう。しかし、先生には誰にも負けない機工の腕がある。
 青年の顔が再びこわばった。
「何だ、あんた」
「この工房の責任者です。……帯剣しているのなら、人のことを尋ねる前にまずあなたが名乗りなさい。こちらにもいろいろ事情がありましてね。手荒いことはしたくないんですが」
 フィスタがきっぱりと言い、右手を目の高さに掲げるとすっと前に出した。攻撃魔法の構え。ラグが工房に住み込んでからというもの、師匠が魔法をこのように使おうとする姿を見たことはなかった。いつも以上の警戒ぶりを見せているのがひしひしと伝わってくる。
 そう言えば、いつの間にかエスとカヤナの姿が居間から消えていた。フィスタが奥の部屋にでも隠れさせたのだろうか。
 青年は自分の腰の剣に一瞬目を落とすと、革製のベルトから潔く鞘ごと外し、床に置いた。ごとり、と重く硬質な音がする。
「失礼。このように、抜く気はないから安心して欲しい」
 彼は両手に何も持っていない様子をこちらに示し、続けた。
「剣は職業柄、身につけていないと落ち着かないというだけだ。それに、急いでいるため、つい乱暴に。……アカツキ=タチバナ。傭兵をしている」
 ラグの見立て――アカツキの見事な体は、闘う人間のものだという予想――は当たっていたと言えた。傭兵という仕事は、この国内ではあまりなじみがないものではあったが、大きな館や酒場などでは、警備要員や用心棒として腕の立つ人間を雇うことも少なくない。彼も、恐らくはそうなのだろう。
 こちらの言うとおりにしてくれたアカツキに警戒をやや解きながらも、フィスタは慎重に尋ねる。
「フィスタ=リューズ。この家のあるじです。ここには、何をしに?」
「旅をしながら、人を探している。……酒場の歌姫と、話がしたいんだが」
 頷いて、アカツキは素直に答えた。旅をしながらの人探し――つい昨日、誰かから聞いたような答えに、フィスタとラグは思わず顔を見合わせた。

 一方その頃、用事を終えてアカネとともに新月亭を出たルーは、後を付けてくる人間の気配を聞き取っていた。たぶん、新月亭を出た時から尾行されていたのだろうが、うかつなことにそのときは気がつかなかった。今さら悔やんでも取り返しは付かない。
 不自然に殺された足音は、恐らく三人以上。いったい、全部で何人いるのかは分からなかった。
「アカネさん、驚かずに、表情を動かさずに聞いてくれ。誰かに付けられてる。それも、複数に」
「は、はい」
「路地が入り組んでる方に入って行って捲いてみる。俺が合図したら、俺に付いて走ってくれ。……疲れたら手を引いてやるから、心配しないで」
「はい」
 二度目には、アカネは迷うことなく頷いていた。一人旅が長いからだろうか、それとも自分が狙われているとしっかり自覚しているからだろうか。線が細く見えるわりに根性の座った女性で助かる。
 昔いろいろあって、ルーが人に追われるのは初めてではない。そうだといっても、追われることや逃げることに慣れているわけでは決してなかった。
 ルーは、懐に入れた革袋と、腰に履いた短剣を確かめた。
『何もないことを祈っていますが、一応持って行って下さい』
 出掛けに師匠から渡された革袋の中身は、フィスタ特製の閃光弾と煙幕弾、それに催涙弾。ずいぶん物騒なものを持たせるものだと半ば呆れていたルーだが、使わざるを得ない状況は背後に迫っているようだった。
 短剣は、フィスタの言葉を聞いて念には念を入れようと、自らが愛用しているものを身につけてきていた。万が一捲くのに失敗しても、剣の腕には自信がある。腕がなまっていなければ、アカネを庇ってもなお数人程度なら相手にできるはずだ。
 大丈夫だ、と小声で呟き、ルーは小さな店や家が立ち並ぶ古くからの町並みへと歩を進めた。

 通りから人気がなくなったと思うと、相手はすぐに姿を現した。灰色の外套をまとった大柄な人影が六つ、狭い路地を塞ぐようにルーとアカネを音もなく取り囲む。みな、深々と帽子を被り、人相はよく分からない。
 こんなにすぐ行動に移されちゃ、捲く余裕なんてないじゃないか。胸の中で毒づき、アカネを背に隠しながら、ルーは彼らと向かい合った。
「男、先日我らの邪魔をしたのは、お前か。おかげで一人、左手を落とす羽目になったぞ」
 囲みの中の一人が、訳の分からないことをルーに言った。アカネをかくまったことを指しているのであれば邪魔と言われても仕方がないが、誰かを病院送りにした記憶はない。勘違いで襲われるんじゃたまったもんじゃない、とルーは聞き返す。
「いったい何のことだ」
「宿屋で待ち伏せていたのは、お前ではないのか」
 やはり、ルー自身に全く思い当たる節はなかった。『宿屋』というのは、新月亭のことだろう。では、彼ら以外にもアカネを訪ねてこようとした人物がいるとでもいうのか。そいつとこいつらが彼女の部屋の前で鉢合わせして、戦ったということか。
「知らねえよ」
「なに?」
 いくら聞かれても、心当たりはない。ルーがもう一度、知らない、と繰り返すと、相手はふん、と鼻で笑った。
「まあいい。……用があるのは女だ。男、今逃げれば怪我をせずにすむ」
「そんなこと、できるわけねえだろ」
「では、覚悟するのだな」
 その答えを見透かしていたのだろう。敵はそれぞれ得物を構え直し、囲みを縮めるためににじり寄ってくる。ルーも、本意ではないながらも自分の武器を抜いた。そしてルーの後ろにいるアカネも、護身用に持っていたのだろうか、小さなナイフを構える。
 それを見て、ルーの顔は曇った。
 女性を見捨てて逃げるなんて騎士道は知らないから、彼女を守るという自分の選択は間違ってはいないはずだとは思う。しかし、女性に武器を持たせるのはどうなんだ。
 戦災孤児だというラグだってそうだ。昨日、気を失っている間、彼女が『お父さん、お母さん』とうわごとのように小さく漏らしていたのを、ルーはやるせない思いで聞いていた。あいつは、両親が死ぬところを見ていたのだろうか。まだほんの小さかっただろうに、いったいどれだけの血を見たのだろうか。
 傷付いたり傷つけたり、悪くすれば殺し合うなんて――もしくはそれを見せるなんてこと、女子供にはさせちゃいけねえだろう。俺がやるべきは、一つ。自分の縄張りで、好き勝手はさせねえ。
 すっきりとした頭で、ルーはアカネを振り返って告げた。
「汚いことは俺が引き受けるから、アカネさんは何もしなくていい。何も気にするなよ。自分の目の前だけ見て、身を守るのを最優先にしてくれ」
 アカネが、無言で頷く。一瞬でも隙を作ることができたら、あとは煙幕弾を投げて逃げる。それだけを考え、ルーは自分たちを囲む人垣を崩すため跳躍した。
 まず、男のうち一人が振り上げた剣を、両手で構えた短剣で受け止め、力の限り押し返す。強いはね上げに男がたまらず取り落としたのは、刀身が反った細身の長剣。リトリア−ジュには使い手がほとんどいないこの剣は、東の国の伝統的な武器だ。
「お前ら、クシクス人か!」
 問いには、誰も答えなかった。沈黙が何よりの回答だとルーは思いつつ、丸腰になった男の腹へ肘をめり込ませる。そして、落ちた相手の武器を遠くへ蹴り飛ばし、次の敵へ。
 ルーが二人目を倒したところで、さっきルーに覚悟しろと言った男――この一団のまとめ役らしい――の声がした。
「こいつ、腕が立つ。油断するな!」
 どうやら、自分の剣技もまだまだ通用するらしい。それも、まあ当たり前だ。なにせ騎士団副長、鬼のジラデン仕込みの剣だ。あっけなく倒されたとあっては、彼の顔に泥を塗ることになってしまう。
 三人目に取りかかる――とそこで、ルーの視界の端によろけるアカネの姿が映った。
「何するの!」
 男が、アカネの腕からナイフをたたき落としたところだった。彼女を力任せに押さえつけようと、さらに男が一人、彼女の元へ走った。二人がかりで束縛されながらも、アカネはナイフを拾おうと身をよじり、足下へと必死に手を伸ばす。
 例えばアカネの手がナイフを再び握り直したとしたら、彼女は男たちにその刃を突き立てるのだろうか。 そんなの見たくない。俺がいるこの場で、そんなことはさせない。
「その手を放せ!」
 ルーは三人目との勝負を放り出すと、迷わずアカネへと駆け寄った。
 アカネを戒めようとしていた男たちは、今度はルーへ向かって剣を振り上げてきた。ルーは、一方の男の空いていた懐に踏み出すと脇のあたりを斬りつけ、返した剣でもう一人の脛のあたりを払う。
「これで四人!」
 今だ。
 痛みに叫びながら膝をつく男たちに向かって、ルーは閃光弾を投げた。強烈な光に目がくらんだ奴らが立ちすくむところに、さらに煙幕弾を投げつける。湧き上がった乳白色の煙の中で男たちの怒号が飛び交うのが聞こえるが、ルーは無視して剣を鞘に収めるとアカネの手を掴み、言うより早く走り出した。汗に濡れた冷たい手だった。
「逃げるぞ!」
「はい」
 そうは返事をしたものの、アカネの足はそう速くはないようで、すぐに男たちとの距離は詰まり始める。あと数歩でアカネへと追っ手の手が届いてしまう。フィスタから貰った道具はまだあるにはあるが、残りはわずかだ。ここで使って、逃げ切るか。それとも、最後の最後に切り札として使うために温存するか。
「いや!」
 逡巡するルーの手の中から、そう叫んだアカネの手がすり抜けた。後ろを振り返った彼女は、あまりに接近していた追っ手に驚いて足を止めてしまっていた。ルーは残りの煙幕弾と催涙弾をまとめてすべて放り投げると、再びアカネの手を引く。
 しかし、あまりに距離がなさすぎた。煙の中から、アカネを捕らえようとたくさんの手が伸ばされる。
「だめだ、走れ、アカネさん!」
「いや!」

 耳元で、ごう、と音がした。

「やめて! 私に触らないで!」
 ごうごうと鳴る追い風の中で、アカネの声だけが妙に響く。奴らの手がアカネに触れるか触れないかというその瞬間、突如、強烈な風が吹き始めたのだった。ルーがいつも頭に巻いているバンダナが飛ばされて空高く舞い、金の髪が風に弄ばれて光る。
 それを掴もうと手を伸ばす間もなく、ルーはアカネと共に風に追い立てられて走りに走っていた。すっかり疲れた体と心でも、追い風に煽られることで正に足が『飛ぶように』進む。アカネも、もう振り返ることはなかった。足を動かさなければ転んで捕まると、身をもって知ったのだろう。それを思うと、ルーは少し心が痛んだ。
 ルーが暴風に耐えながら体を後方にひねると、さっきの男たちは突然のことに呆然とこちらを見送っていた。あの辺りには、風は波及していないらしい。
「何だか分からねえが、助かった。……頼むから、もう追ってくるなよ!」
 祈るように口の中で呟きつつ、ルーは走り続けた。

 風がようやく止んだ頃には、フィスタ工房はもう目と鼻の先。二人はふらふらになりながらも何とか逃げ切って、倒れるように工房になだれ込んだ。
 ――そこに、新たな問題が待ち構えているとも知らず。